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2015年10月20日火曜日

シンクタンクとメディアの意見交換会に垣間見た日本の縮図(問題点)

 私は、1952年生まれ。1970年18歳で自動車免許を取得し、自動車運転歴は45年を数えた。免許取得前年は70年安保の騒乱の時。高校時代は3年の3学期までボールを蹴るサッカー小僧で、当然のことながらノンポリ。同級生に"どかヘル/角棒"にかぶれた者もいたが、抱いたのは違和感だけだった。

 運だけはいいようで、職員会議(留年対象)の常連だったのに大学入試はストレートで合格。専大法科。神田神保町の校舎は今とは違い古びたボロで、実家に近い生田グラウンドが体育の授業の場だった。

 サッカーの継続を希望したが、"詰め襟『押忍』" の体育会にどうしても抵抗があり諦めた。18歳、63になった現在の自分など想像できるはずもなく、未来は厚い靄の向こう。ヴィジョンもなく、身を以て触れられるモノだけを信じる他はない。

 高校同級のヤナギサワは、今も音楽が生活の一部にあるメジャーデビュー経験のあるミュージシャン。3年通った大学をドロップアウトするまではしばしツルんで4弦を弾いたこともある。しかし(これは違うな)の念が湧いたハタチの頃、バイト先のGS(ガソリンスタンド)で一冊のカッパノベルと出会い自動車レースに目が向いた。

 GSの元売りがスポンサーとなっていた関係で、当時のスターレーサー生沢徹の『デッドヒート』が送られてきて、たまたまそれを目にして憧れた。著名な生沢朗画伯の御曹司。私とは背景が雲泥の差であり、こちらに可能性などあるはずもない。

 今ならそう気付けるが、基本的に若さは馬鹿さである。20歳のスタートアップは遅く、GSのバイト代が資金では知れている。3年を要して貯めた100万円はマシン製作に取りかかると3日で消えた。

 高校同級で生徒会長だったヨコヤマがGSのバイトの紹介者。整備士を志していた彼をチーフメカニックにした素人でチームを組み、GSのガレージでマシンを仕立て富士フレッシュマンレースを皮切りに参戦を始めた。

 マシンは、当時かぎられた入門カテゴリーのTS1300の定番サニークーペ(B110)。OHVの1298㏄で8500rpmは楽に回り、究極は165馬力まで行ったが、ビギナーの私の東名チューンは140馬力から始まった。公認車重は645kgであり、比出力5kg/psを切るパフォーマンスは今なお伝説として残る。

 資金作りのバイトに励む中、1973年10月に第4次中東戦争が勃発。それをきっかけにスーパーマーケットからトイレットペーパーが消えた第一次石油危機の大混乱が訪れる。GSにガソリンを求める行列ができ、「10ℓしか売れません」と言ってはドヤされた。

 悪いことは重なるもので、同年11月富士GCレース最終戦で中野雅晴、翌年6月の同第2戦で風戸裕、鈴木誠一が何れも焼死によって命を落とす不幸が続いた。6月2日のGC第2戦には、亡父を伴い観戦に出掛けた。

 好き放題させてもらって、いろいろ迷惑掛けっぱなし。申し訳なさもっあって、一度やりたいことを見てもらおうと考えた。そこで見た紅蓮の炎が立ち上がる大惨事。「お前、これをやるのか?」父から発せられた一言が今も耳に残る。

 デビューレースは1975年の10月だったか。富士フレッシュマンレースで、結果はバッテリーが外れて(笑)リタイア。予選はトップ10には入っていたと思う。翌年もフレッシュマンシリーズ。5戦ほど出て、2、3位はあったが優勝は叶わなかった。

 1977年は印象に残る。6月4日の富士スピードウェイ。JAF富士GPのTS1300レース決勝で3位表彰台を得る。スタート直後にクラッチをバーストさせたマシンがあり、その破片を踏んだ上位が脱落してのタナボタだが、リザルトには間違いない。

 翌78年8月までなんとかチャレンジを続けたが、これ以上を求めるには資金が絶望的に不足した。足かけ4年間で600万円ほど稼いでは使った。振り返れば「よく続いたもんだ」であるが、もちろん続けたかったのは山々だ。

 今思うと漫画だが、当時は本気も本気。メモ書きに”F1を追い続ける!”なんて記している。こういう若いバカが夢中になってやっていると、気にしてくれる人も現れる。

 GSのお客に異なる自動車専門誌の編集者が二人。それぞれが声をかけてくれ、私の雑誌デビューはライター稼業に入る前の1977年(その後一度も仕事に関わったことがない、いやあるか)CARTOPモノグラ3ページ。ライターではなく、レーサーとしての登場だった。

 「これからはフリーランスの時代になる。やってみないか」もう一人の編集者が私の人生を変えた。実際その通りになって、37年後の今の私がいるわけだが、何しろ当初は文章など一行も書いたことがない。学校時分の夏休みにあった作文の宿題。あれを書いて行くより授業中一時間立たされることを選んだ。それを知る同級生は誰もアイツが物書きになったとは信じないが、誰よりも自分かそうである。

 なんでやってこれたか分からない。最初の頃は原稿を「落とす」のも度々で、誰もが3年と続かないと思ったに違いない。我ながら不思議だが、苦しんだけれど何度もやめようと思ったけれど奇妙な崖っ淵感があって踏みとどまった。

 石の上にも3年、一万時間の法則ということだろうか。振り返って気付いたことだが、駄目を承知で耐えたことが今に繋がる。10年続けられれば大抵のことはモノになる。未来は創ることができるけれど過去は変更が効かない。

 まあ失敗だらけであり、天狗になっていたのかなと反省するところもあるけれど、人を陥れるような嘘だけはついたことがない。この10年間は、世の中こんな狡い奴がいるんだ‥‥自らの脇の甘さを身に沁みて振り返る日々が続いた。

 火のないところにの譬え通り、相手あってのこと。自分の思いとはかけ離れた曲解はあり、それを拾い歪めて吹聴する。そういうのにかぎって徒党を組み、数に頼んで嘘を事実として蔓延させる。何を言われてもその手と一線を画すことだけを考えて、孤立無援の立場を甘んじて受け容れた。

 間違いは多いかもしれない。失敗は山のように積み重ねている。しかし還暦も3年が過ぎ、この期に及んで濡れ手で粟など考えもしない。借金は気になる。過去10年の油断が招いた苦渋の結果であり、最優先課題。何とかするが、先のことはなるようにしかならない。

 気がつけばライター稼業は37年。アマチュアレーシングドライバー上がりでここまで来た先例のないハシリであり、バブル期までの10年間にゴチャゴチャとあらゆるジャンルに首を突っこみ、記名にならない原稿書きを経て何とか格好をつけた。

 現在63歳。私より年長の先輩は数えるほどになり、後進は年長/年少を問わず自動車産業が膨張したのに合わせてメディアが増殖したバブル期以後の人々。ようするに自動車産業が成熟期に入ってからの価値観しか知らない持たず、巨大強大化した自動車メーカーの情報量、資金力に支配され、メディア/ジャーナリズムに欠かせない批評の精神で対峙することより、PRの片棒を担ぐことが生計を立てる賢い道。そう考える『プロフェッショナル』が大勢を占めるようになってしまった。

 今日(19日)、三菱総合研究所がメディア意見交換会を開くというので出掛けてみた。永田町の東急キャピタルタワーの同社が会場で、しばらく訪れない内に日枝神社周辺の街並みの変貌ぶりに驚くやら戸惑うやら。

 会のテーマは『自動運転技術で未来のクルマはどう変わるか?』最新技術として注目されている自動運転やITS(高度道路交通システム)の話で、スピーカーは40代半ばの首席研究員であるという。私は初めての参加だったが、月一で定期的に開催されているそうで、新聞、WEB、業界専門誌など様々なメディアが数十名詰めかけていた。

 30分ほどの基調スピーチに新味はなく、トピックスとしては今年フランス・ボルドーで開かれた第22回ITS世界会議ぐらい。優秀な人材なのかもしれないが、意見交換会と称しながら、語られるのは三菱総研というブラントを背景にした立場や身分から得られる情報の伝達のみで、弁舌爽やかは買えるが中身はない。

 取材(?)するメディアも未熟なおこちゃまばかりで、意見交換会の趣旨どこ吹く風で記事化しやすい瑣末なデータやファクトをQ&Aスタイルで聞きたがる。新聞/雑誌/放送すべてのメディアに言えることだが、専門性が求められる分野なのにやって来るのは経験が浅く意見も持たない若手中心。彼らを通じて流される通り一遍の情報は、正確さや間違いのなさに気を取られた面白みを欠くもの。その多くは行政に聞くべきファクトで、三菱総研とはいえ民間に尋ねる筋合いではない。

 もうスピーカーも受けるメディア側もクソそのもので、サラリーマンの儀式儀礼のように会が流れて行く。痺れを切らして手を挙げた。

「新しい技術として注目されている自動運転やITSですが、そこでの視点は『便利で正しい』といった行政側からみた管理型の側面を感じる。商品としてのクルマの第一義的魅力はFreedom of Mobility。『面白いかどうか』が大事で、正しい←→面白い両睨みの視点が必要だと思います。仕事がら先進国を中心に海外の走行環境を経験しています。地球上に約10億台のクルマが走ってますが、現実の路上に大きな変化は見られない。米国運輸省(DOT)、同国家道路交通安全局(NHTSA)が進める安全システムというミクロの視点ではなく、世界の大都市はどこもカオスというマクロで見ると、正しいことを主張するだけでは動かない。従来型のクルマが主流を保つとは限らず、未来が過去の延長線上にあるとは言えなくなりつつある。まったく違う体系を考えた方がいいのではないか?」

  質問ではなく、感じる疑問について意見の交換を求めようと思ったのだが、「難しい話ですね‥」と言いながら、踏み込んだ意見を聞くことはなかった。行政官僚のように上意下達で、民(メディア)が恐れながらとどうでもいいディテールを聞いて仕事をしたふりをする。民間のシンクタンクの研究員が行政官僚みたいな振る舞いをしてどうする。ネタを仕入れることに汲々とするメディアのおこちゃまも情けない。

 最悪は、数名列席していた同業者でフリーランスのメンバーシップの代表とサブその他もいたのだが、会を代表して意見の一言も吐という気概もない。お開きのあとコソコソ名刺交換している場合ではなく、その場でなんとかするのがプレゼンスを上げるということ。できないならさっさとお引き取り願いたい。

  この一月嵐が吹き荒れたVWの排ガス規制不正問題。やはり世界の自動車産業に深刻な影響を与えることが明確になりつつあるが、マスメディアはともかくより専門性の高い自動車メディアに属するジャーナリストから積極的な発言が沸き上がらない。

 これまでの企業に寄り添いすぎた経緯からすれば仕方のないことだろうか、VWの不祥事は国内の自動車メディアの現状現実をも浮き彫りにさせた。沈黙して嵐が過ぎるのを待っているとしたらとんだお門違いということだろう。我々の顧客は大手自動車会社をはじめとする企業ではなく市場の読者でありクルマ好きなのだ。ここでの対処を誤ると、VWがそうであるのと同じように壊滅的な結果を招きかねない。

 私が今回のVW問題を契機に発言を強めているのは、40年近くこの世界に生きてきて最大級の危機だと感じているからに他ならない。それは単にメーカーやメディアの問題にとどまるのではなく、クルマそのものの未来が問われていると直観するからである。

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