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動遊倶楽部という着想を得たのは、今から24年ほど前。日本中がバブル経済の狂騒に踊る少し前のことでした。私は、偶然知り合った自動車専門誌の編集者の誘いに乗って、フリーランスの自動車ジャーナリストとしての道を歩み始めました。1978年9月のことです。

70年安保闘争でキャンパスが荒れ狂った翌年に都内の大学に進んだ私は、嵐の去った後の無気力な空気が充満した学生生活になじめず、2年生を留年した3年目にドロップアウトしてしまいます。そして、今で言う自分探しの時代を経て出会ったのがモーターレーシング、自動車競争の世界でした。

そもそものきっかけについては省略しますが、ガソリンスタンド(GS)のアルバイトで蓄えた資金で足掛け4年プロを夢見て奮戦しました。縁あって働くことになったそのGSの顧客にたまたま自動車専門誌の編集者がいて、さらなる奇縁の成り行きとして、あるカー雑誌の仕事をするようになりました。

レース活動が資金的に苦しくなっていたこともあって、メディアの世界に踏み留まればひょっとして走るチャンスに恵まれるかもしれない。動機はけっこう不純なものでした。クルマのライター稼業がここまで続くなんて夢にも思っていない。結果は、当時の編集者が誰も長く続くとは思えない駄目ライターとしての苦しい日々の連続でした。

今振り返ると自分でも不思議なのですが、こんなに苦しいライター稼業に何故か突然意欲を燃やすようになり、走って書ける若手として少しは知られるようになりました。80年代前半は向かうところ敵なしの勢い。しかし1985年12月11日午後12時50分頃。FISCO(富士スピードウェイ)の第一コーナーでその後の人生を左右する事態に直面することになりました。

私はこの年、ある自動車専門誌の連載で当時盛んになりつつあった国際競技車両規則グループCカテゴリーのマシン一気乗りを担当しました。国産の日産コカコーラC、マツダ727C、ポルシェ956、ルマンでクラス優勝を飾ったローラT616REにはタイヤメーカーに招かれて米国カリフォルニアのリバーサイドレースウェイでテストしたりもしました。あとは童夢RLともう一台で総なめという大事なところで悪夢が訪れます。

冷えた路面に、当時の急激にトルクが盛り上がるドッカンターボの組み合わせ。今なら客観的に状況を振り返ることができますが、当時は一線級のプロでも慣れを必要としたパフォーマンスでした。なかなかグリップが得られないけれど、取材の時間も限られている。意を決してスロットルを開け気味にした8週目(だったと思う)、当時の第一コーナーに勢いよく飛び込みアペックスを過ぎたところでパワーオン。

と、軽くテールスライドを感じたのでカウンターステアを当てた次の瞬間、私は我が身を疑いました。右周りの第一コーナーから左260Rに向かおうというところで、左リアタイヤのホイールスピンを感じた次の瞬間マシンは一直線に右のコースサイドに飛び込んで行った。

トヨタ・トムス85Cは全損。軽く宙を舞ってマシンが一旦落ちたところにガードレールのポスがあった。そのマシンはエースドライバーの好みで、シートのクッション部が省略されていてアルミモノコックに直に座るセットアップだった。そのちょうどお尻が位置するところをポストが直撃した。結果は、仙骨骨折というあわやの重傷。入院は2ヶ月に及んだ。

外傷はなくお尻が何倍にも腫れ上がる内出血を抜き取る施術に往生したが、痛んだのは怪我そのものよりもドライバーとしてのプライドだった。人生にたらればはないが、この時蛮勇を振るわずおとなしく取材をこなしていたら、多分今の私はいない。入院中から読み始めたいくつかの著作が単なる走り屋からの脱皮を促した。

多くの同業が環境・資源問題に関心を抱くようになる遥か前に、”このままでは立ち行かなくなる”という前提に立って独自の視点と論陣を張るようになったのは、そういう経緯を踏まえてのことだったわけです。

Windows95から5年目、ミレニアムで沸いた2000年に独力でHP『動遊倶楽部』を開設したのは、バブル、ポストバブルを経て圧倒的に増加した情報量に対し、紙幅や時間に制約のある既存メディアではスペースとスピードの両方で対応できないと感じるようになっていたからでした。

ITやインターネットに関する情報知識の決定的な不足やハード・ソフト技術の未成熟、さらに資金難などもあって、2003年の7月にHPは閉鎖の憂き目を見ました。それから現在に至る約8年間は、個人的には長期にわたる凋落のプロセスとなりました。既存のメディアに異論を唱えたのですから当然といえば当然でした。

2008年9月のリーマンショックによって時代の趨勢は明らかになりました。そして、3.11の東日本大震災が長期にわたって覆い隠されてきた社会の歪みを白日の下に曝け出すことになりました。私は、今世紀に入ってから海外の主だった国際モーターショーを可能な限りカバーすることに決めました。

すでに日本の自動車産業は海外に軸足を置かざるを得ないほどグローバル化が進んでいて、日本の内側でじっとメーカーからの情報を待っていれば生きて行けるという良き時代のメディアのビジネスモデルは崩れていました。日本語の壁に守られ、基本的に国際的て競争に晒されることがない。政治や行政とまったく同じ既得権益を守ることが共通のテーマになっている。

フリーランスとという個人の立場で海外に出た時に初めて分かる我と我が身の存在感。日本の自動車メーカーは押し並べて利益の7割前後を海外に依存している。国内市場より海外の個別のマーケットが重要となることは、国外市場の激しい競争を目の当たりにすれば誰だって分かる。現実を自分で確かめることなく、知っているつもりの”常識”を多数で共有することで安心する。

今回の大震災で明らかになった津波と原発事故の現実は、現状を肯定するかぎりは救済は叶わない本質的な問題を露にしました。あらゆるものが同じメンタリティに基づいて動いている。遅ればせながら2ヶ月経ったタイミングで被災地を巡ってきた率直な感想でした。

私は、自分のホームグラウンドである自動車を通じて人の社会的な営みをはじめとする森羅万象に思いを巡らせてみたい。欲望に根ざしたモビリティツールという本質は、用不用や善悪良否とは別に興味深い対象ではないかと思っています。

動遊倶楽部は、四半世紀も前にクルマというモビリティツールを媒介とする情報ネットワークを想定して考えたイメージに基づいています。クルマは、走る場所(道)と走らせる人(ドライバー)を前提とするシステムとして考える必要がある。クルマを語る行為は社会そのものを語ることを意味します。だからこそクルマは面白い。

ゴルフのカントリークラブと同じようなニュアンスで自動車の社交倶楽部が作れたら‥‥動遊倶楽部が目指すのは単に情報を集めるだけではない身体をともなう臨場空間。そこではエコとエゴが真正面からぶつかり合うはず。私はその先に興味があります。