ページビューの合計

2020年9月2日水曜日

まぐまぐ!メルマガ『クルマの心』第390号再録 。

有料講読(880円/月:税込)は下記へ。

https://www.mag2.com/m/0001538851 

スマホは画面を横にしてお読みください。縦だと段落がズレます。


■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■


           伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』 

             第390号2020.7.21配信分



●マツダロードスターから透けて見える未来


 マツダロードスター(MAZDA MX-5)、四代目となる現行モデルはNDの型式

名で親しまれている。1989年の初代からNA、1998年NB、2005年NCと来

て、2014年9月舞浜アンフィシアターでワールドプレミア。スペインのバルセ

ロナとアメリカ・カリフォルニア州モントレーで同時開催となった。あと一月

余りで丸6年、2015年5月の発売から数えても5年余の歳月が流れたことに

なる。


 過去の例を辿るとロードスターは7~10年でフルモデルチェンジされてい

る。初代NA型はバブルの絶頂期に、マツダが国内シェア拡大を期して展開し

た販売5チャンネルの一つユーノス店のブランドアイコンとして位置づけら

れた。


 当初のユーノスロードスターという車名に懸けられた国内市場向け呼称(後

にマツダロードスターと改称)と、マツダMX-5ミアータと命名された海外

向けタイトルの間にあるギャップは、ついこの間まで存在した内外別呼称にみ

られる市場認識が垣間見れて興味深い。


 一方でロードスターは、当初からグローバル市場が企画の要となっていた。

特に最有力市場の北米での成否が至上命題として掲げられ、同市場の現地スタ

ッフの支持がなければ日の目を見ることはなかったと言われている。それにつ

いては歴代モデルすべてに共通する課題であり、スポーツカーに極端なほど冷

淡な日本の社会システムに対して常に現実的な対応を取ってきたマツダの経営

陣と見識と開発陣の熱意には経緯を評する必要がある、と思う。


 小型軽量小排気量(1.6リットル)という英国発祥ライトウェイトスポーツ

(LWS)コンセプトの復刻。といえば格好良いが、実際には社内的にも軟派

なスポーツカーを支持する勢力は少数派で、希少なリソースであるエンジンの

選択肢は限られたという。1.6リットルで120馬力という当時のレベルでも優秀

とはいえない汎用エンジンB6-ZE型の搭載は望んだ形ではなく、選択の余地は

なかったと言われている。


  しかし、この非力なパワーユニットの採用が"知恵で価値を創造する"という

このクルマ本来の魅力の源泉になったのは間違いない。当時の技術力では高出

力/高トルクに対応できるオープンボディを用意できる技術力はなく、何より

も世界中で途絶えて久しいLWSという形態に対応する知見は枯渇していた。


 2リットル以下の小型車クラスは、当時まだ5ナンバー枠が主流の日本車が

もっとも得意とするところ。その意味では実に的を射たチャレンジと言えた

が、時あたかも誰もが上を向いて歩こうとしていた熱狂的な時代である。


●世界のブランドスポーツを追い詰めたのは紛れもなく日本車だ


 奇しくもロードスターがデビューした1989年に登場した日産のスカイライン

GT-R、フェアレディ300ZX、インフィニティQ45は、いち早く国産車初

の300馬力をカタログに掲載する実力を手に入れていた。時代はバブル景気に

沸く”イケイケ”気分が充満していたが、一方で『第二次交通戦争』と呼ばれ

るほどクルマの安全性が社会問題化していたタイミングでもあった。


 一計を案じた許認可権を握る所轄官庁の旧運輸省は、日本自動車工業会(自

工界)を通じて性能表記を280馬力に留める自主規制を”行政指導”。輸出モ

デルについては300馬力の表記を認める一方で、国内市場向けには長く280馬力

の自主規制値が徹底された。


 現代目線で過去を測る昨今の風潮は憂えるべきものがあるが、実はこのバブ

ル期の日本車のハイテク/ハイパフォーマンスのトレンドが世界のパワー競争

に火をつけている。日産のR、Z、Q45を皮切りにトヨタのセルシオ

(LS400)、スープラ、ホンダNSX、三菱GTO、マツダユーノスコスモ……と

続いた国内280馬力自主規制、海外300馬力超の日本車集団は、欧州の名だた

る老舗ブランドを震撼させた。


  1989年登場のポルシェ911(964)は250馬力、ニュルブルクリンクを荒し回っ

たスカイラインGT-Rに追い詰められて2年後の1991年に930時代からキャリー

オーバーの3.3リットルターボを投入するが320馬力であり、3.6リットルター

ボ(360馬力)が溜飲を下げるのはさらに2年後の1993年の事だった。


 もう一つの世界的ブランドであるフェラーリも、当時FIAのF1世界選手

権で鎬を削りあったホンダがNSXを米国ACURAブランドのフラッグシップと

してローンチした1990年の主力モデルは348。3.4リットルV8で300馬力だっ

た。当時(も今も)世界最大のスポーツカー市場アメリカ向けアキュラチャンネ

ルのブランドアイコンとして企画されたNSXは日本では280馬力自主規制を守

らされたが、輸出仕様はNA3リットルV6で楽々300馬力を得ていたとされる。


  モーターレーシングの最高峰F1GPで1.5リットルターボ時代からNA3リットル

V12の全盛期までマクラーレンとともにシリーズを席巻し、導入したテレメト

リーシステムでF1の世界を一変させたホンダ。バブル崩壊を受けて撤退した後

にホンダは自ら構築したテレメトリーをかつてのライバルフェラーリに技術供

与してフェラーリの復活に寄与したという逸話が示すように、フェラーリのク

ルマ作りにも多大な影響を与えている。


  世界的な名門ブランドの意識を根底から変えたのがバブル期の日本メーカー

だったことは疑いようのない事実だが、30余年前のバブルの絶頂期は日本中が

熱病に冒されたように上を見る中で真逆を行くコンセプトを評価するのは勇気

が要った。今でこそ諸手を挙げてロードスターを評価するのがあたりまえにな

っているが、当時は10%もいたかどうか。


●マツダが広島に本拠を構えていることの最大のメリットは何か?


 リアルワールドの走りの魅力に注目する企画の正しさは、世界中の名だたる

自動車メーカーが争うようよ追従したことからも明らかだが、日本国内に渦巻

く西欧コンプレックスはより大きく、よりパワフルで無闇に速いクルマを過剰

に評価する熱病の最中にあった。


 すでにデビューから30年を重ね、100万台超のグローバル販売を実現したス

ポーツカーとしてギネスブックにも載る成果を残した現代目線と当時の認識に

は当然のことながらズレがある。現代的解釈によるLWSの再定義は、11年前

の1978年に発表されたサバンナRX-7以来の注目すべき”事件”だったが、

ロードスターが今ある評価を得るには長い時間が掛かっていることを知る必要

がある。


 マツダは古くから外国市場での評価がブランド価値の大半を占め、ライバル

は国内よりも欧州やアメリカなど自動車先進国の老舗ブランドだったりする。

東京から約800km西に位置する分西洋に近いと巷間言われるほどに、デザイン

にしてもテクノロジーにしてもトヨタ・日産・三菱・ホンダといった関西以東

の大都市圏に本拠を構える国内5大ブランドとは異なる文化的土壌で歴史を重

ねて来た。


 サバンナRX-7(SA22C)は、紛れもなく世界最大の自動車自由市場にして

モータリゼーションの母国として100年超えの歴史の積み重ねを持ち、クルマ

のトレンドセッターとして今なお強い影響力を有するアメリカ市場の存在なし

に世に出ることはなかった。


  アメリカは、1908年に史上初の流れ作業によるマスプロダクションを実現し

て20世紀を『自動車の世紀』として社会の変革に大きな影響を与えたクルマの

母国。ヘンリー・フォードの"モデルT”が1927年の生産終了までの19年間で

約1500万台も作り続けられた。無数のベンチャー企業の中から淘汰されたGM

(ゼネラルモータース)とクライスラーにフォードモーターカンパニーを加え

たビッグスリー(ミシガン州デトロイト)が1973年のオイルショックを契機に

世界の檜舞台から退くまで、アメリカ車は一貫して世界中の憧れであり”大き

いことは良いことだ!”に象徴されるアメリカンライフは世界に目指すべき道

を示し続けていた。


 現在アメリカでは、常に限界効用の壁を意識させられる製造業から情報産業

へと21世紀のテクノロジーを背景にした構造改革が進み、自国の自動車産業は

相対的に衰退し、日本メーカーが市場の40%近くを握る(韓国・ドイツを合わ

せると50%に迫る)という脱モノ作りが際立っているが、クルマを消費する文

化的土壌は今なお世界のトレンドセッターとして機能する。


●ユーノスロードスター(MAZDA MX-5MIATA)はまったくのノーマークだった


  マツダがロードスターを企画・開発・生産・販売するプロセスで、米国市場

が念頭から外れたことは唯の一度もない。初代NA型はもちろん、キープコンセ

プトのNB型、フォード傘下に下ってその存続のために上級志向に走る必然のあ

ったNC型、そしてリーマンショックを経てフォードの傘の下から外れることで

『原点回帰』に立ち返る幸運を得た現行ND型……。


  すでに”なってしまった現実”から過去を想像するご都合主義に染まる前に、

歴史に学ぶ謙虚さが必要だ。そもそも初代NA型ロードスターMAZDA MX-5 

MIATAがアメリカシカゴ国際自動車ショー(1989年2月)でワールドプレ

ミアされたことの意味を理解できない日本人は少なくない。


 何よりもこのクルマの登場を事前に知る部外者はほとんどなかった。徹底し

た機密管理の下、噂にも上ることもない。現行NDロードスターもそうだった

が、右肩上がりの永遠の成長が信じられた1980年代は熾烈な国内シェア争い

が展開された時代である。


 今以上にハイテク&ハイパフォーマンスに人々の目が行き、高出力/高速性

能を基本とする高性能化と、目先の変化を求める価値観に対応する多様化と大

型化、時代のトレンドとしてのFF化から4WDへの流れに対して小型FRのライ

トウエイトスポーツは人々の視野の外にあった。活気を帯びる自動車メーカー

の意向に沿うべくトレンドを形成する役回りを演じた雑誌メディアでもLWS

に注目す勢力はごく限られた少数派であり、現在のマツダロードスターが支持

されるような環境にはなかった。


 自動車ジャーナリズムの世界に入って12年目を迎え、FR駆動レイアウトに一

家言持っていた私ですらまったくのノーマーク。しかも、同年9月の日本市場

での発売に先立つ4カ月前の1989年5月に米国において先行販売がなされてい

る。


  ともすると、現代日本人は昭和の気分そのままに日本メーカーや日本車を日

本の国内目線で語りたがるが、平成の30年を過ぎて今は令和も2年であり、日

本メーカーがグローバル化に踏み出してた1995年からすでに25年。海外生産拠

点が国内を上回り生産台数オーダーで約2倍、販売比率で言うと国内1に対し

て国外4を大きく上回るほどに様変わりしている。


 実は国内市場が沸騰していた1980年代においても日本メーカーの世界生産の

およそ半数は国外市場向けであり、破格の円安為替レートの恩恵もあって貿易

黒字の稼ぎ頭となっていた。マツダMX-5ミアータ(ロードスター)は、グローバ

ル市場においてゲームチェンジを促す起爆剤になったという意味で、国内市場

専用のスカイラインGT-R(R32型)とは次元の異なる資質の持主でもあった。


  蛇足次いでに、私は1987年からCOTY(日本カーオブザイヤー)選考委員を委嘱

されていて3度目の10ポイント(COTYではノミネート10台の中から5台に持ち点

の25ポイントを振り分け、最優秀候補に10ポイントを配点するルール)として

ユーノスロードスターを選んでいる。微かな記憶では同車に10点を振り分けた

選考委員は全60名の内10人もなく、COTYはトヨタのセルシオ(レクサスLS400)

の頭上に輝いた。


●「今ステアリングを修正したな?どんな感じだ??」


  さらに余談を続けると、ヴィンテージイヤーとして振り返られる1989年は、

年初の昭和天皇崩御(1月7日)にともなう自粛ムードからそれまでのバブル景気

とは打って変わる雰囲気となった。自粛は前年9月の天皇の容態悪化報道後か

ら始まった。


 有名なところでは井上陽水がスカイライン/ローレルと共通プラットフォー

ムでマークII三兄弟(マークII、チェイサー、クレスタ)に対抗する目的で開発

されたセフィーロのTVCMがある。陽水がセフィーロの助手席から「お元気で

すかぁ~」と発するそれは、天皇容態報道後は"お元気ですか"の音声が消さ

れた。


  世の中を覆った天皇崩御からの自粛ムードとは真逆に、1989年はバブル経済

の頂点であり過熱した好況感とのギャップは大きかった。一方各社のその後を

運命づけるエポックメーキングなニューモデルラッシュは今もなお語り草だ。


  北米専用のプレミアムブランドとして立ち上がったレクサスの旗艦LS400(日

本ではセルシオ)、同じく日産のアメリカ市場向けインフィニティブランドのQ

45、スバルが社運を賭けたレガシィ、マツダの国内販売5チャンネル制の一角

ユーノスのブランドアイコンと位置づけられたロードスター(NA型)……翌90

年にはホンダの北米向けアキュラブランドのNSX、三菱GTO、ユーノスコスモ

などが続き、日本車が史上もっとも華やかな頂点に達したことを印象づける百

花繚乱ぶりだった。


  記憶に残るのはCOTY選考を意識した各社の取材攻勢で、トヨタはフランクフ

ルトで開催されたレクサスLS400(セルシオ)の国際試乗会に日本人ジャーナリ

スト枠を設け、200km/h巡航を可能とするアウトバーンでの評価に賭けた。


  この時の逸話として何度か紹介しているように、当時中心的に執筆していた

ベストカー誌の枠組みということでトヨタ広報部は徳大寺有恒氏と私を試乗コ

ンビとして割り振った。試乗時間枠内で交替してそれぞれインプレッションを

取ることになっていたが、徳大寺氏はずっとナビシートに座り続け1秒たりと

もステアリングを握ることはなかった。


  私が200km/hクルージングで緩いコーナーに差し掛かった際軽く修正舵を当

てると、すかさずそのフィーリングを尋ね、私が印象を述べるとそれがそのま

ま試乗インプレッションとなって記事に反映された。当事者だけが知る嘘のよ

うな本当の話である。


  レガシィの富士重工(当時、現スバル)は同じ右ハンドル左側通行のオースト

ラリアで試乗会を敢行したのも印象に残る一コマだ。ロードスターのマツダは

破格のプライス設定で希望する選考委員に販売した。とにかく路上を行くロー

ドスターの姿を増やそうとマツダ広報部が頭を捻った結果だったと聞いた。私

は3年前の1986年4月に清水の舞台から飛び下りる覚悟でメルセデスベンツ190

E(W201)を購入したばかりだったので手が伸びなかった。


 すでにFR絶対主義を掲げドリフトこそが最大価値となり魅力の根源として

いただけに、W201以上に具体的なイメージに近いコンパクトFRだったロード

スターは残念な存在だった。すでに二人の娘が小学生となっていたタイミング

であり、メルセデスベンツに2人乗りのオープンカーを加えるのは難しかった。


  いずれにしても昭和の末年にして平成時代の幕開け当時の私はまだ37歳。過

酷な経験はあったにしても、自動車ジャーナリストとしてはまだまだ未熟の学

ぶべきことが多い段階だった。


●インターフェイスという言葉にピンと来た!


 とはいえ自動車メディア界に入って12年目。さすがに積もる経験から悟るこ

とも多くなっていた。日本語は自動車を語る言語として必ずしも最善とはいえ

ない。最大の気づきは、表現すべき言葉の不足だった。懸架装置や舵取り装置

に原動機など、サスペンションやステアリング、エンジンといったカタカナ表

記の外来語をそのまま使った方が理解が早い。


  実は、私がフリーランスのライターとして仕事を始めた1978年当時は、評価

されるクルマの中心はもちろん国産車であり、その技術レベルも今と比べたら

大したことはない。走行環境にしても高速道路の普及率はまったく低く、評価

の対象となる走りのパフォーマンスも知れていた。


  私がドリフトの面白さからFRという駆動レイアウトの魅力を再発見したのは

1983年のことだが、その事実を伝える言葉が見当たらない。まだシンプルの右

肩上がりの成長神話に基づく高出力/高速度を基本とする高性能やより大きく

といった価値観が支配的な発展途上段階。日本の自動車ジャーナリズムの大半

は、自動車そのものと同様にアメリカや欧州の専門誌を参考にしたコピー文化

として興っている。


 パッケージングという今では普通に流通する言葉にしても、初耳は確か1980

年代後半のことであり、それがクルマ作りの基本となることを日本人の多くが

知るようになったのはその単語が一般化してから。それ以前は本質に触れるこ

となく評価していた。世界は言葉で出来ているというが、まず言葉があってそ

れを理解してはじめて知っているから分かっているとなる。ここは重要なポイ

ントだろう。


  私は、クルマのダイナミック性能評価をする上でメカニズムのハードウェア

以上に人とクルマが直接触れる接点の重要性に気づかされた。とにかくクルマ

に触れて乗って走ってを繰り返す内に、ステアリングやシートやシフトレバー

やアクセル・ブレーキ・クラッチのいわゆるABCペダルに手足ではなく目とい

う視覚器官で接するメーター類などが、試乗インプレッションのベースになっ

ている。 


 気づいたはいいが、それらを端的に語る言葉がない。ある時TVを見ていると

日立(製作所)がCMで『日立は今、インターフェイス(Interface)』というコー

ポレートメッセージというかブランドステートメントを発しているのを目にし

た。語感の印象の良さから辞書を引いてみると"界面や接触面"といった意味を

持ち、転じてコンピュータと周辺機器の接続部分を表すという。ユーザーイン

ターフェイスという表現にも見られるように、人とクルマの接点といった意味

にも使える。


  1980年代後半に多くを寄稿していたモーターマガジン社の雑誌をめくると、

インターフェイスという言葉をしきりと使って普及に務めようとする記述を目

にするはずだ。当時の編集者も初耳の言葉に躊躇していたが、今やインターフ

ェイスは一般用語としても普通に流通している。


●SUVのオリジナルはアメリカだが、ブームの起源は日本車だった


  SUV(Sport Utility Vehicle)も同じようなラインに位置する。今や世界

的なブームとなったクルマのカテゴリーだが、最初に耳にしたのは1990年代後

半のアメリカだった。当初はピックアップトラック(ライトトラック)の荷台に

アドオンのキャビンを乗せたのがオリジナルの形態。現在世界的に流通してい

るSUVとは大分ニュアンスが異なっている。


 日本では1980年代に三菱パジェロやデリカスターワゴンなどが牽引したオフ

ロードタイプの4WDがはしり。当時はRV(レクレーショナル・ビークル)

いう通り名で一世を風靡した。三菱はそのドル箱の存在が後に重く響いてい

る。大きく重いオフロード四駆形態はバブル崩壊とともに敬遠されて衰退。


 入れ替わるように1994年のトヨタRAV4、1995年のホンダCR-Vと

いうセダンとプラットフォームを供用するモノコックボディの都市型4WD

が出現。さらに画期的なクロスオーバー型4WDのハリアー(LEXUS RX300)

の登場によって現在に至る世界的なSUVブームが生み出されていった。


 今で言うSUVブームは当初日本においてブレークしている。What's new?

は今も昔も変わらぬ人々がクルマに求める魅力の最大要素であり、ことに日本

市場の場合1980年代に急伸したエレクトロニクスの導入がもたらした技術変革

によって、クルマの形態(カテゴリー)の多様化とハイテク&ハイパフォーマン

スが劇的に進んだ。


  バブル崩壊によって一度は凹んだが、熾烈な国内シェア争いで培われた技術

的リソースをテコに市場を活性化。デフレ不況で長期の停滞が常態化した日本

では長続きしなかった都市型小型4WDは、保守的な欧州市場でもWhat's new? 

需要を喚起。中国などの新興国市場でも保守層のセダン人気とは別に、世界の

トレンドに敏感な若い世代のSUVへの関心が鰻登り。最大市場でのアメリカで

も原油価格の乱高下を受けてクロスオーバーSUVの需要が掘り起こされた。


  前述の通り、LEXUS RX300(ハリアー)の出現が世界のクロスオーバーSUV需

要を掘り起こした。アメリカでベストセラーセダンとして長く君臨したカムリ

のプラットフォームを流用して都市型4WDを創造する。このレクサスRXの登場

をきっかけにSUV(Sport Utility Vehicle)にはアプローチ/デパーチャーアング

ルや最低地上高などの"クライテリア"があり、条件さえ満たしていればフレー

ム構造でなくてもSUVを名乗れるアメリカ特有の規格/基準があることを知った。


  ともすると日本ではこのような起源は軽んじられ、すべての情報は欧州やア

メリカ由来だと短絡しがちだが、20世紀末の20年と21世紀に入ってからの20年

の計40年にわたって従来型のクルマの新基軸を発進し続けたのは"モノ作り"に

熱中するあまり情報化社会への変革に後れを取りつつある日本の自動車産業で

あることは間違いない。


●NAロードスター(スペシャルパッケージ)のMOMOステアリング!


  ユーノスロードスター(MAZDA MX-5 MIATA)の出現は、1970年代のオイル

ショックと厳しい排ガス規制の荒波を乗り越え、災い転じて福と成した日本の

自動車産業以外からはけっして起こり得なかった。1960年代の"佳き時代"を

席巻したブリティッシュライトウェイトスポーツに対する純粋なリスペクトと

憧れを1980年代末当時の技術力で再生を試みる。


  志しの純粋さだけでは不十分で、相応の技術力なしには形にならない。まだ

脆弱な日本のクルマ社会だけを念頭に置いていたとしたら成功の可能性はな

く、最大市場のアメリカでの周到なリサーチと価格競争力を加味した確かな商

品力が原動力。本国日本での発売よりも4カ月も先駆けて導入した辺りに、MX

-5ミアータの本質がありそうだ。ちなみにMIATAとはドイツ古語で「贈物」

や「報酬」を意味する。 


  1989年2月のシカゴショーでのワールドプレミアに驚き、同年5月のアメリカ

市場での発売開始に混乱した。確か日本市場での9月発売に先駆けた7月頃に、

当時のJARI谷田部テストコースでメディア向けの事前(事後?)試乗会が催され

た。その懇談の場で、立花啓毅実験部次長(当時)に率直に問うたことを思い出

す。「このセットアップ以外に方法がなかったのですか?」たしかそんな質問

を切り出したかと思う。


 FRという駆動レイアウトがもたらす走りのパフォーマンスには一家言あ

り、その価値判断からみて納得が行かなかったからだが、「軽量なオープン

ボディのクルマで(とくに)前輪に十分な荷重を期待して接地感を得ながら

バランスの取れたハンドリングを作り込むのは簡単じゃない」立花次長は、

ちょっと場所を変えようと言いながら人の輪から離れると、概要そんな話か

ら始めた。


 ご存知の通りNAと型式で親しまれる初代ロードスターは、サスペンション

のストロークを大きく取り、ロールを容認しつつ前後のバランスを取りながら

曲がるイメージでセットアップされていた。後に”ひらり感”として肯定的に

語られることになるオリジナルロードスターの走りの個性だが、出来ることな

らロールを抑えてリアのスタビリティを適宜確保。


 その上でステアリングに十分な手応えを与えながらアクセルとのバランスで

ライントレース性を追及したい。この場合前後の荷重移動は重要で、タイミン

グよく前後の接地バランスをコントロールして自在にドリフトモーションを作

り込めることが何よりも肝要となる。


 私が試乗前にユーノスロードスターに期待した走りのイメージは右の通りだ

が、それが何とも軽かった。印象的だったのはスペシャルパッケージと名付け

られたパワーステアリング(PS)、パワーウィンドー(PW)、アルミホイールを

標準装備する仕様で、握りが極細のモモ製本革巻きステアリングホイール(SRS

エアバッグレス)にその繊細なハンドリングが集約されていた。


  オープン形状から限られたボディ剛性となる条件下で、クローズドボディの

クーペのようなセットアップは困難。動力性能もあれば良いというものではな

く、過剰なパワーを与えてしまうとバランスの取りようがなくなる。


  NA6CE型と呼ばれる初期モデルは、120馬力という当時の1.6リットルエンジ

ンとしても非力と括られるレベルにあり、当時すでにリッター100馬力を実現

していたホンダVTEC(160馬力)を渇望する声が数多く聞かれたが、オープンボ

ディで高出力を受け止める剛性を得ることは当時の日本メーカーの技術力では

困難を極めたはずである。


  NAロードスターから丁度10年後にデビューしたホンダS2000が250馬力を発

する2リットルエンジンをオープンボディに押し込んだ結果、とてつもないコ

ストを懸けた専用の高剛性ボディを用意せざるを得なくなり一代でディスコン

となった経緯を思い出す必要がある。


●継続こそがロードスター歴代主査の偉業


  マツダロードスターというのは、世界中にライトウェイトスポーツカーとい

う市場が存在することを証明したという点で貴重な存在といえるのだが、それ

以上に単純に大パワー/トルクに頼る走りのパフォーマンスとは違うところに

このクルマ本来の価値があることを今に伝えているという点で重要だ。


  初代NA6CE登場からわずか4年後の1993年に年々強化される排ガス規制への

対応のために排気量を1.6から1.8リットルに拡大すると発表。それを受けて私

はドライバー誌編集長からの依頼で『反対声明』なる記事を書いている。メー

カーの発表に正面切って反論を展開することは未だにタブーの一つとなってい

る観があるが、当時としても業界に小さくない波紋を呼ぶことになった。


  当時のマツダの技術力とリソースでは排気量アップ以外に規制対応の術がな

く、ほぼ打つ手は限られていた。コストを掛ければ可能だったに違いないが、

当時のマツダは国内5チャンネル制導入の失敗から多大な借金を抱えていたか

らなおさらだ。1993年の2年後にフォード傘下に入ることで命脈をつなぎ、2代

目NB型のローンチの際にはフォードからの経営陣と議論を闘わせたりもした。


  初代の途中から開発主査となり、NB、NCロードスターを取りまとめた貴島孝

雄氏とは率直な議論を交わした関係にある。多分に失礼もあったやも知れぬ

が、今でも良好な関係を保ち続けている。貴島氏の一見温厚に見えて目的達成

のためには果敢に攻めるキャラクターを知る者としては、NC開発で見せた反骨

の精神にロードスターというクルマの強さの一端を見る。


  NCの開発期間は企画段階からフォード統治下にあり、ロードスター単独での

開発はNGとされたという。ロータリーエンジン(RE)の復活という大儀が与えら

れたRX-8とプラットフォームを供用してコストダウンを図る。与えられたミッ

ションはLWSとしてのロードスターの根幹を揺るがす困難を秘めていた。


  結果的に巧みに共用化の縛りをすり抜けながらNCロードスターという独自の

境地を切り開くことに成功。排気量の2リットル化は、主力市場のアメリカの

要求を満たす結果であり、LWSの定形としての小排気量からの逸脱を余儀なく

されたが、結果としての走りはロードスターの精神を受け継ぐ出来ばえだっ

た。


  私は最後のCOTY選考委員委嘱となる2004-2005COTYの選考でNCロードスタ

ーにNA以来2度目の10ポイントを献上したが、困難な条件下でまとめ上げられ

たこのクルマがなければ現行のNDロードスターによる"原点回帰"はなかったと

理解している。継続こそがすべてであり、止めてしまったら歴史は途切れた。


●次ぎのNEロードスターには1.3リットルモデルを期待したい!!


  そして現行のNDロードスターである。このクルマの2014年9月4日舞浜のアン

フィシアター(とカリフォルニア州モントレー、スペインバルセロナを結んだ)

のワールドプレミアに至るプロセスについては以前紹介した。同年3月のジュ

ネーブショーで明らかになってからの1年余りはすでに歴史に属するかもしれ

ない。


  発売からすでに5年が経過し、時期NE型(?)が取り沙汰される頃合いとなりつ

つある。振り返ってみれば1.5リットルにエンジンがダウンサイジングされて、

1000kgを下回るモデルが存在するLWSの原点回帰が現実となった。


 依然として世界のプレミアムブランドでは大排気量高出力の超高速性能を競

う風潮に収束の気配はない。西欧近代の矛盾が噴出、一方で地球環境だのSD

Gsだのと危機感を煽りながら未だに500馬力、300km/h超の現実的でない非日

常的な高性能の価値観で優位に立とうとしている。


  本気で持続可能な開発目標を語ろうとするなら、いつまでも消費不可能な超

高性能というファンタジーに人々を誘うのではなく、より小さくエネルギー消

費は少ないがしかし満足度は300km/h超と変わらないという世界観にアプロー

チして、その実現に踏み出す時だろう。


  私はNDロードスターの1.5リットルSKYACTIV-Gエンジンの採用を高く評価し

ている。このダウンサイジングをともないながら、しかしクルマとしての魅力

は少しも落さないという発想こそが未来的だと考えているからだ。


  NDロードスターのワールドプレミアからローンチまでの過程で、議論が沸騰

した1.5リットルか2リットルかという話題があった。もちろん、これについて

も最大市場となるアメリカで取材している。アメリカ市場におけるマーケティ

ング/PRをマネージメントするK.Hiraishi氏をオレンジカウンティ・アーバイ

ン近郊のMNAO(MAZDA NORTH AMERICAN OPERATION)に訪ねて、取材を試

みている。


  私が2014年3月のジュネーブショーでNDの情報を掴み、翌月のNYIAS(ニュー

ヨーク国際自動車ショー)でのベアシャシー&パワートレインの公開と続いた時

点で主力ドライブトレインは1.5リットルと断定し、そのことが議論沸騰のき

っかけとなった。


  MC(マツダ広島本社)の意向としては、1.5リットルに一本化しオリジナ

ルのライトウェイトスポーツに原点回帰することでコンセプトの一貫性を期し

ていたが、主力市場にして成否に大きく関わる北米を仕切る立場のMNAOとし

ては1.5リットルのドライビングスタイルは到底受け入れられない。


  激論の結果北米向けには2リットルが与えられることになった。日本でも追

加モデルのRF(リトラクタブルファストバック)は2リットルエンジンが与えら

れることになり、これで当初から1.5との2エンジン体制が設定されていた印象

となったが、私の見るところ2リットルは完全に後付け。カリフォルニア現地

で初期型を試乗した際にK.ヒライシ氏と意見交換をして、率直に言ってセット

アップが出来ていないことを告げた。


  すると「急遽決まったことだったので装着タイヤが1セットしかなくてベス

トなチューニングができなかった」と明かされた。初期型のRFのエンジンが後

に追加されたアップデート版に比べて26psという別物といえる出来ばえとなっ

たことからも分かるように、初期の2リットルは間に合わせの急拵え。


  それでも2リットルにこだわったのは、アメリカ人のドライビングスタイル

は日本人のそれとは異なり、まずコーナーに飛び込んでから対応を考える。高

回転高出力志向よりも中速域で十分なトルクが得られることを好み、そのため

には1.5リットルでは「駄目なんです、アメリカでは!」ということだった。 


  多くの日本のロードスターファンは歴代ロードスターは"我々のためにある"

と信じて疑わないが、マツダのビジネスモデルが海外依存に転じて久しい。実

は日本の自動車産業はこの四半世紀で業容を大きく変貌させており、日本市場

だけでは到底利益が得られない構造となっている。


  諸悪の根源を辿れば、技術の高度化とインフラの整備が過去50年間で大きく

進化進歩しているにもかかわらず、行政官僚機構の無謬原則にともなう前例主

義の結果、変化に対するアップデートがまったく行なわれることなく、理不尽

といえるほどクルマの所有に関わる高コスト体質が定着して久しい。


  自動車メディアはここにフォーカスを当てるべきだろう。いつまでもドイツ

を始めとする西欧近代の右肩上がり思考を善とするのではなく、自らの環境に

誇りを持って、この37万平方キロメートルの国土を旅する中からクルマの新た

な価値観を構築すべきだろう。


  私は、現在のマツダロードスターの開発主査斉藤茂樹氏にはこのように伝え

ている。次期ロードスターには現行の1.5リットルよりも小さい排気量(1.3リ

ットルがいいなあ)で世界に通用する価値観の創造を試みたほうがいい。意図

するところは分かる人には分かるはずである。



-----------------------------------

ご感想・リクエスト

※メールアドレス fushikietsuro@gmail.com 


■twitter http://twitter.com/fushikietsuro

■facebook http://facebook.com/etsuro.fushiki 

■driving journal(official blog)

■instagram ID:efspeedster                      


まぐまぐ!メルマガ『クルマの心』再録再開。まずはご一読下さい。

有料講読(880円/月:税込)は下記へ。

https://www.mag2.com/m/0001538851 

スマホは画面を横にしてお読みください。縦だと段落がズレます。


■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■


           伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』 

             第389号2020.7.14配信分


●「誰が座って良いと言った!」トヨタの重役が浴びた罵声


 かつて聞いた実話。トヨタ自動車の重役(たしか技術担当専務)がある日運

輸省(当時)に呼ばれた。1980年代のことだったか。許認可権を握る中央官庁

の課長クラスといえば40代前後だったろう。当然国家公務員上級試験をクリア

したキャリア組であり、それなりの経験を積んでいる。


 執務デスクに座るお役人氏を前にトヨタ重役氏は挨拶もそこそこに対面する

位置にあった椅子に腰を掛けたそうだ。すると「誰が座っていいと言った?」

自分の息子ほどの年頃が憤然と怒気を孕んで一喝したという。驚いた重役氏、

飛び跳ねるように起立したそうだ。何でも許認可に関係することで不手際があ

り、若手官僚の担当課長殿が叱責を浴びたということだった。所轄官庁と民間

企業の力関係を物語る『法治国家』たる日本の現実ということなのだろう。


 重役氏は無駄に逆らうことを避け、平身低頭でその場を収めて早々に辞した

そうだ。そして帰社して「何であんな小僧にこの俺がペコペコしなくちゃいけ

ねぇんだ!」自らのデスク上にある一切を払いのけながら吼えたという。魂か

らの雄叫びだったと、側近が蒼くなってその場の様子を伝えた。


 すべては伝聞なので本当のところは分からない。しかし多分事実だったに違

いない。日本の自動車産業は、戦後一貫して所轄の運輸省や通産省など官僚主

導による国家の庇護の下で育成されてきた。敗戦直後は民生用自動車の開発は

もちろん企画することさえ占領下のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に

よって許可されなかった(乗用車は全面禁止、トラックに限って1500台/月が

許可された)。


  戦後2年の1947年には1500cc以下の小型乗用車が許可され、さらに2年後の

1949年10月には全面的に解禁となったが、庶民にとって乗用車はまだ高嶺の花。

ところが1950年の朝鮮戦争勃発によって発生したトラックなどの特需が呼び水

となって自動車産業が一気に勢いづく。それまで自動車生産といえばトラック

とタクシー/ハイヤー業者の需要に支えられていて、ほんのわずかな富裕層が

いる段階に変わりはなかったが、風向きが変ったのは間違いない。


 当時興味深いことの第一にトラック比率が圧倒的であり、第二に二輪から派

生した三輪自動車が約4万台近くも製造され(1950年度)、第三にベンチャー

企業として位置づけられる東京電気自動車(旧プリンス自工の前身)が1947年

に「たま」、1949年に「たまセニア」というEV(電気自動車)を発売したと

いう事実がある。


 私はまだ生まれておらず荒廃した世相など知る由もないが、私の記憶に残る

1950年代にはまだ戦争の雰囲気が残り、川崎駅地下通路などで”傷痍軍人”の

姿を見て胸が痛んだことを思い出す。


 焦土からの復興にはまずトラックであり民間ではオートバイ派生の3輪車が

注目され、ダイハツやマツダやクロガネ(現日産工機)など戦前からの有力企

業が席巻。それぞれ”自動車メーカー”として今に残るきっかけを得ている。


 少し話は長くなるが、起点となる歴史観をきちんと整理しておかないと誤解

が誤解を生む原因となる。歴史的な時代の大転換点に差し掛かっている今こそ

それが現代の価値観の原点と錯覚されている平成時代の常識にとらわれた現役

世代が肝に銘じておくべきことだろう。


●アメリカ車に席巻されずに済んだ幸運


 日本の自動車産業は、1886年(明治19年)の自動車発明(ドイツのカール・

ベンツとゴットリープ・ダイムラーがシュツットガルト近郊のそれぞれ異なる

街でほぼ同時に製作したとされる)から18年後の『山羽式蒸気自動車』(山羽

虎夫が1904年に製作)に始まり、21年後の約10台が”量産”されたガソリン自

動車『タクリー号』(1907年)に起源が求められるが、今で言う自動車メーカ

ーとしては1911年(明治44年)の快進社自動車工業に行き着く。ドイツでの自

動車発明から遅れること四半世紀(25年)ということになる。


 世界のモータリゼーションの起源は1908年のヘンリー・フォードによるモデ

ルTの量産化に始まり、19年の量産化の歴史によって累計1500万台超が生み出

され第二次世界大戦前に文明としての自動車が普及していた。それに比べると

日本の後進性が際立ち、戦後の急成長を経て世界最大級の自動車生産大国に辿

り着いた印象を持つが、20世紀前半は2度の世界大戦で戦場となることがなか

ったアメリカ以外は大方が戦禍に塗れて停滞する傾向にあった。


 日本の戦前は、富国強兵に始まる明治時代の政策が軍国主義の台頭によって

民間需要は後回しとされたが、国防・軍事を優先する方針による工業化は進め

られていた。その技術力を背景に自動車が基幹産業として国を代表することに

なるのだが、前例がない事態に対する行政官僚機構の対応は後向きだった。


 当初は、敗北主義に染まった行政官僚のほとんどがアメリカ製乗用車との競

争は困難であり、自動車需要は輸入で賄えば十分との意見に傾いていた。すで

に巨大な市場を背景に高度に進化していたアメリカ車との競争にエネルギーを

割くよりも、外国からの輸入でまかなえば十分という考え方が支配的。当時の

一万田尚登日銀総裁は「国産車育成無用論」の考え方に立ち、乗用車生産に消

極的な意見を表明している。


 資源の大半を輸入に頼ることから貴重な資源は鉄道・鉄鋼・造船などといっ

た重厚長大型の基幹産業に注がれるべきだとした説に、当時の自動車産業界が

置かれた後進性が表れている。幸いだったのは当時世界最強だったアメリカの

ビッグスリー(ゼネラルモータース=GM・フォード・クライスラー)にとっ

て日本市場が魅力的として映らなかったことだろう。


 戦前にも横浜にフォード(現マツダ横浜研究所の所在地)、大阪にGMの生

産拠点があったが、当時の世界情勢から一計を案じた商工省(当時)の岸信介

工務局長は「自動車工業法要綱」を立案。事業許可制の導入や米国メーカーの

拡張阻止の方針を明確にする。アメリカ政府は日米通商航海条約に違反すると

して抗議したが、日本側は産業保護政策ではなく”国防上の理由”という一文

を加えることでGM・フォードの事業拡大を阻止した。


 遥か1980年代に観た『NHKスペシャル』の前身(?)ドキュメント昭和-

世界への登場-第3集「アメリカ車の上陸を阻止せよ~技術小国日本の決断」

(1986年6月13日放送)で語られた秘話を思い出す。かつて有望な市場として

注目していた日本が、対戦の結果破れ去り焦土と化した現実を見たビッグスリ

ーが注目しなかったことが幸いした。


 日本の自動車産業の成功は、幾つもの幸運に恵まれた”奇跡”の結果だが、

誤ったその成功体験に対する評価と認識がゲームチェンジが迫る『大変革期=

トランスフォーメーション(Tranceformation)』という21世紀の現実への対応

を難しくしている。


 無謬原則と前例主義が変れない日本を牽引する官僚システム最大の欠陥であ

り、当時も半世紀を遥かに超えた今も何ら変わらない。今まで通りは失敗や間

違いはないが、変化に対応して成功に結びつけるという前向きな発想はない。

大過なく日々を送れば保証される。親方日の丸の発想は、全面的に日本社会を

覆った宿痾であり、21世紀に入って”一人負け状態”にある最大の失敗要因で

あるのは間違いないだろう。


●中国はかつての日本の生き写し。やがて沈む可能性は高い


 話を少し戻すと、朝鮮特需はかつての交戦国が同盟(日米安全保障条約)を

結んで、ソビエト連邦共和国や中華人民共和国という社会主義体制国家と資本

主義陣営が対峙する新たな局面、東西対立を浮上させた。およそ40年後に冷戦

構造はソ連崩壊とともに過去のものとなったが、それから30年で米中対立とい

う21世紀という新たな状況を生んでいる。


  歴史を振り返ると、現在68歳の私が生まれる前からの話であり、ようやっと

記憶に残る1960年前後から見てもすでに60年という短くない時が流れている。

クルマで記憶に残るのは、初乗りがたしか60円の日野ルノー(4CV)に乗っ

て労働争議真っ只中のデモ隊に囲まれた鶴見の路上や、エネルギー革命(都市

ガスの普及)によって石油コンロ製造を生業としていた父親の同族会社が潰れ

る前の社用車RS型初代クラウンの後期モデル。今の60歳以下の世代にとって

はSFのように雲を掴む話に近いだろう。


  戦後に訪れた自動車産業の成功のきっかけは、外資(当然連合国側で、小型

車中心のイギリスやフランスメーカー)の力を借りたライセンス生産(ex日産

オースチン、日野ルノー、いすゞヒルマンなど)といった政府主導で始まる。

今世紀に入ってから本格化した中国における改革開放政策に基づく社会主義市

場経済を背景に急成長を果たした中国はこれに倣った感がある。国営企業との

合弁によって産業育成と技術の習得を短期間で成し遂げる。


  今世紀に入って二桁の高度経済成長を成し遂げ、2000年には1180万台に留ま

っていた自動車保有台数は今や2億台を超えた。国内生産台数も2000万台/年

を大きく上回り、今やアメリカに次ぐ世界第2位の保有と生産台数を有する有

望な最大市場への道を突き進んでいる。


 市場規模は日本の総人口の10倍以上というスケールそのままであり、このと

ころの経済の停滞はあるものの、まだまだ成長の可能性を残している。すでに

人口が減少サイクルに入って12年となる我が国とは直接比較にはならないが、

ここまでの成長パターンとそのプロセスは改めて見比べると驚くほど酷似して

いる。


  行政指導や護送船団方式といった資本主義とは相容れない社会主義的な施策

の下で自動車産業は今日に至っている。日本のクルマの歴史を紐解くと、歴史

的経緯と技術や環境の変遷からモビリティの発想が生まれた西欧やアメリカと

は異なり、生きる糧を得る産業の側面から始まり、割り込む形で社会に広まっ

た日本車の成り立ちが浮き彫りにされる観がある。


●C.ゴーン氏にあって、西川廣人氏に決定的に欠けていたモノ


 ところで、唯一純国産化を志向したトヨタは紆余曲折の後にクラウン(初代

RS型1955年=昭和30年)を開発して独自路線を貫いた。1948年創業のホンダは

まだ2輪メーカーであり、1961年に通産省(当時)が発表した『自動車行政の

基本方針』(後の特振法案=既存の自動車メーカーに絞って振興を図り、新規

参入業者を拒む:国会には未提出)に創業者の本田宗一郎が猛反発して今日の

発展の礎を築いた話は有名だ。


 それにしても戦後の黎明期に登場した無数の自動車メーカーからは淘汰され

たとはいえ、現在もなお大手の乗用車メーカー/ブランドが8社も存続して、

トラックバス専業のいすゞ、日野、三菱ふそう、UDが残る。乗用車メーカー

はトヨタグループ(子会社のダイハツやスバル・マツダ・スズキ)、風前の灯

火とはいえアライアンスを組むルノー日産三菱。そしてデトロイトのGMとの

関係を強めているホンダ。大規模な合併といえば日産に吸収されたプリンス自

工(1966年)があり、それ以来当時の通産省による官主導の再編は見られない。


 1998年末に倒産の危機に瀕し、翌年3月27日にフランスのルノーとの提携に

よって救済された日産の事例などは、経営陣の失策もさることながら縦割りの

官僚的な組織構造や労使関係に見られる無責任体質といった霞が関の行政官僚

機構そのままの結果であり、バブル期の狂騒から庶民感情を恐れた責任回避の

ハードランディングでバブル崩壊という官僚の失策が30年に及ぶ平成の不況時

代を招来させた。


 日産の再生には、日本型経営にドップリと浸かりことなかれが内部昇格の決

め手とされたサラリーマン経営者では覚束ない。結果としての経営のプロたる

カルロス・ゴーン氏の招請であり、実は日産の少壮管理職階層が取りまとめた

日産リバイバルプラン(NRP)をしがらみに囚われずに断行した結果が奇跡

とも言われたV字回復の真相だった。


 1998年末の時点で所管の通産省もメインバンクの興銀(現みずほ銀行FG)

も匙を投げていた案件が、外国人の経営で再生どころか2016年には世界で3本

の指に入るアライアンスグループに躍り出た。経営は結果責任というが、1999

年の日産COO就任以来、2001年には同CEO、2004年紫綬褒章授章、2005年

ルノーCEO、2016年12月には三菱自工を日産傘下に買収し同社取締役会長と

歩を進め、世界で最も有名な自動車会社経営者として知れ渡っていた。


 NRP以前の1兆円超の有利子負債に喘いでいたポストバブル期、超円高が

転じてバブル景気に沸いた昭和末期のR32GT-Rに象徴されるエンジニアの

暴走、その前の労使紛争による社内ガバナンスの混乱。高度経済成長期からの

歴史を俯瞰できるキャリアの持主なら、非難されるべきは誰かは明らかなのだ

が、権力の走狗と成り果てたメディアが混乱に輪を掛けた。


 所管の現経済産業省の官僚の無能と無責任に西川廣人前CEOの私利私欲が

重なり、検察の思惑と現政権につながる自動車産業界の意思が合わさって(ト

ップメーカー首脳の嫉妬が背後にあったというのは私の想像だが、その可能性

は否定できないだろう)、日本という世界的な信用につながるブランドそのも

のが致命的といえるほどに傷ついた。


●オイルショックからの数年間”ワークス”はサーキットから姿を消した


 今はもはや昭和の発展途上段階ではない。1985年のG5(先進5ヶ国蔵相・

中央銀行総裁会議)での『プラザ合意』は、日本はすでに途上国ではなく世界

でもっとも貿易黒字を掻き集める文字通りの先進国の仲間入りを果たした。そ

れなりに振る舞って下さいね、というメッセージがドル/円の為替レートを一

気に2倍へと円高になることを容認する合意だった。


 この時に世界基準で変革に舵を切る国際感覚の持主が日本の政界や経済界に

いれば良かったのだが、一括採用、年功序列、終身雇用という世界でも類例の

ないシステムで醸成され、内部調整に長け大成功よりも失敗しないことで生き

延びた内部昇格組の経営トップにリスクを取って変革に踏み出す勇気など有ろ

うはずもない。


 チャンスはあったと思う。バブルの絶頂に至るまでの1980年代の活況を知る

者なら共有できるはずだ。時は1970年にピークを迎えた高度経済成長の後に突

如として襲ったオイルショック(第4次中東戦争に伴ってアラブ諸国が親イス

ラエル友好国を対象に行なった石油の禁輸措置による高騰と混乱)と相前後し

て強化された自動車の排出ガス規制による停滞は、日本の自動車産業をほぼ壊

滅状態にまで追い込んだ。この間(1974~77年まで)の日本車の「走らない、

つまらない、華がない」という三重苦は、思い出すだけでゾッとする。


 私は、世の中が反自動車に触れるこの時期(1975~1978年の足掛け4年)に

モーターレーシングを志し、自動車メーカーが一斉にサーキットから姿を消し

(ワークス活動の全面的休止)、富士のグランチャンピオンシリーズ(BMWvsマ

ツダ13B)や鈴鹿のF2シリーズ(BMWのM12/6直4エンジンが全盛)が席巻。1300

ccクラスの特殊ツーリングカー(TS)の日産サニー(KB110)が隆盛を誇った。


  日本の自動車産業は生き残りを懸けて排ガス対策に没頭、1978年3月のマツ

ダRX-7を皮切りに3元触媒を手中に収めた各社が続々と日本版マスキー法

として克服困難とされた昭和53年排出ガス規制をクリアして日本車の時代が始

まった。


 世界的な省エネと排ガス規制強化のトレンドの中で、小型車中心の日本車は

排ガス規制クリアと好燃費が受けて世界的な評価を受ける。最大の貿易相手国

のアメリカでの日本車人気は日米貿易摩擦の筆頭に挙げられる存在となり後の

グローバル化につながるのだが、1970年代に規制対応に没頭する余り世界の潮

流に外れ掛かっていた小型車のFF(前輪駆動)化が急伸する。


 日本の主要各社が競ってFF小型車を品揃えすると差別化の必要からパワー

競争が勃発。さらに高出力/トルクに対応するというロジックから横置きFF

ベースの4WD化が進み、エレクトロニクス(電子制御)技術と走りの性能を

合わせたハイテク/ハイパワーが1980年代のトレンドとなったわけだが、国内

主要メーカーによる国内市場シェア争奪戦はあらゆる車型にチャレンジする多

様化のムーブメントは、バブル景気に向かって激化の一途を辿った。この間の

タイヤメーカーによる走行性能を高める技術開発が日本車のパワー競争に多大

な影響をもたらしたことも重要なファクターとして押さえておく必要がある。


●スカイラインGT-Rが日産を駄目にした


 日本車のヴィンテージイヤーとして振り返られる1989年はバブルの頂点であ

ると同時に元号が昭和から平成に変った年としても記憶される。実はこの年ま

では日本車の主流はいわゆる5ナンバー枠であり、全長4.7m、全幅1.7m、エン

ジン排気量2リットル未満が国内需要の大半を占めた。2リットル超の多くは

輸出向けを中心とする海外市場対応モデルで、唯一の例外として日産のスカイ

ラインGT-Rがあった。


 米国トヨタのレクサスチャンネル用フラッグシップとして開発されたLS400

や日産のインフィニティ向けのQ45、Z(ズィー)カーとしてブランドアイコ

ンにもなっていた300ZXとは違って、R32GT-Rは1985年から始まった国

内ツーリングカー選手権のグループA規定を精査してエンジン排気量からタイ

ヤサイズと4WDシステムの採用に至るまでフルコミットメント。その仕上げ

を西ドイツ(当時)のニュルブルクリンク北コースで行い、1960年代に伝説化

されたポルシェを仮想敵に想定することでブランド価値の創造に注力した。


 時代は面白いクルマを作れば売れたバブル期。70年代から80年代前半を通じ

て労使紛争が絶えなかった低迷から一転初代シーマからS13シルビアに始まる

ヒット作の延長線上に究極のハイテク/ハイパフォーマンスマシンR32GT-

Rが位置づけられた。原価管理が行き届いていた企業だったら果たして市場に

投入されたかどうか。


 国内ツーリング競技車両規定だけに注目したR32GT-Rは、直列6気筒エ

ンジンにツインターボとアテーサE-TS4WDシステムを組み合せる仕組み。

かぎられたフェンダースペースに収まるタイヤサイズを勘案してトルクを分散

する4駆システムとしたわけだが、このパッケージングでは当然左ハンドルは

作れない。国内市場専用のドメスティックモデルであるスカイラインだからこ

そあり得たレイアウトであり、同じ280馬力自主規制のフェアレディとは違っ

て当初から輸出は想定されていない。


 スカイラインの主力モデルは2リットルのGTS-tタイプM。クーペのG

T-Rから割り出されたパッケージングで4ドアを仕立てた結果、コンパクト

である以上にセダンとしての機能性に疑問を生じることになった。後の日産G

T-R開発の全権をC.ゴーンCEOから任されて商品企画に携わったという

水野和敏氏は、スカイラインのポジションはスポーツモデルであり、異なる

キャラクターを求めるならローレルやセフィーロを用意する。当初から意図し

て開発したと振り返るが、それを聞いたのは21世紀に入ってからだった。


 私はR32では実験主担、R33と34では開発主管を務めた渡邉衡三氏とは深く

議論を交わした間柄で、最後の直6スカイラインR34の発売前には即刻の企画

中止を進言して不興を買ったこともあるが、日産FR3車がかつて月販4万台

を売ったトヨタマークII、チェイサー、クレスタと同様の商品企画だったとは

初耳だった。ポストバブルで経営が傾き懸けた時にもなおテクノロマンに興じ

たエンジニアこそがNRPに至る元凶だったと私は見ている。


 アメリカでも25年ルールが解けて右ハンドルのR32GT-Rが市場に回るこ

とが許されるようになり、エキゾチックカーとしての”R”はカリフォルニア

でも人気というが、現役当時は収支にまったく好影響を及ぼすことがなかった。

ゴーン氏がブランド資産としての価値に注目し、R34で途絶えていたGT-R

を日産ブランドの核として復活させた洞察力は経営のプロらしい慧眼(けいが

ん)と言うべきだろう。


 ことはフェアレディの復活や日本市場では交通法規の制約や負担の大きい税

制から軽自動車が最適とスズキからのOEM供給、ハイブリッドではトヨタに

追いつけないとEVのリーフ開発に経営資源を傾けたり。責任を持ってリスク

に対峙する。日本人が決定的に駄目なリーダーシップを発揮したところに得難

いモノを感じる。内部昇格のサラリーマン経営者がそこに嫉妬して独裁者とい

うレッテル貼りを貶める。この感覚でグローバル化時代を乗り切れると正気で

思っているとしたら、日本企業にチャンスは永遠に戻ってこないだろう。


●「次ぎ?多分もうこの担当ではなくなってます。地方かなあ」


 ここで重要なのは、許認可権を握る行政官僚機構が法治国家という支配構造

の中で、法の下において揺るぎない権力を握っているという事実だろう。方や

公僕として国民に仕えることで税金を原資とする給料を貰う立場の官僚に対し、

自らの才覚で企業の運営に携わり収益を上げた結果としてそれなりの報酬を受

け取る私企業の経営層。経済的にも社会的ステータスの面でも圧倒的優位にあ

る重役が、若輩の行政官僚の権力の前に屈伏せざるを得ない。


 冒頭のエピソードがここに掛かってくる。大した人生経験もしていないのに

キャリア官僚として採用された瞬間にエリートの道が用意される。入省(庁)

当初は青雲の志を持った優秀な若者が、無謬原則に凝り固まり前例主義と失敗

しないことが登り詰める道であると散々組織の掟を刷り込まれる。


「嫌だったら、そこの窓から飛び下りろ!替えはいくらでも居るからな」そん

な恫喝が日常的に行なわれていると聞いたことがある。斯くして金太郎飴のよ

うな行政官僚が出来上がる。役人の最高峰事務次官になれるのは同期で一人。

2番手の官房長や局長クラスのポストも数に限りがある。駄目だと分かったら

セカンドキャリアを求めて辞する。


 かつて東京都の石原慎太郎都知事が『ディーゼルNo宣言』を発した頃、当時

の関係省庁(通産省、資源エネルギー庁、環境庁)や石油連盟などの業界団体に

朝日新聞系列のCSTVレギュラー番組の看板を活かしてインタビューを試み

たことがある。対応の多くは若い(20代)の班長クラスで、事情通のノンキャ

リ組がサポートに回ることが多かった。取材終了時に「また何かあったら次ぎ

もよろしくお願いします」挨拶代わりに述べると「次ぎ?多分もうここにはい

ませんね。地方の出先で修行を積んでいると思います」若いキャリア組は幹部

候補として英才教育を受けるのだという。


 斯くして民間の重役クラスなど例え大企業であっても同じない若きエリート

官僚が出来上がる。人生経験などなくても組織の掟に順応し、無謬原則に従っ

て過去を否定せず前例主義に則ってシンプルに答えを出す。徹底した既得権益

の保護に徹し、容易に変化に与しない。ここにこの国がかつての成功体験が忘

れられず、変革を阻むことに執着するメンタリティの根源がある。


 そうした体制下で成功を収めてきた企業が、伝統的にトランスフォーメーシ

ョンが苦手で従来型の手法をリファインすることで延命に長ける組織となるの

も分からないではない。相手のあるビジネスでは、こちらの都合ばかりでは動

かない。世界的なゲームチェンジが進む中で、今まで通りに固執することのリ

スク。ダイバーシティ(多様性)が世界の現実なので、まだ従来通りが通用す

るかもしれないが、我流に拘って変化への対応を怠ると一気に置いていかれて

しまいかねない。


 ピークは奈落の底への始まりになりかねない。私は従来型のクルマにもまだ

まだチャンスはあると考えている。テスラの最新モデルを見ていて思うのだが、

EVが何で500馬力、300km/h超というリアルワールドで使えないパフォーマン

スと競い合う必要があるのだろう。


  現在のICE(内燃機関)でも、あまり現実的でない過剰性能なんかに振り

回されないで、かつてのソニーのウォークマンのように"SMALL IS BEAUTIFUL"

といし事実に注目して、より小さい排気量で必要十分以上の走りのパフォーマ

ンスを身に付けて、何よりもクルマの商品価値を決めるデザインやテクスチャ

ー(手触り)に関わる素材にコストを懸けた方がいい。


  真似の出来る技術なんかに頼らないで、真似の出来ないセンスを磨いて価値

(バリュー)を高める。人は何のために生きている?『幸福感(ハピネス)を求

めている』と考えるところから始めるのも悪くはないんじゃなかろうか?  

                                   

-----------------------------------

ご感想・リクエスト

※メールアドレス fushikietsuro@gmail.com 


■twitter http://twitter.com/fushikietsuro

■facebook http://facebook.com/etsuro.fushiki 

■driving journal(official blog)

■instagram ID:efspeedster 

2020年8月4日火曜日

メルマガ『クルマの心』2020.7.7既報の再録

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

           伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』 
             第388号2020.7.7配信分


●なんとかかんとか8年間続けられました。これからもよろしくお願いします

 7月7日は本メルマガ『クルマの心』の創刊記念日。2012年に有料配信として
始めた。そもそものきっかけは今世紀に入って50歳の働き盛りに差し掛かった
時の躓きにあった。少し余談めくが、そこに至る経緯を振り返っておこう。

  忘れもしない2005年9月。トヨタ自動車は、1989年に当初は北米専用プレミ
アムプランドとして立ち上げたLEXUS(レクサス)を国内導入。すでに欧州その
他の地域に販路を拡げていたが、唯一日本市場だけが取り残されていた。この
国には自前の高級車ブランドは馴染まない。誰が決めつけたのか分からない
が、日本製プレミアムブランドはこの国には根付かないことになっていた。

 1980年代にいち早く北米での現地生産(オハイオ州メアリズビル)を開始し
ていたホンダ(1982年)が、まずアキュラというプレミアムチャンネルを立ち
上げる。レジェンドもNSXも当初からアキュラのフラッグシップとして企画
されている。今なおアキュラを国内展開しないことからホンダ〇〇〇と名乗る
が、いずれも商品企画としてはアキュラ。デザインテイストもホンダとは異な
る。ホンダが国内販売の2倍以上をアメリカで売り上げている事実を多くの日
本人は知ろうとしないが、今や世界一の自動車市場と化した中国でも同様の存
在感を有していることはきちんと把握しておかないといけない。

 次いでホンダの翌年にテネシー州スマーナに工場進出した日産がインフィニ
ティを立ち上げた。タイミング的にはヴィンテージイヤーとして語り継がれて
いる1989年。トヨタのレクサスと足並みを揃えるように展開された。トヨタは
レクサスではLS400を名乗った同型車をセルシオの名で市場導入したが、日産
はインフィニティを車名として登録。北米での本名(?)Q45はサブタイトル扱い
となった。

  それぞれの登場は好況のバブル期に重なるが、そもそものスタートラインは
日米貿易戦争にある。1980年に日本の自動車産業は1100万台/年の大台を突
破。アメリカ合衆国を抜いて世界一の自動車大国に登り詰める。1960年代の
高度経済成長期に産業としての自動車が形を成した。国内の人口増と経済的活
力が重なって、モータリゼーションの萌芽が訪れる(1966年)。年率二桁の経済
成長は1970年をピークに翳りが出て、1973年のオイルショックでどん底に凹
んだ。

  折からの排ガス規制強化もあって日本の自動車産業は滅亡寸前まで行ったが、
危機をバネに一丸となって問題解決に臨む日本の集団主義体制は、通産省(当
時)の"護送船団方式"も奏功して難局を克服。世界的な省エネと排ガス規制の
強化は小型車中心の日本自動車産業に幸いする。結果として最大の貿易輸出国
アメリカとの収支不均衡が問題視されるようになり、繊維に代わってエース品
目に昇格したクルマがやり玉に挙がった。

●長く生きて歴史観を身に付けないと本物の自動車評論家にはなれない

  すでに40年近く前の話。大方の記憶は薄れているかもしれぬ。そもそも現在
40代以下の若い世代はその事実さえ知らないだろうが、自動車産業の宗主国を
以て任じ世界最大の自動車市場を持つアメリカ人にとって、急速に存在感を高
めるメイドインジャパン(日本車)はプライドを傷つける存在だったに違いな
い。大ハンマーで日本車を叩き潰す映像は何年か前の中国から届いた映像そっ
くり。そこまでする?彼らの感情を測りかねたが、ショックを受けた記憶は鮮
明だ。

  貿易摩擦の激化。ことなかれ主義の日本政府(霞が関)は、メーカー各社に
自主規制を求め輸出台数を抑えることで矛先を逸らす策を講じたが不均衡の溝
は埋まらない。業を煮やしたアメリカ政府はG5(先進5ヶ国蔵相・中央銀行
総裁会議)において円高/ドル安を容認する合意を取りつける。

 世に言う『プラザ合意』は会議が行なわれたセントラルパーク際にあるニュ
ーヨークのホテル名に因む。それまで240円/1ドル近辺で推移していた為替
レートは120円台に跳ね上がった。すわ円高不況。輸出企業にとって従来品が
一気に売価倍増となり競争力失墜を意味した。まさに青天の霹靂。利幅の薄さ
を為替で埋め合わせていた日本のビジネスモデルの変更が急務となった。

 従来型小型車から利幅の大きい上級車への移行。丁度折よく行き場を失った
日本円が不動産への投機に向かい、資産価値の膨張にともなう金余りがクルマ
の高級高価格化を追認した。それまでの日本車はいわゆる5ナンバー枠が基本
だったが、3ナンバーに対する心理的バリアは解かれ、輸入車に対する抵抗感
も薄れていった。昭和と平成の違いを端的に述べようと思うなら脱5ナンバー
化を挙げるといい。

 昭和の終焉を飾るバブル経済は平成元年(1989年)に開花し、1990年に史上
最大の777万台の自動車販売を記録したところで弾けた。以来平成の30年間は
ずっと500万台規模で推移し、デフレ経済の定着によって市場としての活力が
戻らないまま令和の改元を迎えている。2008年にピークを打った総人口は以後
減少に転じ、少子高齢化が際立つようになって12年が過ぎたことになる。

 転機はプラザ合意から10年経った1995年。貿易摩擦の焦点となった日米自動
車協議の妥結を受けて、日本の自動車産業は輸出から仕向け地での現地生産へ
と舵を一気に切る。1980年代の熾烈な国内シェア争いで蓄積された商品の多様
化と開発/生産両面での技術的洗練をそのまま海外に水平展開。市場を国内か
らグローバルに拡げることに成功して今日に至るわけだが、やはり1995年から
10年後の2005年に新たな展開が訪れる。

 レクサスブランドの日本市場導入だ。北米での販売チャンネル創設から約15
年。現在はそこからさらに15年ということになる。『ブランドは我慢』当時の
推進スタッフの誰かがいみじくもそう言ったが、継続する体力(=販売力)が
ないとプレミアムな存在には至らない。ブランディングの正否を決するポイン
トはここにあり、1強多弱状態の日本でトヨタのレクサス以外にチャレンジで
きなかった理由もここにあるようだ。日産もホンダも国内シェアではトヨタの
半分以下であり、競合できる米中市場での関係では隔たりが大きい。

●『ブランドは我慢』レクサスの導入スタッフは喝破した

 目の前の現実だけで考える大半の日本人にとって、すでにグローバル化して
久しい日本の自動車産業の全貌を理解するのは難しい。クルマは20世紀に花開
いた文明の利器であり、ハードウェアとしての機能性能に違いはないが、走ら
せる環境は多様であり、日本の常識がどこでも通じるとはかぎらない。

 簡単に言うと、ほとんどの日本人は世界中の人々が同じようなシステム・イ
ンフラ・法制でクルマを走らせていると思っている。自らの常識が万国共通だ
と理由もなく信じているが、もちろん所変われば品変わる。

 レクサスの日本市場導入は2005年晩夏のGSとISのフルモデルチェンジで
始まった。フラッグシップのLSは翌2006年にデビューしているが、日本市場
におけるレクサスチャンネル導入に賭けるトヨタの意気込みはGSが京都、I
Sが伊豆長岡という試乗会場の設定に表れていた。

 京都はGSの三吉茂俊CEの出身地であり、南禅寺の境内がプレゼンの場に
当てられ、比叡山ドライブウェイを中心とする試乗コースが設定されていた。
いっぽうISの伊豆長岡は福里健(すぐや)CEの趣味である能に因む。老舗
旅館の『あさば』は全10室ほどの内風呂付き和室に面した庭に能舞台が設えら
れている。ロケーションは東京近郊の伊豆と近いが、予約の取れない高級旅館
として知られる。

「ブランドは我慢です」レクサスの国内導入担当者から名言を得たのはいずれ
のモデルだったか忘れたが、あれから15年の歳月が過ぎて現在のLEXUSがあ
る。冒頭に"忘れもしない2005年9月"と書いたのは京都のGS試乗会での『事
件』の記憶からだった。

  南禅寺でのプレゼン/夕食の後市内のホテルに戻ると、前澤義雄(故人)さ
んに呼び止められた。外出するという。一緒にタクシーに乗り込むと見覚えの
ある通りに着いた。建物の向こう側に白川が流れる新橋通り。ここは祇園の一
角を占める町家が並ぶ風情のある場所で、京都に訪れると白川端や巽神社辺り
で必ずクルマの撮影に励んでいた。ただし、早朝の人気の少ない時間帯がほと
んどで夜は初めてだった。

 味わい深い町家の並びとばかり思っていた軒の連なりが夜になるとネオンが
灯るナイトクラブに変貌していた。知る人ぞ知ることかもしれませんが、カラ
オケありのバリバリのクラブ。京都の奥深さを改めて知る思いをしました。と
にかく強く印象に残ったので、少し間を置いて開催されたホンダのシビック試
乗会で懇意のカメラマンと同乗した際に話した。実はそのことは忘れていた
が、しばらくあって電話が鳴った。

 出ると「マガジンXのS編集長」であるという。「レクサスの京都試乗会で
二次会に出掛けましたよね?」藪から棒に問われた。てっきり同席したトヨタ
広報部からの情報かと思い、シラを切るまでもないと認めることにした。冷静
に考えると広報がそのようなプライバシーに関わることを言うはずもない。己
の脇の甘さを恥じたが、その電話取材一本で翌月のマガジンXに『接待漬けの
自動車評論家』というグラビア3ページの批判記事が載った。

 振り返ると某カメラマンだけに話したことを思い出した。彼と某氏が昵懇の
間柄であることを後に知る。いずれも業界事情通であることを”武器”に隠然
たる影響力を持ち、彼はホンダ某氏はトヨタの庇護の元でフォトグラファー界
と自動車ライター界で隠然たるポジション(AJAJ副会長、MSJ副会長等)を築
いていた。

●銀座のママ曰く「この人たちは家でも会社でも居場所がないの」

  私は1987年からCOTY(日本カーオブザイヤー)選考委員を委嘱していた。35歳
から2005年までの17年間(2003-2004年はCOTY実行委員会内紛の影響で非委
嘱)の実績を積み上げており、1990年代は新たなメディアとして注目されたデ
ジタルCSにレギュラー番組を持ちCOTY選考会をいち早く取り上げたりもして
いた。時代はバブル崩壊に伴う出版不況下であり、インターネットメディアの
台頭と合わせて雑誌メディアを主体とするCOTYのあり方にも変化の兆しが見ら
れるようになっていた。

  私としては、COTYは開かれたイベントになるべきと考えていた。外部への情
報発信に消極的な実行委員会の意識改革を目論んで、番組を通じてオープンに
なるよう(例えば選考委員の公開を自身の紹介を通じて試みたり)知恵を絞っ
た。日本社会は人と異なる行動を起こす者に冷淡だ。出る杭は打たれるという
諺もあるように、目立つ人物を嫌う傾向が強い。

  世間に疎いと言われればそれまでだが、50歳を過ぎるこの時までCOTYのよう
なイベントは公開のお祭りのようにして盛り上げるべきだと考えていた。とこ
ろが、多くは既得権益に属する実行委員/選考委員の境遇は外部に知られるこ
となく内輪で共有できたほうがいいと認識していたようだった。

 言い忘れたが、京都も伊豆長岡もCOTYメンバー中心の試乗イベントであ
り、祇園の夜は広報部の課長職と私と同世代の実験部部長と前出前澤氏による
企て。私はついでに呼ばれた立場だった。マガジンXからは前澤氏にも問い合
わせがあったそうだが、知らぬ存ぜぬで通したと聞いた。

 斯くして2006-2007COTY選考委員を選ぶ実行委員会で落選。そこには別団
体イヤーカー選考会を企てる勢力との確執があったり(米国取材で訪れていたLA
のホテルに電話があり、そちらへの参画を要請されていた)、新旧交代の機運
が盛り上がる過渡期という政治的な事情もあったようだった。

  自動車評論家、なかでもCOTY(日本カーオブザイヤー)選考委員のような立場
にある者にはとかく接待供応の嫌疑が掛けられがちだ。公職でもなく私企業が
業務で行なうことを咎めることに疑問なしとはしないが、モラルは求められて
当然だとは思う。

  私は35歳の時に接待の洗礼を受けた。コンプライアンスが問われるようにな
った21世紀とは違う昭和のバブル期の話である。当時の私は世間知らずの堅物
で、夜の銀座に連れられて行っても楽しいとも思わない。ある日クラブのママ
に「このお店のお客さんって何なの?」直球をぶつけると「一流会社の部長さ
ん、会社では部下に疎んじられ、我が家では妻子に煙たがられる人たち。お店
は皆さんが役職で手に入れた安らぎの場なのよ」

 聞いて、少し世の中が分かったような気がした。となれば企業の数だけある
接待を全面的に受け入れるか、すべてを拒否するか。誘われたらすべて受ける
ことにした。それで知れる世界は得難い財産。COTYの配点には一切影響しな
いと決めれば、相手は残念だろうがこっちの一分は通る。先方が効果なしと見
切り声が掛からなくなっても、むしろ好都合ではないか。

  重ねて言うが、コンプライアンスが浸透確立した現在のルールを過去に当て
はめて評価するのはフェアじゃない。接待を拒む無粋を担当部署の当事者が恨
むこともある。21世紀も20年が過ぎ日本の国内市場がグローバル全体の20%を
切る現実の中で、国内広報部門の仕事はわずかなボリュームに過ぎないクルマ
の評価に収斂している。

  グローバル化した現実の中で、日本語の壁に守られた小さくて特殊な市場だ
けに向き合うことの矛盾をどう考えるか。国内広報部門とメディアの間にある
BtoBのもたれ合い関係を、ジャーナリズムの視点で問い直すことができるか。
問題の根深さに思いを巡らさないわけには行かない。

●私の興味は常に未来に注がれている

  今回で第388回。伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』としてとにかく続けて
みることにした。この間ずっと試行錯誤であり、当初からの読者は何度同じこ
とを目にすることか、と嘆き節の連続だったかもしれない。

  当初はwebマガジンをイメージして多様な記事を盛り込むことを試みたが、
スキルが思いに届かない。雑誌出版メディアで主流を成している試乗リポート
にフォーカスすることも考えたが、テクノロジーやインフラの進歩に対して法
体系やそれにともなうシステムがまったく対応できていない。単なるハードウ
ェアとしてのクルマを新旧の軸で捉えても、前提となる環境がまったく変化し
ていない状況下で優劣を語っても意味がない。

  いわゆる試乗インプレッションは、昭和の高度経済成長期に欧州やアメリカ
のメディアを目にした先達が見よう見まねで日本語化した、元々日本にはなか
った文章表現がベースとなっている。私がフリーランスを始めた頃(1978年)と
永遠の成長が信じられた1980年代の激しい変化を伴う発展途上段階に、広告ベ
ースの商業出版が活性化。多くの試行錯誤や外来語の転用によって形作られた
雑誌文化が昭和末期にピークを迎えた。

  ポストバブルとともに始まった平成時代は、インターネットの普及と自動車
産業の生産拠点の国外移転を伴うグローバル化によって産業全体の様相は昭和
のそれとまったく異なるものになって行ったが、唯一日本語の分厚い壁に守ら
れた既存メディアは縮小する国内自動車市場とともに新たな展開に踏み出すこ
とができなかった。結果として昭和の成功体験を追認する"劣化コピー"に終始
し、1mmも変化しない国内道路交通法規の中でインフラとクルマのテクノロジ
ーだけが国際的なレベルに高まったことで、現実との乖離が増幅されて行った。

  100km/h以上の速度超過は多額の罰金が課せられる現実を離れて、ファンタ
ジーだらけの"試乗インプレッション"という私的感想か溢れる。私がyoutube
などで変えるべき走行環境を語ると、経験の浅い若い世代から猛批判を浴びる
ことになるが、正すべきは走ることを否定する法規制であってクルマではな
い。すでにハードウェアとしてのクルマの性能は飽和状態にあり、クルマの性
能を下げるかインフラ/システム/法規制をアップデートするかの二者択一が
迫られるようになっている。

 1980年代の昭和末期に訪れた世界基準を追う発展途上段階では、サーキット
やテストコースとった限定空間を前提に純粋にハードウェア評価を追及した。
安くない走行料金を支払う余裕が伸び続ける広告出稿から潤沢にあったことも
あるが、シンプルに知らない世界を垣間見る興味がモチベーションとなった。

 昭和の”劣化コピー”に終始した平成の30年は、出版不況にデフレ不況が重
なり、もっともコストの掛からない一般公道でのインプレッションが但し書き
ありのクローズドトラックの評価を省く形で全能化。結果として、現代的な性
能レベルに到達したクルマの現実と半世紀にわたって変化を拒み続けてきた交
通行政に埋めがたい溝が生じ、雑誌を始めとするメディアで語られるほとんど
すべてがファンタジーと化す状況が生まれた。

 最大の問題は、当のライターも編集者もそれが異常であるという認識を欠く
ことで、昭和の成功体験の”劣化コピー”を意識することなく続けることに恥
じないことだろう。インターネットの普及によって双方向性(インタラクティ
ブ)であることがあたりまえになり、SNS(Social Network System)による
情報の送り手と受け手の関係が激変した状況にあってなお、今まで通りで在ろ
うとする。

  ここに既存メディアが時代の変化に対する最大の『抵抗勢力』と化している
現実がある。すでに、メディアに属するエディターもライターも自分の生涯を
このままの形で続けることに執着し、自らをアップデートして変化に対応しよ
うとは考えていない。

  実は、クルマは従来型のモビリティツールのままでも十分に資源・環境・安
全のスローガンに応える資質を備えている。少子高齢化の先にある人口激減を
前に、メディアがファンタジーを語って誤った情報を垂れ流すのを止めれば、
世界最先端で直面する人類史上初の自然減による人口減少社会を乗り切るアイ
デアが生まれる可能性がある。

●とにかく走り回ってビッグデータを掻き集めてクルマのハピネスを目指せ!

  2020年7月7日は『クルマの心』が創刊から丸8年を重ねただけでなく、未来
に向けて9年目に踏み出す記念すべき日でもあるようだ。

  昨年11月の中国武漢市で感染拡大が発覚した新型コロナウィルスCOVID-19に
よるパンデミック禍は、それ以前と以後を大きく分ける歴史的な事件として後
世振り返られることになりそうだ。

  20世紀最大の発明とされた自動車が、この先同じ形で存続しパーソナルモビ
リティツールの中心に留まるかどうか。率直に言って分からない。私としては
すでに老境を迎えていることもあるが、50年にわたって慣れ親しんできたクル
マに深い愛着を感じるし、このままの姿で難問に応える術はあると考えている。

  永遠に地球人口が増え続けるという右肩上がりの成長に疑問符が付き、都市
化にともなう世界的規模の人口減少がテクノロジーの進歩とともに新たな局面
を迎えようとしている。

  何も300km/h超を実現するオーバー500psだけがクルマが目指す方向ではな
い。実際に経験したことのない者にかぎって秒速84m=300km/hを軽々しく口
にするが、人類の進化は未だそれを自由に操る身体機能を身に付けた訳ではない。

  日本の変化に富んだ37万平方キロメートルはもちろん、多様な価値観が溢れ
る世界各国各地を走り倒して、何が21世紀に求められる自動車モビリティのあ
るべき姿を考える。未来を生きる若い世代にとって、これほど面白くチャレン
ジングな話もない。

  実は自動車ジャーナリストという職業は、今後の指標となるハピネスの創造
=人それぞれで異なる幸福のあり方を探る魅力的なものになりそうだ。ドイツ
かぶれも結構だが、そろそろ狭い東京の論理を離れ自前の価値観で魅力的なク
ルマのあり方を見つける時ではなかろうか。

  大丈夫、『クルマの心』の読者ならどう生きるかもう分かっているはず。私
はまだまだこの先も人とは異なる視点で行動し、クルマを語って行きたいと思
っている。                              
                                   
                                   
-----------------------------------
ご感想・リクエスト
※メールアドレス fushikietsuro@gmail.com

■twitter http://twitter.com/fushikietsuro
■facebook http://facebook.com/etsuro.fushiki
■driving journal(official blog)
■instagram ID:efspeedster

2020年7月21日火曜日

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

           伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』 
             号外:2020.6.30配信


●東京一極集中を止めるためにも東京オリンピックは中止したほうがいい

 2020年も今日で前半が終わったことになる。何事もなく予定通りであれば、
7月24日開会式、8月9日閉会式となる東京オリンピック本番まで一月を切った
時期であり、首都東京はそれなりの活気を帯びていたはずである。

 私としては、昭和の夢よもう一度……とばかりに”東京オリンピック”とい
う語感に酔うことに疑問があった。1964年10月10日の私は12歳。3月の早生
まれということで中学1年生になっていた。川崎市立橘中学校のすぐ近くに関
東で初めての高速自動車専用道路『第三京浜』が開通し、記念パレードのブラ
スバンドを耳にした記憶が微かにある。ほんの数年前までの目前の市道は未舗
装で、近くの橘小学校にバス通学で通う生徒を乗せたバスが埃を上げながら砂
利道を走っている光景を思い出す。

 およそ60年前の日本はまだ戦後復興の途上にあり、誰もが貧しさを意識する
ことなく明日を見ていた。1960年前後の現風景は何もかもが不足していた。道
路だけでなく、電力は時折停電することが珍しくなかったし、上水道はともか
く下水道の整備は遅れ垂れ流しの河川や流れ込む東京湾は汚染を極めた。

 私が小学校に上がった1958年(昭和33年)の川崎市の人口は535,240人。政
令指定都市に移行した1973年(昭和48年)の翌年に100万人を突破。さらに61
年後の2019年(令和元年)には1,530,457人と実に3倍増となり、政令指定都
市としては第6位を占めるに至っている(第1位~5位は横浜・大阪・名古屋・
札幌・福岡)。

 この事実から透けて見えるのが東京(というより首都圏)一極集中の現実。
川崎市は多摩川を挟んで隣接する臨海の京浜工業地帯の一角として横浜市とと
もに都市化の流れを牽引してきた。高度経済成長期は大気や河川港湾の汚染が
激しく、朝礼などの集会時に光化学スモッグで生徒がバタバタと倒れる光景も
目にしている。

 私が育ったのは同市中部の武蔵野の雰囲気が残る多摩丘陵の風情が残ってい
た現高津区内。東京オリンピック以前はのどかな田園風景が広がり、雑木林の
山に行けば夏の昆虫取りに飽きることはなかった。やがて野山は宅地に改造さ
れ、道路の整備や私鉄の延伸などで激変。今ではかつての自然の風景を思い出
すことも困難だが、中心の東京都だけではなく神奈川・埼玉・千葉各県を合わ
せた首都圏(首都圏整備法によればさらに茨城・栃木・群馬・山梨の各県を加
えた1都7県)が世界最大のメガロポリスと言われるほどに巨大化したプロセス
と日本経済の浮沈がきれいに重なるのは間違いない。

 すでに日本の総人口が減少に転じて12年が経つが、今もなお首都圏への流入
が続いている。実際には東京圏(東京・神奈川・千葉・埼玉)における高齢化
が急激で、それを補う形で地方からの流入が続いているというのが真相らし
い。今後この50年にわたって経済成長に貢献した世代が漏れなく高齢者とな
り、コミュニティの存続が危ぶまれている。地方の過疎や限界集落だけではな
くて、成長を牽引した首都圏に数多く存在するニュータウン族が潜在的なリス
クになる可能性を秘めている。

●変りたくない大多数の人々が日本の没落を招くという逆説

 多くの場合、人は己の遠い未来を現実感を以て想像することがない。私自身
20歳の時に現在の年齢はおろか、40代ですら具体的にイメージすることはでき
かった。あと2年で古希だと言われてもまったく実感はなく、そもそも68の今
でも気分は以前と何ら変わらない。体力は着実に低下しているし、視力の衰え
から集中力の思いも寄らぬ欠落などでがっくりすることは増えたが、老いを言
い訳にしたくない気力は残っている。

 余人のことは知らない。個人差はあるし環境によっても異なる。年齢は一見
客観的な数値を装うが、同年齢がまったく同じ運命をたどるとはかぎらない。
日本の高齢化率(65歳以上が全人口に占める割合)は推計で3588万人で28.4%
を占める(2019年9月総務省)。2040年には同比率が35%超に達する見込み
だ。私は無事ならば88歳になっているが、これまでの変化の過程を振り返って
みてもどうなっているか分からない。

 間違いないのは、これからの時代に過去の経験はほとんど役に立たない、と
いう過酷な事実だろう。移り行く時代に対応する”変れる力”がないと、その
時代を楽しむこと難しい。”明治は遠くなりにけり”を耳にしたのは昭和の末
期バブルの世相だったと記憶する。元は、中村草田夫という俳人が詠んだ「降
る雪や 明治は遠く なりにけり」ということだが、中村がこの句を詠んだの
は昭和6年(1931年)。明治34年(1901年)生まれの草田男30歳のことであ
り、わずか20年前の明治を遠いと振り返ったことになる。

 昭和は1989年年初(1月7日)の天皇崩御によって平成へと改元されている。
すでに31年の月日が流れており、”昭和は遠くなりにけり”を実感しても構わ
ないと思う。私にとってはつい昨日のことであり、平成生まれが30代になって
いるという事実に年季を感じざるを得ないが、物心付いてからの過去の記憶は
すべて手の届く範囲という感覚がある。

 前回開催から56年の年月を経て再び承知に成功した東京オリンピックだが、
かつての行事誘導政策(イベントオリエンテッドポリシー)によって経済成長
を促し、復興に弾みをつけるという官主導の計画経済が有効だった時代とは何
もかもが変わっている。当初のお題目は2011年3月11日の東日本大震災復興に
あったはずだが、それが何故東京を開催地としたのかが分からない。

 すでに東京一極集中が問題視されるようになって久しく、復興を大義名分に
するなら被災地の中心だった仙台市などを候補にするほうが筋が通る。かつて
の成功体験の成せる技かもしれないが、2025年には大阪でやはり55年ぶりとな
る万博が開催予定となっている。いかにも無謬性の原則の上に立つ前例主義に
よって硬直化している行政官僚機構らしい「成功体験」を繰り返す願望に駆ら
れた施策という他ない。

 これ以上東京を肥大化させて良いことなど一つもないことは分かっているの
に、他のアイデアをリスクを取って打ち出すことが出来ない。前例に基づいて
決定し、一旦決まったことは批判を許さず遂行する。日本が敗戦のドン底から
一丸となって這い上がる戦後復興期には一括採用も年功序列の賃金体系も終身
雇用も機能したが、すでにグローバル化して20年以上経つ21世紀の現実にはす
べてのシステムが時代に合わなくなっている。

●工業化社会の優等生(日本)が情報化社会への対応が遅れた最大要因

 変るべきタイミングはこれまで何度もあった。多くは危機に瀕した時だが、
最大のチャンスは昭和から平成へと改元されたまさにその時にピークが訪れた
バブル経済の最中だろう。ミレニアム期の日本はひとり取り残されるように、
1980年代に磨き上げた規格大量生産の”モノ作り”をグローバル市場に展開。
アメリカを中心とする先進諸国が、モノ作り(製造業)に代わる次世代の本命
として情報技術(IT)にシフトする中で束の間の成功を手にしたが、直後の
米国バブル崩壊(リーマンショック)にともなう世界的な金融恐慌状態が危機
を顕在化させた。

 考え方次第では転機となり得たはずだが、日本の”社会システム”は成功体
験が忘れられない従来型の前例主義に支配されていた。大きく変ることよりも
カイゼンによる対症療法で危機を乗り切るという”昭和の劣化コピー”によっ
て、海外市場頼みが強まる一方国内はデフレ不況からの脱却に手こずる。

 2005年辺りから急伸した中国の経済成長もあって、日本型モノ作りのエース
自動車産業は再び成長軌道に乗ることが出来たが、何事も強みは弱み弱みは強
みという。激動する国際経済は、20世紀に隆盛を誇った『工業化社会』の枠組
みから21世紀に本命視される『情報化社会』へと舵を切っていた。

 1990年代後半からミレニアムのアメリカで弾けたITバブルを経て2000年代
後半から現在に至る変化は、従来型自動車産業が依然として存在感を保ってい
るものの、GAFAM(Google・Apple・Facebook・Amazon・Microsoft)に
象徴されるアメリカ西海岸のテックカンパニーが急速に時代を変えつつあった。

 GAFAMが仕掛ける”モノ作り”から”デジタル技術を用いたコト作り”
へのパラダイムシフトは、2000年代中頃から目に見える形を成し、金融工学と
いうアメリカらしい『錬金術』がリーマンショック(2008年9月15日)という
象徴的な事態を招来させた。

 続く2010年代は東日本大震災(2011年3月)に始まる波瀾の展開。世界が金
融恐慌状態で沈むところを昇竜の勢いで高度経済成長を続ける中国が”特需”
を創出し、気がついたら日本の自動車産業は元の木阿弥に戻っていた。

 工業化社会とは余剰を予め見込んで大量生産大量消費の枠組みを作り上げる
仕組み。農業や漁業などの一次産業も流通をセットにした工業化によって大規
模なシステムに組み入れられた。

 これに対して、情報化社会とは、モノをまず作ってから考えるのではなくて
情報の形でストック。需要に応じて即座に作れる体制を整えた仕組みを指す。
そのためには高度な工業化システムの確立が欠かせない。新興途上国が工業化
を急ぐのはそのためであり、中国の高度経済成長は共産党政権による独裁体制
だからそこ成し得た枠組み(外国メーカーの技術を国営企業を中心とする集団
に分散的に合弁事業化させることで成長スピードを高める)によって、瞬く間
に工業化社会から情報化社会へのステップを駆け上がって見せた。

 先進諸国にとって中国は数少ない成長が見込めるフロンティアであり、弱み
は強み強みは弱みの関係で中国がわずか20年を待たずに世界第2位の経済大国
にのし上がることになる。その事実を、昨年末に感染が確認された新型コロナ
ウィルスCOVID-19によるパンデミック禍がさらに複雑な国際政治環境を生ん
だ。歴史のアヤとしてこれ以上興味深い流れもないだろう。

●Freedom of Mobilityこそがクルマの最大価値。語るべきことは多い

 いずれも過ぎたことであり、時計の針を逆回転させることもできないが、今
般の新型コロナウィルスCOVID-19によるパンデミック禍は、まさに奇禍転じ
て千載一遇の幸運をもたらす出来事になるのではないだろうか。恐らく東京オ
リンピック/パラリンピックは高い確率で中止となるだろう。ことはパンデミ
ックであり、日本だけが上手く対応して被害を最小限に留めたとしても、すで
に世界中で感染者は1000万人を突破し、50万人の命を奪い現在進行形で感染
が続いている。季節が逆になる南半球ブラジルでの拡大が象徴するように、東
西から北南へと感染が広まり、一年中切れ目のない事態に陥っている。

  私たちは間違いなく歴史のダイナミズムの真っ只中にいる。クルマはモビリ
ティツールとして、また人と人をつなぐメディアとしてまだまだ魅力的であり
続けるだろう。この場合のクルマとは石油を始めとする化石燃料をエネルギー
源とする内燃機関で走る自動車を指している。EV(電気自動車)は形態とし
てはクルマと同じ様相を呈しているが、エコシステムとしての可能性は高いも
のの酷寒や乾燥猛暑といった地球上の多様な環境に対して万全とは言いがたい。

 直近から中期的には温暖化を始めとする地球環境問題は対応すべき重要課題
となるが、21世紀央には減少に転じる可能性が大きい人口問題が従来通りの対
症療法が適切とは言えなくなる可能性を秘めている。

 今後はデジタル技術が人間の身体性による限界を突き抜けて、自然との調和
をもたらす自然とデジタルが分け目なく存在する『デジタルネイチャー』があ
たりまえになる時代になるという。すでに私は新機軸に柔軟に対応できる世代
ではなく傍観に回る可能性が高いが、テクノロジーが老化による困難を克服す
ることになれば従来型のクルマをさらに楽しめる余地が膨らむに違いない。

 巷間、モノとモノとの比較論に明け暮れ、その情報の出所が実際の使用環境
で試したものではなくて(現在のクルマが提供する走りのパフォーマンスをフ
ルに試そうとしたら、現行の道交法が許さない)、その多くがパブリシティや
法の及ばないクローズドトラックでの情報を元にした”ファンタジー”となっ
ている事実に向き合う必要がある。

 コンプライアンスを楯に現在の道交法に諄々と従うか、法改正を求めて走行
環境/インフラのアップデートを行なってクルマの魅力を堪能できる余地を拡
げるか。経験の浅い世代は、すでに何でも揃っている環境や状況から物事を判
断しているが、クルマの魅力という本質論に迫る意見を聞くことは少ない。

 偏狭な世代論争は無意味なので深追いはしないが、クルマの性能が発展途上
段階から世界に冠たるレベルに至ったプロセスを知る者としては、”私の価値
観に照らしたクルマの魅力”をライフワークとして追及してみたい。

 今週は第5週ということで定期配信はないが、思いついたことを書き連ねて
号外としてみた。続きは次週の定期配信まで。7月7日は2012年の創刊から丸8
年が経過した記念日。いつものように配信遅れにならないよう気を引き締める
ので、引き続きよろしくお願いします。
                                   
-----------------------------------
ご感想・リクエスト
※メールアドレス fushikietsuro@gmail.com

■twitter http://twitter.com/fushikietsuro
■facebook http://facebook.com/etsuro.fushiki
■driving journal(official blog)
■instagram ID:efspeedster
私の有料配信メルマガの再録です。ご一読下さい。

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

           伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』 
             第387号2020.6.23配信分



●『お前の知らない世界に入ったのさ」星野薫氏談@鈴鹿サウンドofエンジン

 クルマは単にクルマだけでは評価することはできない。当たり前の事実に気
がついたのはフリーランスの自動車ライター稼業を始めて丸7年が過ぎた頃。
石の上にも三年というが、まったくの白紙の状態から始めてようやっと形にな
り始めていた。

 オイルショック(1973年10月勃発)を契機に急降下した10年前の1975年秋に
実戦デビューしたフレッシュマンレーサーの私には想像すら出来ない境遇に身
を置いた不思議。今となってはさらに35年の月日が過ぎ去り、自動車メディア
界にどっぷり浸かって42年。運転免許証取得は1970年7月5日であり、そろそろ
運転歴満50年の節目を迎える。

 すべては行き当たりばったりの成り行きで、運だけでここまで来たというの
が偽らざる実感だ。率直に言って、20歳の自分が私のキャリアを聞いてもまず
信じない。なりたい自分を思い描くことなど一度もなく、なんとかかんとか山
を越え谷を渡ってきたら68歳になっていて、まるで自覚ないままに高齢者と括
られる境遇になっていた。

 スターレーサーに憧れて一念発起でその気になる。情報が月刊ペースで更新
される発展途上段階だったからこそ夢見る馬鹿者が許されて、根拠のない自信
がダイナモとなった。振り返れば幸運の連続という他はないが、無手勝流には
絶えず痛い思いが付いて回った。

 好事魔多しというが、乗って書くの方向性が固まりつつあったタイミングで
盛大に躓いた。

 時は暮れも押し迫った1985年12月11日の午後1時になる少し前。私は富士ス
ピードウェイにいた。この年の始めから連載企画としてスタートした当時の国
内自動車レースのトップカテゴリーWEC(World Endurance Championship:
世界耐久選手権)を争うグループCマシンのステアリングを握っていた。

 条件は悪かった。前夜の執筆が押して、半徹夜でなお脱稿せず富士スピード
ウェイの待ち合わせ時間に遅刻した。使用料金の安い昼休みの1時間を専有し
て試乗と撮影を行なう。メニューは当時八王子に存在したオートヴューレック
レーシングチームのグループAマシンBMW635CSiとメインがグループCのトヨ
タトムス85C。快晴だったが真冬の路面温度は低かった。

●ドライ路面のスリックタイヤが氷上トライアルかと思わせた!

  まずは肩慣らし。driver誌の編集担当Tさんの「どおすんのよぉ~」盛大に
押した時間を嘆く声に身の縮む思いでBMWのシートに身を沈めた。すでに眠気
はすっ飛んでおりドライビングに集中。両脇から抱え込むようにして回すステ
アリングの重さに驚嘆。これであの名機ZC型16バルブDOHC搭載で初代全日本
ツーリングカー選手権(グループA)を制したシビックSi(AT型)やカローラレビン
(AE86型)と渡り合う困難に思いを巡らせた。

  無難な走りを見てチームオーナーからOKが出て85Cのガルウィングドアを
開けてコクピット。驚いたことに床はアルミモノコック剥き出しで、シートバ
ックとサイドサポート部にウレタン成形が配されていた。ステアリングホイー
ルのセンターが左に10度ほど傾いていたことを覚えている。

 走り始めて戸惑った。まったくグリップ感が得られず、氷の上を走るよう。
当時すでにグランドエフェクトカー(ボディ下部がウィング形状。ベンチュリ
ー効果でダウンフォースを得る)であり、グリップを得るにはスピードを出す
必要がある。

  すでに年初の日産コカコーラターボC(ルマンLM03C)でアクセルを踏めば激
烈なターボパワーが牙を剥き、踏まないとまるで安定しないというジレンマを
経験していたが、85Cはその比じゃない。そういえば夏場の鈴鹿で初めて同型
車のステアリングを握ることになった中嶋悟選手の姿が蘇った。コースインか
らの数周は、まるでマシンと会話をするようにゆっくりと流し、なかなか鞭を
入れることをしなかった。

  ライバルの日産勢も、日産LZ20B2.1リットル直4ターボ(540ps)マシン初テス
トの際に、長谷見昌弘・星野一義・柳田春人といった猛者をして「ちょっと気
持ちを整理させてくれ!」1周でピットインして弱音を吐かさせた"どっかんタ
ーボ"ぶり。同時代のトヨタの4T-GT改2.1リットルターボ(470ps)は、トータル
バランスで凌駕することを狙ったと聞いていたが、百聞は一見にしかずのじゃ
じゃ馬ぶりだった。

  私の葛藤は5~6周にわたって続いた。そして、決断を促したのは時間だっ
た。専有走行時間残り数分というところで、意を決して長い直線を全開。第一
コーナーアプローチに勢いよく進入する。と、リアが左にスライド。自然にカ
ウンターステアを当てコントロール内に収まったと思った次の瞬間、挙動が乱
れた。左リアタイヤがスキール音を発するのを聞いたところでノーズがインフ
ィールドを向き、狭いグリーンを横切ってガードレールに直行。弾みで軽く宙
を舞い、衝撃を臀部に感じた後グリーン上に着地した。

  流血の感触があったので、ガルウィングドアを開け車外に出てすぐに臀部に
手を這わしたが濡れていなかった。結果は仙骨骨折。内出血によりお尻は2倍
に腫れ上がった。患部の性格上手術は施されず、入院は2ヶ月に及んだ。

●何度も痛い目に遇って学んだ私流

 当時は(というか今でも変わらないと思うが)レーシングカーのサーキット
試乗取材で保険を掛けることはなかった。結局全損となった85Cは出版社が弁
償することになり、私の入院費用と休業保証も相談の上支払われた。自動車専
門誌のほとんどがそうで、基本的には無事故が前提。何もなくて良かったね、
というオウンリスクで回っていた。

 結果的に、不測の事態があり得るレーシングマシンの試乗取材はプロのレー
シングドライバー(基本的に書けない)の領域となり、私のような”走れるジ
ャーナリスト”にリスクを負わせて取材する編集者はなくなった。この年の私
はLM03日産(コカコーラターボC)に始まり、マツダ727C(ワークス)、ポルシェ
956(FROM-A)、ローラT616RE(オーナーのBFグッドリッチ社の招待でアメリ
カ・カリフォルニア州リバーサイドレースウェイに出張)の取材をこなしてお
り、この85Cをクリアすればほぼ制覇というところだった。自ら取材ジャンル
を開拓して、身を以て幕を閉じた。

 またぞろの回顧話になってしまったが、この事故による長期入院期間がそれ
までの仕事ぶりを変えるきっかけとなった。乗って走る自動車ライターの看板
を掲げていた以上ドライビングには人一倍関心があったし、クルマの評価スタ
イルにも一家言あった。しかしキャリアはまだまだ浅く、若さに任せた勢いと
ラップタイムや加速性能データといった数字にモノを言わせる面が強かった。

 クルマを走らせること、ドライビングには自信があった反面、国内外を走る
経験を通じて、クルマは単にクルマ(のハードウェア)だけでは評価できない
と痛感するようになっていた。長期の病床に伏せる時間は、”走り屋”として
のプライドの消失と向き合いながら「いかにしてサバイバルするか」を考える
またとない機会となった。

 その時の直感で手にした『知価革命』堺屋太一著が描き出した20世紀の残り
から21世紀に至る時代のパースペクティブ(透視図)に可能性を感じ、激変の
様相を呈した時代の流れに沿って自らの見通し立てながら進む羅針盤の役割を
果たした、という話はこれまで何度も記している。

 私のキャリアの転機は、まず最初にGSのアルバイトの身であったにも関わ
らず自動車編集者の誘いに乗りホイホイと現業に就いてしまったことに始ま
る。レースで多少なりとも腕に覚えがあるという一筋の炎だけで行動に移した
ところが私の私たるところだが、当然当初は苦労した。クルマの運動性能計測
のテスターに始まり、最高速トライアル、サーキットラップタイム、試乗記に
レースリポート……出来ることは何でもやったが、1980年代を予見する60偏
平タイヤのテストリポート企画が運を引き寄せたことはもう耳タコかもしれな
い。

●「何故ドリフトは面白いのか」FRにはまった原点

 ここでテスト車両にFR(フロントエンジン・リアドライブ)レイアウトの
クルマを前後輪の役割分担の把握しやすさから採用し、テストモードから考案
する中でリアドライブ車ならではのパワードリフトの魅力に気付かされた。私
の(ドリフトの魅力を究極とする)FR絶対主義はここに始まるが、このタイ
ヤテスト企画が関西のタイヤメーカーの目に留まり、商品企画の担当者が取り
持った縁で『身体論』の地平から”身の構造”の著書で人とモノとの関係をテ
ーマに掲げた哲学者市川浩明治大学教授(当時)と出会う。

 私は、「何故ドリフトを面白いと思うのか」という素朴な疑問を抱きながら
FRという古くて新しいレイアウトと人間の関係を我流で考えたりしていた。
当時は小型車中心の国産車が競い合うようにFF化を進め始めた時代背景。そ
の次ぎは4WDだといつの時代も変わらぬ”What's new?"を求める人々が身構
えている時に、保守的なFRに目を向ける私は変わり者の扱いを受けた。

 今でこそ現代日本人を特徴づける気質と知れ渡った”同調圧力”だが、当時
はまだ少数意見はことの良否ではなく大勢に従うべき……という”皆で揃って
豊かになろうとした時代。片隅でFRだドリフトだと気を吐く者は煙たがられ
た。私が自分の考えを述べたところ「あなたの業界では一人かもしれないが、
日本のいろんな分野に同じような人はいる。心配には及ばない」その後変節す
ることもなくずっと絶対主義を貫けたのは市川先生の一言が効いている。身体
という言葉を私が多用するのは、直接薫陶を受けた哲学者の影響によるという
のは本当だ。

 あれからすでに35年以上が過ぎているのだが、相前後して影響を受けた人物
に佐藤潔人(きよんど)昭和女子大学教授がいる。1984年12月に「自動車=快
楽の装置(人間との幸福な関係を目指して)」カッパサイエンス=光文社を著
している。ハーバード大学で博士号を取得し、滞米中にレーシングカーや日本
車のテストもこなしたエンスージャストの一面も持つ。

 同書で強く印象に残っているのは「ヒトとクルマの二重のシステム」という
考え方。クルマはハードウェアのシステムとして自己完結しているが、それだ
けでは走れ(動け)ない。人というもう一つの”システム”が組み込まれるよ
うに加わることで本来の機能が発揮できるのだと。

 この考え方にインスパイアされた私は、さらに道路インフラや交通法規など
の広い意味での環境からなるフィールドシステムを加えた「人・道・クルマ=
三重のシステム」としてクルマを捉える現在の立脚点に辿り着いている。

 ITとAIの合流で現実味を帯びてきた昨今の全自動運転車の登場によって
いささか古くなった印象もあるだろうが、クルマの本質は21世紀の今後もさほ
ど変わらないのでは? と見る私としては、持論を引き下げる予定はない。

●バブルの『負け組』と『勝ち組』

 私が20~30代を過ごした昭和末期には「明治は遠くなりにけり」というセリ
フを度々聞いた。調べると、中村草田男という俳人が昭和6年(1931年)に詠
んだ句であるという(降る雪や 明治は遠く なりにけり)。中村は明治34年
(1901年)の生まれ。30歳の青年がわずか20年前を詠んだという事実に驚く
が、振り返ってみれば令和2年(2020年)の現在は平成の30年を挟んで昭和と
なるわけで、”昭和は遠くなりにけり”明治の比ではない歴史であるようだ。

 私にとって昭和は”ついこの間”の話であり、日本が世界一の座に躍り出た
1980年代10年間の昭和末年はまだ鮮明な記憶として残る。それ故に、ポストバ
ブルのデフレ不況に明け暮れた「失われた……」という枕詞が付く平成の30年
の問題点も指摘できる。

 昭和というのは要するに「みんなで揃って(物質的な)豊かになること」を
目的とした戦後復興期の記憶であり、現代人にとっては敗戦から高度経済たか
成長のピークとなった1970年まで継続的に続けられた5カ年計画に象徴される
計画経済を前提にした社会システムを指す。新卒一括採用から年功序列賃金体
系に終身雇用……私が自動車ライターとして生きることを決めた1978年当時フ
リーランスという概念は一般化しておらず、会社勤めのサラリーマンであるこ
とが普通の社会人とみなされた。

 現在50代以下のほとんどの世代は、社会人としての昭和を知らない。私の二
人の娘は1980年代初頭の生まれであり、平成の改元時はまだ小学生。2000年以
降に成人したいわゆる”ロスジェネ”で、ポストバブルのデフレ不況下に多感
な時期を過ごした。ミレニアムに至る1990年代の私は40代の働き盛りであり、
幾多の幸運が重なって1995年から21世紀初頭の2005年までの10年間は新たに
始まったCSTVのレギュラー番組を中心とする仕事にも恵まれた。

  バブル崩壊が現実のものとなった1992年から日米貿易摩擦にともなう自動車
協議が妥結した1995年までの世相の落ち込みは1973年のオイルショックに始ま
る大不況に酷似した。バブル期に深手を負ったマツダは翌1996年からフォード
の出資(株式の33.4%)を仰いで傘下に入りフォードから4代に渡って外国人ト
ップを受け入れ、有利子負債を2兆数千億円積み上げた日産も1999年3月に仏ル
ノーからの資本注入(約6000億円:当初株式の36.5%、後に43.4%を取得)によ
り危機を脱し事実上子会社化。

  さらに2000年3月には三菱自工もダイムラークライスラー(当時)から34%の
出資を受け入れて傘下に下った(2005年11月に提携解消)。他にもスバルの富士
重工(当時)もそれまでの提携先だった日産に変わってゼネラルモータース(G
M)との提携に走ったし(GMの経営悪化にともない解消し2005年からトヨタ
と資本提携)、大手で無傷で残ったのは堅実経営のトヨタとクリエイティブムー
バーで一息継いだホンダだけという世紀末の"惨状"だった。

●身の丈に合わない豊かさは続かない……がバブル景気最大の教訓だった

  今昭和末年の1980年代の約10年間をリアリティを以て語れる者がどれだけあ
るだろうか。当時30代の現役世代がもれなくリタイアしている2020年現在、語
り部たるメディア界でも当時はまだ人材に限りがあり、国内シェア争いに鎬を
削り合うメーカー関係者(開発陣を含む)と丁々発止を演じた者も数少ない。

  時代感覚としてはまだ中央の行政官僚機構による威光が強く、1980年代初め
に"ジャパンアズナンバーワン"という日本の高度経済成長期を分析した社会学
者エズラ・ヴォーゲル氏の著作により『日本株式会社』とも揶揄された日本特
有の経済・社会システムが機能していた。

 繊維から自動車へと対象が変った日米貿易摩擦は、日本社会が基本構造を変
えることなく輸出総量を自主的に規制する対症療法でかわす"変れない体質"を
露呈。米国での日本車打ち壊しがショッキングな映像とともに報じられてもな
お変れず、痺れを切らしたアメリカが円高/ドル安を容認するG5のプラザ合
意を以て歴史的な転換点を迎えたのが1985年9月。円高により輸出貿易が停滞
するという不況予測に消沈する一方で、価値が倍増した上に有望な投資先の見
えない状況が不動産バブルを招来し奇妙な好況感のなかで株式の史上最高値を
更新。過熱する不動産バブルに対する庶民感情に配慮した政府金融「行政当局
が異常な投機熱を冷ます狙いで行なった「不動産融資総量規制」がバブル崩壊
というハードランディングを招き、平成の30年間を通じて「失われた20年とも
30年とも言われる」デフレ不況の種を蒔くことになった。

 ヴィンテージイヤーとして振り返られる1989年(昭和64年/平成元年)は、
日本の自動車産業がその技術力(開発/生産の両面)において国際基準に肩を
並べたという意味でも記憶されるべき年だった。ただし、1990年に史上最多の
777万台を記録した国内自動車販売と輸出台数(572万台※海外生産326万台)
からも分かるように国内市場の拡大が成長の原動力であり、排気量2リットル
以下全幅1700mm未満のいわゆる5ナンバー枠が世界生産の大半を占めていた。

 戦後の社会システムの基本となっていた一括採用/年功序列/終身雇用の仕
組みは、コストダウンを徹底させることで規格大量生産のメリットを追及する
ことに長けてはいたが、良く出来たモノは出来るだけ高く売るというバリュー
アップの価値観を根付かせることには不向きだった。国内生産/輸出貿易とい
う枠組みでは従来の日本型生産システムには限界があったが、バブル崩壊の5
年後に訪れた日米自動車協議妥結が”変れない日本”に幸いした。

 高度に洗練された規格大量生産システムをそのまま海外生産拠点に転用し、
仕向け地に見合う商品性に優れたクルマ用にアレンジすればいい。ミレニアム
前後の海外主要市場には日本人の知らない日本車が数多く見られるようになっ
ていた。巡り合わせの幸運もあって実力派の奥田碩社長から張富士夫~渡邉捷
昭氏と3代続いた内部昇格トップの積極経営によって1995年からの10年余りで
40万台/年という海外生産を推進したトヨタがその代表例だが、わずかな期間
でグローバル販売台数を倍増させ、『世界のトヨタ』と呼ばれるようになった
業容の変化に異論を差し挟む者はない。

 時代背景としては、ITバブルからその崩壊を経て不動産バブルからリーマ
ンショックに至る米国の好景気下にあり、日本の自動車産業すべてがその恩恵
に浴していた。日産のカルロス・ゴーンCOO(当時)によるV字回復も、ア
メリカ市場の好況を背景にそこでの収益性に焦点を当てた結果であり、日産リ
バイバルプラン(NRP)当時はほぼ拮抗していた日産とルノーの販売台数(日産
=273.5万台、ルノー240.4万台)が2016年の最盛期には2対1に近い(日産=556
万台、ルノー=318万台)に広がっていた。同年に三菱自工をアライアンスメ
ンバーに加えて世界の3強に躍り出る実績は、トヨタの躍進と同様に評価され
ることはあっても非難の対象になるものではないだろう。

●私はホンダのDNAでもある行政官僚機構と渡り合える企業風土に期待する

 ポストバブルの『勝ち組』に名を連ねていたホンダもリーマンショックが転
機となった。6代目の福井威夫社長の後を受けて伊藤孝紳氏が社長に就任した
のが2009年6月。私は同年暮れにdriver誌の特集企画で伊藤社長との独占イン
タビューをしているが、その時語られたビジョンはほとんど形を成している。
F1然り、NSXのハイブリッド化をともなう復活然り、日本市場での軽自動
車中心然り。”メードバイグローバルホンダ”を標榜し『世界6極体制』で相
互補完を目指した戦略にしても誤りということはなかった。

 何かと非難の対象となった「2016年に世界販売台数600万台」という数値目
標も、1990年代後半からの10年余りで40万台/年の海外生産拠点を構築し業容
を倍増させたトヨタに比べれば1.5倍の増販はホンダの海外展開を知れば納得
も行く。国内市場で見るホンダはトヨタに遠く及ばない存在だが、2輪の世界
ではトップシェアであり乗用車でも米中2大市場でトヨタと互角のブランドイ
メージを有している。

 経営は結果責任なので責めを負う必要はあるが、私の見るところでは根っこ
に大企業病に犯されたホンダの現実があり、また開発拠点として世界的なメー
カーとしては珍しい研究開発部門の別会社化=本田技術研究所における組織的
な脆弱性が問題としてあった。平たく言うと大企業病であり、ホンダという企
業ブランドの看板を背負いこむより看板にすがる従業員=エンジニアのサラリ
ーマン化が背景としてあった。先に述べたインタビューの際にも、技術研究所
の組織的な力量低下に危機感を募らせていて、当面ホンダ本体と研究所のトッ
プを兼務して改革に取り組むとしていた。

 かつてのホンダであるならば、リコールを始めとする品質問題を”無茶な販
売計画目標”を掲げた経営トップのせいにするなんて、技術者がするはずもな
い。恥ずかしい言い訳をする前に、プランに沿うよう尽力して結果を出そうと
いうスピリットを感じさせる個性がいた。リーマンショック時のトヨタの品質
問題/リコール騒動の原因もほぼ同じところにあり、無理を重ねた結果という
よりも別の要因を疑う必要があった、と思う。

 日産のゴーンスキャンダルの構造もよく似ている。私も在任10年を越えた辺
りからC.ゴーン氏の長期政権は組織的な問題が膨らむと思うようになってい
た。2018年11月19日の逮捕の第一報直後は、”遂に?”と長居による綻びが過
ったものだった。しかし、ゴーン氏は2017年4月にCEOの座を腹心の西川廣
人氏に譲り、就任直後に自らの意向でヘッドハントした元いすゞのデザイナー
中村史郎専務執行役員CCO(チーフクリエィティブオフィサー)と一緒に退
任している。

 事件発覚当時はすでに1年半以上が経過しており、それまでも代表取締役の
地位にあった西川CEOの経営手腕が問われて不思議はないタイミングだっ
た。事件直後からの記者クラブメディアによる日産・検察からのリーク情報に
よる印象操作や、最初の起訴事実の金商法の有価証券報告虚偽記載にしても当
初匂わせられた脱税や過少申告などではなく現に支払われていない将来受け取
る可能性も定かではない報酬を記載しなかったことが罪という、どう斜め読み
しても立件の難しい内容だったり。

 しかも、金商法については同じ案件を二つの時期に分割して別個に起訴して
拘留期限の引き延ばしを図り、保釈請求を裁判所が認めるやそれまで起訴する
予定のなかった会社法違反(特別背任)で再逮捕起訴に及んだ。捜査には一方
の当事者でもあるサウジやオマーンの人々への供述が欠かせないはずだがそれ
もなく、様々な禁を破って日産当事者に中東やフランスやブラジルで”捜査”
に及び不当な証拠集めに没頭した。刑事司法の国際的常識でもある『推定無罪
の原則』などどこ吹く風。検察(それも地検特捜部)が逮捕起訴に及んだとい
うだけで極悪人であるかのようなイメージをメディアと一体になって植え付け
ている。

 今でも日産のステークホルダーだけでなく多くの庶民もC.ゴーン氏を不良
外国人の如く言い募っているが、果たして皆さんは当の人物をご存知なのだろ
うか?

●日本から見た世界ではなく、世界の中にある日本の発想が持てるかどうか

 国際的な名声を得ていたカリスマ経営者を、騙し討ちのような手口で逮捕起
訴し、長い拘留の果てに保釈を得て、さて公判はいつから始まるのかと問えば
金商法の件はやっと日程が見えてきたが、二つに分けられた罪状ごとにスケジ
ュールが組まれ、会社法については何時公判が始まるか明かされない。検察に
よる時間稼ぎは明かで、下手をすれば現在66歳のゴーン氏が異国でもある日本
に留め置かれ被告の身分のままで後数年過ごすことになっていた。

 日本には日本の刑事司法制度があると言うのは良いが、外国人それも請われ
て日本にやって来て倒産寸前の企業を再建し再び世界的なアライアンス企業体
に育て上げた人物を悪し様に問答無用で罪人に陥れようとする。レイシズムや
ダイバーシティが問われるようになったグローバルエコノミーの中で、そんな
横紙破りが通ると考える方がどうかしている。

 ゴーン事件は、ひとり日産という企業に留まらない。日本の自動車産業全体
のブランド毀損につながったという意味で重く受け止める必要がある。日本か
ら見ればC.ゴーン氏は野球の助っ人外人といった軽い雇われ人かもしれない
が、経営のプロの才覚が求められるグローバル市場におけるステイタスは世界
的スポーツのサッカー界の最優秀選手に与えられるバロンドール保持者のC.
CロナウドやL.メッシ級。その価値は長きにわたって国際自動車ショーでの
仕事ぶりをフォローしてきた私が余人に代え難しと断言する。

 多くの日本人は日本の自動車メーカーが平成年間にグローバル企業へと変化
している認識を欠いている。メーカーに限らず部品を含めた自動車産業全体が
その収益の80%以上を海外に依存していて、日本市場は全体の中のごく一部に
なっている。日本語の壁に守られ、基本的に日本市場に限った範囲でしか情報
伝達できない現実もあるが、直接収益に関係のない国外の事情は”知ってるつ
もり”のレベルで用が足りている。

 売り上げや収益の大半を国外に依存しているということは、すでに従業員数
でも日本人より諸外国人のほうが多くなっていると考えるのが自然で、一部の
創業者を除けば内部昇格のサラリーマン社長にグローバルガバナンスを期待す
る方が無理というものだ。西川廣人氏の無能ぶりが国際市場に周知されたこと
のダメージは、現実に国際舞台に一度も登場しなかったことからも明かであり、
内田誠社長にグローバル展開している現在の日産をハンドリングしつつルノー
と三菱とのアライアンスを成長軌道に乗せる才覚を期待するのは酷というもの。

 同じことはトップメーカーのトヨタについても言えることで、エンジニアの
経験もなく経営のプロとしての実績もなく、ただの創業家に生まれ育ったとい
うだけで当然のように経営のトップに座った豊田章男氏は批評に晒されるのは
当然であり、腫れ物に触れるような扱いは誰のためにもならない。1995年から
リーマンショックまでの13年間にわたって40万台/年というハイピッチで海外
生産拠点作りに邁進した経営トップとそのプランに応えて企画開発生産販売と
いう各部門が必死でサポートした。

 リーマンショックと相前後して品質問題やリコール騒動に揺れたのは、毎年
のように米国現地に飛んで取材していた者としては不思議であり、納得の行か
ないことも多い。2008/2009年のカリフォルニア・グリーンカーオブザイヤー
などは、今にしてみれば”なるほど、そういうことだったのか!”である。

 08年のジェッタTDiはまだしも、翌09年のアウディA3TDiのVWグループ2
連覇はディーゼル不毛の地であり未だ普及の前段階にも至らないタイミングで
それはない。地元の同業者に尋ねてもクリーンディーゼルがブームになってい
るとは「聞いていない」。その6年後の9月18日にEPA(アメリカ環境保護局)が
明かにしたディフィートデバイスを用いたフォルクスワーゲン社の組織的な排
出ガス規制逃れの不正で謎は解けた。

●何のためにクルマはあるのか? そこから考え直す時かもしれない

  何よりも2009年は3代目プリウス(ZVW30)のデビュー年。VWのクリーン
ディーゼルが妥当トヨタハイブリッド(HV)を旗印に北米市場での捲土重来を
期したという触れ込みだったことからも明らかなように、不正をしてでも取り
たいと熱望した結果だった。

  すでに事件発覚から5年が経過し、世界的な訴訟案件となったはずの出来事
がなかったかのような雰囲気だが、翌年に打ち出されたEVシフトにしても
CASEにしてもドイツが国家ぐるみで推進するインダストリー4.0の一環とし
て呑み込まれ、ディーゼル不正などなかったかのような振舞いだが、M.ヴィン
ターコルンCEOにしてもU.ハッケンベルグ技術担当常務にしても辞任後の続報
は届いていない。

  米国市場に賭けていたマツダのSKYACTIV-Dがグローバル市場での商品性諸共
失い、今日の混迷につながった事実を追及しない自動車メディアのジャーナリ
ズム精神を欠いた不定件が問題視されないところに今日の混迷の一因がある。

 不透明感といえば2016年の米国大統領選挙が巷間の予想に反してD.トランプ
氏の勝利に終わり、第45代大統領に就任が決まったのを受けて、就任前の"指
先介入" でメキシコ工場の新設中止を求め始めた。お膝元のフォードは強烈な
ブラフに負けてプランを撤回。M.フィールズCEOは翌2017年にはフォードの日
本市場からの撤退を決断したのも束の間、自身も業績不振の責めを受けて退任
に追い込まれている。

  トヨタもメキシコ新工場の建設を決めていたが、トランプ氏の就任前の恫喝
に即応。デトロイトNAIASのカムリのワールドプレミアのスピーチで急遽向う5
年間で総額100億ドル(約1兆円規模)の米国内投資を行なうというリップサービ
スを展開した。さすが内部留保が6兆円を超えるとされるトヨタといったとこ
ろだが、よくよく考えてみればまだ就任前の次期大統領のツイッターに応える
ように世界発表のプレゼンの場で1私企業のトップが口にすることだろうか?
如何にトップダウンが可能なワンマン体制を構築しつつあるといっても、反応
が早すぎる。

 ここからは私の”邪推”だが、一説によれば世界最大の投資ファンドとして
知られるGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)の資金が原資であり、
トヨタが身銭を切ったのではないともいう。日産のゴーン事案といいトヨタの
リーマンショックからの5年間法人税未払いといい、政府の関与が取り沙汰さ
れる日本型経営の在りように対する疑念の数々がもやっと漂っている。

 クルマは人・道・車=三重のシステム。すでにファンタジーと化して久しい
走りのパフォーマンスを中心とするクルマのハードウェア評価は、現実に則し
ていないという点で情報としての価値が薄れつつある。政府が私企業に深く関
与する日本式経営は『日本株式会社』とも揶揄されるように、世界で最も成功
した社会主義によってもたらされたとも言う。

 出来ることなら、道路交通法や自動車関連諸税や高速道路の世界的に見ても
類例のない高額な通行料などクルマを取り巻く環境=フィールドのシステムか
ら見直して、ヒトとクルマというマン・マシンシステムが活き活きとした豊か
さを実感できる仕組みを構築したいもの。際限のない右肩上がりを論じること
て白ける愚はほどほどにして、スピードの意味に正面から向き合ったところで
現実に則したクルマの姿を追及したい。

 300km/hを知る者としては、その世界観に匹敵する価値や魅力を少なくとも
半分のスピードで得られる工夫を考えてみたい。リアルワールドを自らの運転
で走り回って掴み取れる身体感覚。過密な都市空間では味わえない管理社会か
ら距離を少し置いた移動の自由(Freedom of Mobility)は、クルマの最大価値。
新型コロナウィルスCOVID-19がその必要性を明かにしたソーシャルディスタン
スを保つツールとしてのクルマは、もっと注目されていい。

  何のために人は生きるのか。豊かで幸せな日々のためにクルマはある。そこ
から考えるエコロジーの発想が必要なのではないだろうか?        
                                   
-----------------------------------
ご感想・リクエスト
※メールアドレス fushikietsuro@gmail.com

■twitter http://twitter.com/fushikietsuro
■facebook http://facebook.com/etsuro.fushiki
■driving journal(official blog)
■instagram ID:efspeedster

2020年7月9日木曜日

6月16日配信のまぐまぐ!メルマガ『クルマの心』第386号を掲載します。通常有料配信ですが、広く存在を知って頂くために過去分を期間限定でアップします。スマホでは画面を横にしてご覧ください。driving-journal.blogspot.com

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

           伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』 
             第386号2020.6.16配信分


●「近頃気になる言葉なんですよ」

 テクスチャー(Texture)は、直訳で「素材感」や「材質感」を意味する。
色や明るさといった材料の視覚的な均質さや触覚的な力の強弱を感じる凹凸の
ような部分的変化を、全体的に捉えた特徴や材質感覚や効果を指す。言葉を重
ねると何やら難しい響きとなるが、平たく言って目や手で”触れた”際の触感
……目触り(そんな言葉は聞いたことがないが)、手触りといったことになる
のだろうか。質感という言葉が一般化してかなりの時間が経ったように思う。

 「近頃気になる言葉なんですよ」世界的な評判を得ているマツダデザインの
中山雅氏に、ある時尋ねてみた。中山さんが山本修弘主査からロードスター
(ND型)開発主査を引き継いで間もない頃だったと思う。

「ああっ、それってローレンス(ヴァン・デン・アッカー:前マツダグローバ
ルデザイン本部長。現ルノーコーポレートデザイン担当副社長)もよく言って
ましたね、テクスチャー。」

  現在のマツダデザインと言えば、前田育男常務執行役員がデザイン本部長就
任時(2009年)に捻出して一時代を築いた魂動デザインで知られるが、前任の
ヴァン・デン・アッカー氏は在任中(2006年5月~2009年5月)に”ながれ
(流)=NAGARE"デザインを提唱した人物だ。

 その進化形は現在のルノーデザインに見ることができる。インハウスデザイ
ナーとしてメーカーに帰属するのが一般的な日本の違って、イタリア・トリノ
のカロッツェリア(デザイン・システム社)でキャリアを始め、アウディ、フォ
ード、マツダ、ルノーと渡り歩いてキャリアアップした職人気質。"ながれ"
は在任期間が短く消化不良気味に終わったが、現在のルノーデザインの評価は
悪くない。

 日本では市場性の薄さからメディアの俎上に乗る機会は少ないが、デザイン
がブランドアイコン化しているという点で、メルセデスベンツのチーフデザイ
ナーゴードン・ワグナーやマツダの前田育男と同様のタレントと言えそうだ。

 テクスチャーという表現は、様々な世界で用いられている。たとえば化粧品
ではクリームの滑らかさや伸びの良さといった触感を表す言葉としてごく普通
に使われる。女性誌の世界では、金属・紙・木・液体・布・食べ物などといっ
た様々なモノの手触りや食感を表現する時にごく普通に用いられているようだ。

  このような感覚世界の話は、馬力性能や結果としてのスピード、エンジンや
サスペンションなどのメカニズムや数値/形式などカタログに諸元として記載
されるデータの数々……モノ同士の比較で楽しめる左脳志向の男の子文化たる
自動車メディア界ではもう一つ引きが弱い。

●近頃の”試乗インプレッション”が決定的にツマラナクなった理由

  だが現実問題として、現在の市販乗用車はたとえそれが軽自動車でもフルに
そのカタログスペックを引き出して走りを堪能することなど叶わない。多くの
人は、500馬力超で300km/h以上で走れるハイエンドスポーツカーを『高性能』
だと信じ、それを手にすれば己も満喫できると踏んでいるが、現実は絶望的と
言えるほど遠い。

  手に負えないほどの超高性能が、必ずしも優れた乗り物であることを意味し
ない。誰もが何となく気がついていることだが、ほとんどの人がその生涯で経
験する機会に恵まれないという事実が、"ファンタジー"を永遠のモノにしてい
る。身も蓋もない『お伽話』が今もなお成立しているのは、実際に手を触れる
可能性がないというバーチャル感覚の成せる技だろう。

  いっぽうで、身の回りのことが情報の主体となる女性誌では"テクスチャー"
はリアリストの女性にとって大きな関心事ということだろうか。

  翻って男の子文化が色濃く残る自動車専門誌では、実感をともなう感覚表現
(指先から入る情報や見た目から感じ取れる微妙なバランスの悪さなどといっ
た)よりも、もっとも強力な言語でもある数字に裏付けられた論理的説明をし
たほうが、情報の送り手と受けての双方がお互いに安心できる。

  振り返ってみれば、私が長く関わってきた自動車メディア界は、その存在が
社会性を得た昭和末期の10年間(昭和53~63年=1978~1989年)で花開いた
成功体験が忘れられず、ひたすら往時の姿を追い求めて30余年を浪費してき
た。高度経済成長のツケを払わされるように深く沈んだ1970年代。オイルショ
ックと厳しい排ガス規制を正面から受け止めることで克服し、その過程で手に
入れた技術力を背景に国際舞台での成功を引き寄せた。原油は高止まりしたが、
それ故に省エネと環境技術は国際競争力が問われた時代に価値を生む。

 永遠の成長が信じられ、1億総中流という皆が揃って(物質的)豊かさを実
感する。マークII三兄弟(クレスタ・チェイサー)が4万台/月と文字通り飛ぶ
ように売れ、沸騰する国内乗用車市場でのシェア争いは一国に9社(トヨタ・
日産・マツダ・三菱・ホンダ・いすゞ・スバル・ダイハツ・スズキ)がひしめ
き合う中で多様性の限りを尽くす活気に溢れた。

●100km/hを越えると『キンコンカン』と警告チャイムが鳴った

 実は、日本の総人口は1億人を突破した1970年からピークの1億2808.4万人
を数えた2008年まで右肩上がりの増加プロセスにあり(1980年は1億1706万
人)、21世紀目前の2000年でも65歳以上の高齢者比率は17%(2200万人)に留ま
っていた。1980年代の栄華は、円安(=ドル高)に業を煮やしたアメリカによ
るG5プラザ合意で終焉に向かうが、為替で価値が倍増した『円』を発展途上
段階のメンタリティで消化しきれなかったことが、遂に変ることが出来なかっ
た今日につながっているようだ。

 貿易輸出で利益を得るには日本の国内向け商品(5ナンバー枠が中心)の転
用では採算が取れず、ポストバブルの国内市場蒸発に伴う不況はバブルに踊っ
た負け組と慎重を期して波に乗れた勝ち組に明暗を分けた。

 すでに1980年代をリアルに振り返ることが出来る世代は現役を離れ、マツダ
のフォード支配やC.ゴーン氏登場に至る1990年代の出来事が歴史の範疇とな
った今となっては、当時を正確に振り返る機運は薄れている。20年後の現実を
ベースに、過去を振り返る旧態依然の既得権益層が幅を利かせ始めた。

 困ったことに、本来はジャーナリズムの立場から史実を現在に伝える役割の
既存メディアが、インターネットというディスラプティブ(Disruptive=破壊
的な)テクノロジーが登場した結果、自らの存亡を賭けて既得権益層に与する
抵抗勢力と化し、誰のために何のために情報発信するのかという本筋を忘れた
変化を阻む存在になりつつある。

 日本の自動車産業が発展途上段階にあった1980年代までは、西欧やアメリカ
といった自動車先進国の背中を見ながら”追いつき追い越せ”というキャッチ
アップ型の報道姿勢も許された。まだ見ぬ世界を知ろうという欲求は、豊かさ
を実感するには至っていない段階では社会全体が上を見ていた。情報の送り手
受け手ともに共有する感覚は同じ。馬力競争は無邪気に楽しめたし、ゼロヨン
加速や最高速データに一喜一憂し、(筑波)サーキットでのラップタイム競争
にも際限のない期待を寄せる気分が横溢していた。

 しかし、技術は激化する国内のシェア競争の中であっという間に蓄積され、
10年を待たずに国際基準に迫り凌駕しつつあった。日本には1962年以来道交法
によって法定最高速度が100km/hに規定され、1980年代前半には速度警告チャ
イムが標準装備となった時期もある。100km/hを越えると『キンコンカン』と
警告チャイムが鳴る。法治国家としては正しい装備だが、すでに法定速度が現
実の交通の流れに合わなくなっていて、非装備の輸入車との関係もあって間も
なく廃れた。速度計は実性能とは関係なく180km/h表示に制限され、スピード
リミッターもそこで打ち切りとなる設定となった。

  一方で、それまでの経済的成長を支えていた円安為替環境が、1980年代央に
最大貿易相手国アメリカの意志で切り上げられ、まだ拡大の余地を残していた
国内市場中心のクルマ作りは転機を迎える。円高で不利となった貿易輸出でも
収益が得られるクルマ作り=国際規格に見合う商品企画が問われるようになる。

●今ある世界の馬力競争を仕掛けたのは間違いなくバブル期の日本車だ

 昭和末期から平成初期に訪れた日本車の爛熟は、電子制御を軸としたハイテ
ク/ハイパフォーマンス技術の盛上がりと降って湧いたバブル景気が複雑に絡
み合った結果だった。輸出がほとんど考慮されないスカイライン(R32型)の
頂点に位置するGT-Rは、当時の日本車の現実を知る”考古学的”価値のあ
るクルマだ。

 投入は、拡大を続ける国内自動車市場を前提に『技術の日産』というブラン
ドイメージをより強固にする狙いがあったと思う。経営層が優秀であればエン
ジニアのテクノロマンを退けてでもコスト意識を持った開発の健全化を目指し
たはずだが、浮かれた社会の勢いに呑み込まれる。

 日本選手権のタイトルが掛けられたグループA規定のツーリングカーの車両
規則を精査し、磐石のパッケージで勝てるマシンを作る。後にWRCを闘う三
菱ランサーエボリューションもスバルインプレッサWRXも同様のコンセプト
で開発され、1990年代の世界ラリー選手権を席巻することになるが、時代の勢
いに乗っただけとも言える日産・三菱・スバルが世紀末にいずれも破綻の淵ま
で行った事実はけっして偶然ではないだろう。

 昭和末期から平成初期の市場の活況はバブルであり、そこでの判断が後の命
運を分けた。これは後知恵で言うのではなく、活性化する1980年代の国内市場
において切磋琢磨する自動車メーカー開発陣を取材し、自らも躍進を続ける日
本車の体力測定に雑誌メディアを通じて関わった実感から、”それは違うだろ
う”ということに気付いた。そのことが今日に至る意見のベースになっている。

 所管の通産省(当時)が自動車メーカー各社に対して行なった施策が、今も
なお変れない日本の行政を象徴的に表している。国内における激しいシェア争
いの結果ヒートアップした『パワー競争』は、1980年代央には200馬力の大台
を突破。1988年の日産シーマⅠが3ナンバー専用ボディと当時最強の255馬力
V6DOHCターボと500万円という値付けながら"社会現象"ともいえる大ヒット
となり、折からの金余り現象にともなう好景気のうねりが合わさって高価な高
性能/高級車が社会的に受け入れられるようになった。

 実を言えば、輸入高級外国車が日本社会で抵抗なく受け入れられるようにな
ったのはこの頃が最初である。私が自身の価値判断基準を求めてメルセデスベ
ンツ190E(W201)を購入した1986年当時はまだ奇異な目で見られがちで、
当時34歳の駆け出しフリーランサーだった境遇を思い起こすとけっこう寒い。

●日本の自動車市場を窮屈にしているのは誰か?

 昭和末期のイケイケムードの中、日本車の走りのパフォーマンスはグングン
国際基準に迫り、シーマ現象を経てピークに差し掛かる。そこに元号が昭和か
ら平成に変る1989年が位置して、ヴィンテージイヤーとして振り返られるのは
結果論に違いないがここに投入されたニューモデルは、たとえばCOTY(日本カ
ーオブザイヤー)1989-1990のノミネート10車の内スカイライン(GT-Rを含む)
と軽自動車の三菱ミニカ以外はすべて輸出を前提に商品企画が進められている
(トヨタセルシオ/MR2・日産インフィニティQ45/フェアレディZ/スカイライン
・ホンダアコードインスパイア-ビガー/インテグラ・マツダユーノスロードス
ター・スバルレガシィ)。

 ブランニューのセルシオ、インフィニティQ45、スバルレガシィはいずれも
後の各社の屋台骨を支える主力モデルと化し、国内よりも海外市場において高
く評価されるアイコン的存在に成長しているが、レスサスの旗艦として開発さ
れたセルシオ(LS400)も北米市場でZ(ズィー)カーとして親しまれるフェア
レディZもアメリカでG0サインが出なければ日の目を見なかったと言われるロ
ードスターも、法定最高速度100km/hという日本固有の価値観とは離れた(とい
うよりまったく別概念の)グローバル商品として企画されている。

  ドイツのアウトバーンという例外を除けば世界中の国で最高速度を法的に制
限しない国は存在しないが、知るかぎりでは日本の法定最高速度100km/hは先
進国最低であり、世界に冠たる先進自動車生産国とは思えない交通環境のまま
少なくとも半世紀を過ごしている。この間のテクノロジーの進歩やインフラ整
備や人々の習熟度を考えると、変れない行政官僚機構の弊害は明らかだろう。

  すでに人口が減少サイクルに入って12年となるが、都市化と大都市への人口
集中のトレンドは変わらず、過疎化が進んで交通がまばらな地方と大都市圏を
同じルールで縛る合理性が失われつつある。

  バブル期は遠い昔の話だが、国内外にある道路交通環境の格差はそのまま続
いている。テクノロジーの進歩と法整備の時代錯誤が顕在化して久しい。所管
の通産省は、産業振興の立場から自動車の高性能化には肯定的な立場を取る一
方で、警察公安が堅持する法定最高速度には逆らえない。縦割り行政の弊害極
まれりという感じだが、自ら責任を取ろうとしない役人根性は自主規制に走る。

  行政指導という許認可権を笠に着た悪知恵で自動車産業界に下駄を預けた。
当時の技術力はすでにリッター100馬力はNA/ターボに関わらず現実的にな
っていて、事実として輸出向けのフェアレディZやNSXや三菱GTOなどは
300馬力を公表するレベルにあった。その事実が欧州のプレミアムブランドを
慌てさせ、ポルシェやフェラーリといった老舗をアップデートに駆り立てた。
世界の馬力競争(闇雲に超高速を競い合うトレンド)に火をつけたのは間違い
なく日本のハイパフォーマンス軍団だと断言できる。

  内外格差の矛盾を誤魔化した280馬力自主規制に象徴されるように、国内法
規(道交法=法定最高速度100km/h)の現実を改めることなく国際商品として
のクルマが抱えるねじれを丸め込む。あれからもう31年だが、状況は1mmも
動いてはいない。時代の変化に合わせてアップデートするという、日本の行政
官僚機構がもっとも不得意とする『無謬性堅持にこだわる余り前例主義から逃
れられない無責任体質』が今につながっている。

  警察・公安など他省庁との縦割り行政の弊害でもあるのだが、国を代表する
基幹産業でありながらクルマの機能性能をフルに活かしたモビリティの構築に
は無関心。この変わらぬ役人体質が、グローバル化して世界に冠たる存在とな
っている日本車と日本国内におけるクルマとドライバーの関係にまったく別の
評価が下る『問題の本質』ではないだろうか。

●バブル期の真相を語れる者が少なくなっている

 バブル崩壊に伴う国内自動車市場は、1990年に777.7万台(内登録車597.5万
台)を記録したところでクラッシュ。200万台以上の需要が蒸発して以来30年
以上にわたってずっと500万台/年規模に留まっている。

 ポストバブルの90年代は、経営陣によって明暗が分かれた。保守的な経営が
奏功して深手を負わなかったトヨタと4代目川本信彦社長の経営手腕で主力セ
ダン系の整備とその派生モデルのクリエーティブムーバーによって息を吹き返
したホンダ。この『勝ち組』とは対照的に、過剰投資とその反動で倒産寸前に
瀕した日産や販売5チャンネル制で躓いたマツダや経営トップの不祥事で傾い
た三菱などの『負け組』が、グローバル化の到来とともに窮地に陥った。

 20世紀最後の10年はすでに歴史の範疇にあり、平成30年間の前半3分の1に
当たる世紀末の1990年代を正確に振り返られる人材も限られるようになった。
現在の50代はまだハタチそこそこの駆け出しであり、当時40代の私より上の世
代の多くは現役を退きつつある。

 現在の自動車メディア/ジャーナリストが激動の当時を正確に振り返ること
が出来ないのも無理からぬところがあるが、その頃から顕在化した出版不況と
サバイバルのための自動車メーカーに依存する業界体質が、今日のパブリシテ
ィ漬けとも言える状況の伏線となっている。

 バブル崩壊にともなう広告出稿の縮小に、Windows95という象徴的なOSの
登場とインターネットの普及が加わってメディアの新旧交代を予感させたが、
何よりも大きかったのが『日米自動車協議』妥結にともなうグローバル化の進
展だろう。為替環境はすでに輸出に厳しい円高/ドル安に振れており、貿易の
相互主義の観点から現地生産化の機運が急速に高まった。

 日本の自動車産業にとってそれはもっけの幸いだった。国内シェア争いで鍛
え上げられた規格大量生産システムの粋を、そのまま国外の生産拠点に展開す
ることで量的拡大が易々と進められた。いわゆるオフショアの勢いに乗って規
模の拡大が図られ、40万台/年というハイピッチで10数年の間に業容を2倍に
高めて世界一を視野に入れたトヨタだけでなく、北米でのライバルとなったホ
ンダもゴーン改革でV字回復を成し遂げた日産もアメリカの好景気に引き寄せ
られる形で日本車の時代を印象づけて行った。

 日本の国内自動車メディアはほとんど言及することがないが、バブル崩壊で
7対5まで行った国内対海外の販売比率は、元の500万台規模にシュリンクし
た国内市場とは対照的に最大で2400万台規模(2017年)に達し、海外現地生産
は国内の2倍以上となる2000万台近くまで伸びている。日本はグローバル市場
の一部といった位置づけとなり、メディア/ジャーナリストが声高に叫ぶ国内
市場回帰路線に同調できる企業はなくなった。諸悪の根源は、クルマを所有す
ることが罰ゲームとなるような旧態依然の行政による規制や重税の数々にある
のだが、そこに正面切って踏み込むジャーナリズムはなかった。

●島国日本の中だけで日本車を語ろうとする愚か者

 日本車が世界的な評価を得ていたことは論を待たない。実績ベースで言え
ば、一国で最大約2900万台(自国を含む:2017年実績)を売り捌いているよ
うに、8社存在する乗用車メーカーが国内よりも世界の市場で高く評価されて
いる。島国の日本だけで見ているとそのスケールの実感が湧かないが、国内市
場専用車よりも遥かに多いグローバルモデルが存在し、日本人の知らない日本
車すら少なくない。

 市場のユーザーだけでなく、メディアに属する者でも現地に赴かないことに
は全貌を把握することは難しい。数年前のことだが、日産広報部がC.ゴーン
CEOと数人ジャーナリストを引き合わせたことがあった。”ガス抜き”を狙
って懇談の場を設けようだが、名のある業界氏曰く「日産は何故車種が少ない
のか?」国内市場向けに魅力あるクルマがないと、業界を代表するように問う
た。するとゴーン氏「えっ?」と耳を疑う素振りに続けて「そんなはずはない
でしょう」と言った。

 たしかに、日本市場にかぎって言えば総販売台数は50数万台。内三菱との合
弁で生産される軽自動車が3割以上を数え、いわゆる登録車は40万台を大きく
下回るレベルだが、グローバル販売はゆうに500万台を超えていた。北米だと
マキシマやアルティマやセントラといったセダン系に売れ筋SUVのローグ
(エクストレイルの北米版)やピックアップのタイタンや大型SUVアルマー
ダ……etc。欧州や中国向け専用モデルなどを含めると、数多くの日本人が知
らない日産車が存在する。

  最大メーカーのトヨタも言うに及ばず、車種を絞ったマツダだってアメリカ
ンフルサイズSUVのCX-9や中国向けCX-4を知るのは一部のマニアく
らい。ホンダのアキュラモデルはほとんど知られていないし、スバルや三菱も
同断。ようするに、日本の中に留まって日本メーカーは日本中心で……などと
言ってみても始まらない。何しろ、日本の自動車産業は全生産の8割方を海外
市場に依存している典型的なグローバル企業の集まりとなっている。

 この現実に目を向けずに、昭和の気分で変わらぬ良き時代の日本車を語ろう
としているところに、世界に取り残されようとしている日本の現実がある。日
本の(自動車)メディアにとって対象となるのは日本のユーザー読者であり、
国内市場で販売されるクルマだけが興味の対象となる。すでに繰り返し述べて
いるように日本の自動車産業にとって国内市場はワンノブゼム(One of
them)。日本語の壁に守られたメディア/ジャーナリストにとって海外の現実
は守備範囲の外であって、影響力の外にある。

●日本のメディアが抱える問題点

 日本の自動車市場の特殊性、閉鎖性は、世界各国の市場との比較において始
めて明らかになるはずだが、先のゴーン氏に質問した有名評論家は知ってか知
らずか日本市場中心の発想という日本の常識で臨み、グローバル化して久しい
企業のトップの認識と真逆の意見を述べた。

 日本に赴任してすぐに彼我の違いに気づき、フェアレディZとGT-Rのブ
ランドアイコンとしての重要性に注目して復活させ、行政官僚機構による変化
できない日本市場環境を見取って軽自動車販売を断行し、企業風土の違いから
トヨタのハイブリッド追従に見切りをつけてEV(リーフ)開発のリーダーシ
ップを発揮した。

 初来日から数年でV字回復のみならず日本の国内市場の限界を読み取り経営
資源を国外に集中させた。多分日産の内部昇格サラリーマン社長には絶対に出
来ない改革を断行したことこそ、C.ゴーン元会長最大の功績であり、彼に触
発されてトヨタを始めとする日本の自動車産業界の意識が国際基準にアップデ
ートされた。新聞TVをはじめとする既存メディアは、島国日本に留まるかぎ
り日本語の壁に守られて競争に晒されない。常に国際舞台で競争を余儀なくさ
れている自動車産業のリアルを伝えきれない意識のギャップがここにある。

 日本のメディアが抱える問題点は、数多ある情報を整理して有用で必要な情
報を広く一般に伝えるという社会的機能の前に、ビジネスとしての情報産業の
立場から情報の寡占を志向し、自らに利する形で情報を取捨選択して報じよう
とするところにある、と思う。記者クラブ制度などはその象徴的存在で、情報
産業がネタ元の政官財業に密着しそれぞれの異なるスタンスから報道を発する
のではなく記者クラブというムラ社会の枠組みの中で大同小異の情報を垂れ流
す。評価の基準は”売れる情報であるかどうか”であり、視聴率や発行部数や
売り上げなどで価値判断が下される。

 さすがにここまで生きてくれば様子が見えてくる。すでに明らかになってい
るように、既存メディアは世界中から膨大な情報が降り注がれるインターネッ
トメディアの前に制約要件(新聞には紙幅/紙面の制約、TVなどの放送メデ
ィアには時間の制約など)が立ちふさがり、限界費用の面からもwebメディア
に対抗できない状況に方向性を失いつつある。

  1980年代の自動車産業の急成長にともない飛躍的に伸びた広告出稿を背景に
自動車専門誌メディアが一時代を築いた。バブルのピークには600万部/月とい
う隆盛を誇ったが、ポストバブルの出版不況にインターネットの隆盛が加わ
り、既存雑誌メディアはサバイバルを国内外の自動車メーカーを中心とするパ
プリシティに与する道を選んだ。

●ドイツメーカーは中国で儲けるために日本を利用している?

 ここで気になるのが、現在の自動車メディア界に浸透している摩訶不可思議
なドイツ車を始めとする欧州車信奉。まだ、輸入車が珍しかった昭和の頃なら
ともかく、すでに21世紀も二つのディケードを過ぎた2020年である。インター
ネットが隈なく普及している今、必要な情報は各国各社のウェブサイトを当た
れば手に入る時代になっている。

  ここでも歴史観は欠かせない。バブル期に入るまでの1980年代は輸入外国車
はまだ一般化していなかった。当時は輸入代理店が外国ブランドを扱う拠点で
あり、ヤナセは最大手としてメルセデスベンツ、VW、アウディ、GMの販売
を仕切っていた。BMWはバルコム、ポルシェは三和自動車扱いで、フラン
ス、イタリア車などは一部のエンスージャストのものといった位置づけ。

 バブル経済にともなう好況下、高価格な国産ハイエンドや輸入車が容認され
るようになったが、ドイツ車(当時はまだ西ドイツ)は今ほど注目される存在
ではなかった。ベルリンの壁が崩れ(1989年)東西統一なってもしばらくは今
ほどの勢いはない。私は1993年(メルセデスベンツCクラス)、1995年(同Eクラ
ス)、1998年(同Aクラス)と輸入販売元がヤナセからメルセデスベンツ日本とい
う子会社に移行した時代のプレスツアーに招かれている。

  ブリュッセルを舞台に行なわれたメルセデスベンツAクラスの現地試乗会ま
での欧州は、EU統合という世紀の実験の真っ只中。旧東ドイツとの統合の混
乱もあってドイツ経済は今ほどパワフルではなく、VWにしてもBMWにして
もいわゆる民族系は力を蓄える段階と感じられた。米GM傘下のオペルが例外
的に日本市場への意欲を燃やしていたことが思い出される。

 ミレニアム以降もメルセデスベンツCクラス(W203:2000年)、同Eクラ
ス(W211:2002年)、同CLS(W219)とメルセデスベンツやオペルの現地
試乗会をカバーしているが、明かにドイツ勢(ジャーマン3=MB/BMW/VWア
ウディ)が対日本戦略を旗幟鮮明にしたのは2005年からだと記憶する。

  すでにメルセデスベンツもBMWもVW/アウディもポルシェも販売子会社
を設立していて、それぞれ日本メーカーがポストバブルのリストラの余波に揺
れるのを尻目に攻勢を仕掛けてきた。印象に残るのは各社それぞれ日本メーカ
ーの広報スタッフをヘッドハンティングしてPR活動に力を入れたことだろう。

 ちょうど中国の経済成長が話題に上り始めたころであり、日本もアメリカの
好景気に引っ張られる形で好況感を強めていた。今から振り返るとEU統合と
いう世紀の実験が軌道に乗り、同市場での成果を弾みにドイツメーカーがVW
を筆頭に中国経済の上昇気流に乗ってジャンプするタイミングに符合する。

 私はアメリカや欧州の国際自動車ショー取材に加えて2007年の上海から中国
のモーターショーを起点にグローバル視点で自動車産業を見るようになった
が、何年か取材を続ける内に膝を叩いた思いを味わっている。それは「何故わ
ずか30万台規模、全需要の6%除軽市場としても10%に留まる日本市場に、
ドイツメーカーがこぞって進出し多大なコストを払って市場進出する理由は何
か?」ずっと思い抱いていた疑問だが、昇竜の勢いで急成長を遂げる中国の自
動車市場を見ていて確信した。

 中国におけるマーケティングで何よりも優るのが口コミ対策。すべてが官営
となる中国メディア(新聞TV雑誌)を庶民が信用する確率は低く、親類知人
からの評判(最近ではインターネット上のSNSも入る)が何よりもの情報源
とされている。そこでの日本の市場における評判は有力であることは、一時期
爆買いで話題になった日本製紙おむつなどの情報が浸透していることからも分
かる。

 ようするに、ユーザーの要求水準が高く同じ東洋人として感覚的にも近い日
本市場での評判が、巨大市場の中国でも意味を持つ。まったくの個人的な見解
だが、それ以外に何かと物入りな日本市場に投資し、メディアを優遇する理由
が見当たらない。10年以上にわたって中国ウォッチに励んだ私なりの確信に満
ちた見解である。

●21世紀のクルマのありかたを考えよう

 今年はCOVID-19パンデミック禍の影響で前年比で上回る見込みは薄いが、
恐らくニューノーマルという新たな価値観の時代が始まってもここしばらく
の間は中国が自動車需要を牽引し、その圧倒的な販売台数を背景にトレンドセ
ッターとして君臨することになるに違いない。その意味で、日本の自動車メデ
ィアを隈なく抑え込んだドイツ自動車産業界の目論見は奏功しているといって
いい。

  ただ気になるのは、依然として技術的覇権を握り続けているドイツ流の価値
観がもはや時代に合わなくなっている。速度無制限のアウトバーンを持つこと
で意味を持つ300km/h超の超高速走行性能を可能にする500馬力の動力性能と、
SDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)という2030
年に向けての課題は両立するか?

 ESG(Environment Social Governance)がこれからの企業投資を左右する
視点だとされている中で、超高速のファンタジーをブランド価値の最上位に持
ってくる姿勢が、一方で推進するインダストリィ4.0やCASEやEVシフトとの矛
盾とはならないか。日本のメディア/ジャーナリストはほぼ盲目的にドイツの
技術信奉を語るが、日本の中にある多様な価値観とは真逆の見方によってはガ
ラパゴス的と評価できるドイツの特殊な交通環境への肩入れはどうにも怪しい。

  冒頭にテクスチャーの話をしたが、実際に手で触れてその感触から判断する。
日本の変化に富んだ37万平方キロメートルの国土は、ランダムアクセスが可能
なクルマで訪れて知ることが出来るモビリティの魅力や可能性を追及する宝
庫。メーカーが提供するパブリシティをベースに、現実から遠く離れたフィク
ションを語るような試乗インプレッションをいくら積み重ねても、未来を生き
る人々の共感を生むことはない。

  カタログの諸元を書き連ね、従来比や他車比でクルマの優劣を語るというお
花畑の評価スタイルは、行政によって抑えつけられた走行環境の現実との対比
を考えると早急のアップデートが望まれるところに来ている、と思う。

  新型コロナウィルスCOVID-19による移動制限は、クルマ本来の魅力でもある
ランダムアクセスを遠ざけているが、すでに一般用語ともなったソーシャルデ
ィスタンスを保ちながらのモビリティというクルマ本来の特性に立ち返れば、
自動運転とは違う21世紀の自動車モビリティの可能性が見えてくる。

  自分の身体を通じて、行きたいところへ思った時に行く。そのツールとして
の魅力こそがクルマの最大価値ではなかっただろうか? 試乗のために与えら
れたところを走るのではなく、未だ見ぬ日本を見に行くことで語れるクルマの
話をしようではないか。

-----------------------------------
ご感想・リクエスト
※メールアドレス fushikietsuro@gmail.com

■twitter http://twitter.com/fushikietsuro
■facebook http://facebook.com/etsuro.fushiki
■driving journal(official blog)
■instagram ID:efspeedster

2020年6月19日金曜日

各回共通:スマホでは画面を横にしてお読みください。

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

           伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』 
             第385号2020.6.9配信分



●国連の推計は必ずしも正鵠を射るとは限らないが……

『SDGs』っていう言葉ご存知でしょうか?恥ずかしながらこの私つい先日
知りました。Sastainable Development Goals:持続可能な開発目標と邦訳され
ます。2010年の国連サミットにおいて全会一致で採択され、2030年を目標達成
の期限と定められている。

『持続可能な世界』の実現のために定められた世界共通の目標であるという。
今を生きる人々の要求を満たしつつ、なおかつ将来世代が必要とする資産を損
なうことのない社会を持続可能な世界としている。

 その実現のために17のゴールが掲げられている。列記すると(1)貧困をなく
そう(2)飢餓をゼロに(3)すべての人に健康と福祉を(4)質の高い教育をみんな
に(5)ジェンダー平等を実現しよう(6)安全な水とトイレを世界中に(7)エネル
ギーをみんなにそしてクリーンに(8)働きがいも経済成長も(9)産業と技術革新
の基盤を作ろう(10)人や国の不平等をなくそう(11)住み続けられるまちづくり
を(12)作る責任使う責任(13)気候変動に具体的な対策を(14)海の豊かさを守ろ
う(15)陸の豊かさも守ろう(16)平和と公正をすべての人に(17)パートナーシッ
プで目標を達成しよう。内容は貧困から環境、労働問題まで多岐にわたる。

  このSDGsには母体が存在する。2000年から2015年にかけて進められてい
たという「MDGs」。またぞろのアルファベットはMillennium Development
Goals=ミレニアム開発目標の略号だが、開発途上国を対象に8つの目標と21の
ターゲットが設定された。これも列記すると(1)極度の貧困と飢餓の撲滅(2)の
初等教育の完全普及の達成(3)ジェンダー平等推進と女性の地位向上(4)乳幼児
死亡率の削減(5)妊産婦の健康の改善(6)HIV/エイズ、マラリア、その他の
疾病の蔓延の防止(7)環境の持続可能性確保(8)開発のためのグローバル
なパートナーシップの推進である。

 これらは国連やNGOなどの公的機関を中心に推進されたが、そのほとんど
が掲げた目標に届かなかった。例えば目標(2)の「2015年までに(以下同)すべ
ての子供が男女の区別なく初等教育の全過程を終了できるようにする」は、11
%の上昇は見られたが達成には程遠かった。(4)の「5歳未満児の死亡率を3分
の2減少させる」は、53%の減少でやはり未達。(5)の「妊産婦死亡率を4分の3
減少させる」は、45%の減少で目標に届いていない。

 SDGsは、そうしたMDGsの反省の上に立っている。理念と方法論を継
承する枠組みとして策定されているが、その特徴は以下の3つ。

●図書館で予約していなかったらSDGsを知るのはもう少し遅れたかも

 SDGsでは17の目標の下に169のターゲットが併記された。さらに細分化
された小目標といったもので、目標(1)の「貧困をなくす」の第一ターゲット
は「2030年までに、現在1日/1.25ドル未満で生活する人と定義されている極度
の貧困をあらゆる場所で終わらせる」とある。数値は極めて具体的であり、課
題設定は目標を単なる理想論で終わらせない実践的方法を目指している。

 MGDsでは開発途上国だけを対象としていたのに対し、SDGsは先進国
を含むすべての国々が目指すものとされている。グローバル化した現在では国
家間における人・モノ・情報の流通は膨大になっていて、途上国内で問題が発
生しているように見えて、実は国の枠組みを超えた複合的な原因の組合せであ
ることが多く、一国での解決が困難となる状況にあった。

 途上国の抜本的な問題解決には、先進国を含む世界全体の枠組みで対策を練
る必要がある。MDGsの反省の上に立って全世界を対象にした包括的な枠組
みとしてSDGsは導入に至っている。

 さらにMDGsとの決定的な違いがある。先述の通りMDGsは国連やNG
Oなどの公的機関を中心に推進されたが、SDGsでは企業が策定・運用に深
く関わっている。本来営利組織である企業は”利潤の追及”が最大の存在理由
だが、持続可能性の追及は企業の長期的利益の確保という観点からも重要であ
るとして、産業界への協力を求める内容とされている。

 SDGsという言葉を私が知ったのは、以前から町田図書館で利用予約して
いた『2030年の世界地図帳』落合陽一著(SBクリエイティブ)が漸く順番が巡
り(半年ほど待っただろうか)貸し出し可能との連絡を受けて手にしてから。

 そもそもMDGsもそうだが、マスメディアがその存在を伝えたという記憶
がなくSDGsも同断だ。私の感度が鈍いのかもしれないが、字面だけではそ
れがサスティナブル・ディベロップメント・ゴールズと読むことは不可能で、
ましてやそれが持続可能な開発目標という全世界的なテーマであることなど想
像すらできない。

 巷には情報が溢れ返っており、情報リテラシーやメディアリテラシーといっ
た本質を読み解く力(=リテラシー)が問われているのは間違いありません
が、それでは皆さんはMDGsやSDGsという『言葉』を目にしたことがあ
るでしょうか?私は、少なくとも一月前まではその存在すら知らず、従ってそ
れが世界の潮流であることを考えることもありませんでした。

●人口動向が世の中を変える。今までとは決定的に異なる未来がやって来る

『持続可能な開発』にそのものついては資源環境問題がクローズアップされた
タイミング(それが高度経済成長期の1970年までのことだったか、オイルショ
ックから排ガス規制の1970年代だったか、カリフォルニアの大気清浄法=ZE
V法からCOP3=京都会議を経て地球環境問題が急浮上した1990年代後半の
ことだったか、私の記憶は定かではないが)で理解が及んでいたが、21世紀の
グローバル化した世界が共通の課題として取り上げている事実を日本のメディ
アが伝えていない。

 芸能人のゴシップや新型コロナウィルス(COVID-19)の日々のデータなど
取り止めのない情報に明け暮れ、それこそ”アフターコロナ”というこれまで
とは決定的に異なるだろう時代のありように深く関わる指針となる情報を伝え
ようとしない。内輪の論理を言い募り、結果として変化に対応して自らの生き
方を改めることを拒む”抵抗勢力”と化している。ガラパゴス化という言葉で
懸念されるアップデートを阻むメンタリティはどこからやって来るのだろう?

 このメルマガ『クルマの心』でも繰り返し述べているように日本のメディア
は事実を伝えていない。自動車専門誌をはじめとする自動車関連メディアも、
過去25年間(四半世紀)の間に様変わりしてしまった日本のクルマを取り巻く
環境や自動車産業の現実を直視することなく、相も変わらぬスタンスを取り続
けている。

 モータリゼーション元年として振り返られる1966年(昭和41年)からバブル
崩壊に至るヴィンテージイヤーの1989年(昭和64年/平成元年)までの”昭和
の残像”への郷愁に浸り、右肩上がりの成長という成功体験にすがりたい気持
ちは分からないでもないが、すでにあらゆる条件が当時と現在で異なっている。

 日本の人口は1966年当時9979万人。私が運転免許を取得した1970年に1億
人の大台を超え(1億0372万人)て、バブルのピーク1990年に1億2361人を数
え、2008年に1億2808.4万人でピークに達している。ちなみに2020年現在の人
口は1億2590万人(2020年5月1日現在概算値:総務省統計局)。すでに減少サイク
ルに入って12年が経過している。

  終戦当時の人口は7214.7万人。戦後の65年間で5591万人(77%増加)も増えて
市場が拡大したのに加えて、折からの基軸となるドル/円為替が360円/1ドルと
いう超円安に固定され、オイルショック(1973年)までの高度経済成長期の原油
価格が2ドル台/1バレルに据え置かれ、国民所得倍増計画(1960~1970年)が立
案実施されてもなお低い賃金(1960年の平均所得約12万円/年)に支えられて、
内需拡大と貿易収支の黒字が実現。奇跡といわれた日本の経済復興は、国民の
勤勉性や独自の技術力といった"神話"として語られるストーリーなどではな
く、世界の中での日本という幸運がもたらした結果と見るのが正しいようであ
る。

●物流の現実を知る人がいかに少ないか。理屈で考えられない世間の罪

  今からおよそ半世紀前の第一次石油危機(1973年)は、世界を一変させたとい
う意味で今回のCOVID-19パンデミック禍と同じインパクトを国際社会に与え
た。戦前の世界最大産油国アメリカの原油生産はすでにピークアウトしており、
主導権は中東のアラブ諸国に移る。戦後誕生したユダヤ国家のイスラエルとそ
の領土の主権を主張するアラブ世界との対立に端を発する第4次中東戦争が発
端。イスラエルを支持する国々への原油の輸出を禁じる強攻策がオイルショッ
クの本質で、親アラブ国家として友好関係にあった日本は禁輸の対象にはなっ
ていなかった。

  ところが、ここで政治とメディアのミスリードが演じられる。時の中曽根康
弘通産大臣がTVで(当時品薄が報じられていた)紙製品の節約に言及したと
ころ、それを見た大阪の(ごく一部の)主婦層がトイレットペーパーを買い求
めてスーパーに押しかけた。その話題に全国紙の大阪版記者が食いつき、紙面
に載せたところ反響があったという。そのネタをTVがフォローするとスーパ
ーの棚から失せた映像が流れ、それを観た主婦層がパニックを引き起し、瞬く
間に全国に広がって行った。

 当初はデマもなかったと記憶するが、オイルショックとトイレットペーパー
の伝説は当時の人々の心の奥深くに刻まれたはずだった。しかし、歴史は繰り
返される。3.11の東日本大震災(2011年)がそうだったし、直近の新型コロナ
ウィルス感染拡大時にも同様の買い占め(溜め)によるトイレットペーパー不
足が再来した。

 今世紀に入って急速に進歩した情報技術によって、世の中にはありとあらゆ
る情報が氾濫するようになった。しかし人の心理は大勢に流されやすいもの。
物流は一日の消費量を前提に生産量が割り出され、一定のサイクルで回るよう
に出来ている。店頭で人々が普段の2倍を購入すれば当然棚から商品は消え、
それを見た人が不安に駆られて買い急ぐ。パニックは簡単な理屈で始まるのだ
が、そんな理屈はどうでもいいの……という層が少なからず存在する。

 日本中が壊滅的な大災害に見舞われたとすれば話は別だろうが、地域的な障
害に見舞われても数日もすれば復旧モードに移行する。無益な買い溜めをして
パニックを増幅する愚を犯さないことが『リテラシー』の第一歩ではないだろ
うか。少なくとも、今現在世界はどうなっているのか。グローバル化がここま
で進展した以上は、日本固有の都合や事情はともかくとして、世界はどの方向
に向かっているかを知らせるのがメディアの重要な役割であるはずだ。

●この10年で社会は様変わりしたが、私の本質は何ら変わっていないようだ

 10年一昔といいます。しかし、その捉え方は世代ごとで異なりますね。現在
68歳の私からすればほんのつい最近ですが、現在20歳の若者はまだ10歳の小学
生。昨年誕生した私の孫などは影も形もありません。現在40歳の人でも社会に
出てようやく慣れてきたタイミング。50歳の人にしてみればもっとも脂の乗っ
た10年間を過ごしたはずです。

 2010年といえば、日産が大手自動車メーカーとしては初めて量産型の電気自
動車(EV)リーフ(ZEo型)を同年12月に日本とアメリカで発売。現在は
2017年9月にデビューした2代目(ZE1型)を世界展開させ、今年1がつ世
界累計45万台を達成している。

 この頃すでにアメリカのテスラ社は存在しており(2003年設立)、2008年に
はロータス・エリーゼをベースにした『ロードスター』が発売されたが、量産
規模は小さかった。2012年6月にはモデルSが発売され(日本導入は翌年)、
LAショー取材の同年11月にサンタモニカでのプレス発表試乗会に私も臨席し
た。生憎のウェットコンディションだったが、ハイエンドモデルの0→100km/
hを3秒未満で走りきる怒濤のEVダッシュに”口から心臓が飛び出る”思い
を経験。果たしてそれがエコかどうかはともかく、西欧人の本音(パワー&ス
ピード)と建前(エコ)の現実を改めて思った。

 現在E.マスクCEOが率いるテスラ社は、GAFAM(Google・Apple・
Facebook・Amazon・Miclosoft)に連なるテックカンパニーの一つと考えら
れているが、EV専業という点で新しく見えるが実態は規格大量生産型であ
り、最後発の量産自動車メーカーと見做すことも出来る。バッテリーEVが既
存のICE(内燃機関搭載車)に取って代わる可能性は、多様な地球環境を
考慮すると100%はなく、最大で30%あたりが限界だろう。FCV(燃料電
池車)、HV(様々なハイブリッド形態)を含む高効率ICEなどを合わせた
エネルギーミックスが地球規模のモビリティを語る上でより現実な解ではない
かと思う。

 それはそうとして、時代のターニングポイントとなった2015年にMDGsの
後を受けたSDGsは、同年のCOP21で合意が結ばれた『パリ協定』や金融
界を席巻しているESG(Enviroment・Social・Governance)投資=環境に配
慮しているか・社会に貢献しているか・収益を上げながら不祥事を防ぐ経営が
なされているかなどと歩調を合わせて進んでいる。

 地球温暖化については、今世紀央には人口減少サイクルに入るという予測が
現実味を帯びる中、異なる議論が生まれる余地を残している。しかし過去10年
を振り返り現在直面している変化の度合(exSNSの普及に伴う情報の双方向性
の進展など)を思うと、10年後には現時点では考えも及ばない状況が生じてい
る可能性は高い。

●地方は空き家だらけになる?これは移住のまたとないチャンスでは?

  10年後、私は78歳になっている。もちろん生きていれば……の話だが、すで
に非生産世代(65歳以上)にカテゴライズされて久しい私としては老いを実感し
つつも「まだまだ!」と粋がっているはずである。高齢者からモビリティの自
由を奪う運転免許返納という同調圧力との闘いが始まろうとしているわけだ
が、これについては一言ある。

  老いは万人に訪れる摂理だが、なってみて知ることや現実がある。高齢者ド
ライバーの問題はまず当事者によって議論が進められるのが筋だろう。往々に
して聞かれるのが、まだ肉体的にも精神的にもフレッシュな感覚が残る直近世
代からの実感を伴わない見た目の判断による正論。いずれその年齢に達した時
に"しまった!"となること請け合いだが、今55歳の現役世代が10年後には非生
産世代の高齢者として括られる。意識もフィジカルもそれほど落ちていないの
に、年齢の数字だけで分類される。そこには個々人の努力や多様性についての
考察はなく、一律に年寄りとして扱われる。

  20代30代の若年世代には、自分が老いることなど考える暇もないだろうが、
なってみた時の自意識と世間の見る目の違いに理不尽を覚えるに違いない。

  これからの10年は、間違いなくこれまでの10年とは様変わりする。昨年の合
計特殊出生率は1.36人。これは1人の女性が生涯で産む子供の数に相当する
が、前年を0.06ポイント下回り4年連続で低下した。2019年の出生数は86万
5234人(前年比5万3166人減)で1899年の統計開始以来最少だったという。

 生まれる子供が少なく、長生きの老人が年々齢を重ねて行く。少子高齢化の
インパクトは、私が運転免許を取得した1970年の65歳以上の高齢者は731万人
でしかなかったのに、昨年2019年のそれは3588万人で28.4%(総務省統計局)
に達している。同推計による2030年では、総人口は1億1912万人に減少すると
されており、内高齢者は約3715万人(31.1%)に増える。

 すでに日本社会は”今まで通り”では立ち行かなくなって12年が経過してい
るが、街の景観が大きく様変わりするのは間違いない。都市化が継続して進む
一方で、地方の過疎化は急伸し30%は空き家になると言われている。少子化に
より学校の統廃合は進み、地方の税収は下がり続ける。

 人口減少は、都市化とそれに伴う教育機会の充実による女性の意識改革に答
えが求められるという。農村中心の社会では子供は生活の糧をシェアして生み
出す価値ある存在と考えられたが、都市においては人数に応じて純粋にコスト
の掛かるマイナス材料となる。医療や科学技術の進歩によって不測の事態で子
供を失う恐れが少なくなったことも少子化の理由として考えられている。

●自動車の旅には長く歩ける体力が必須。ドライビングはスポーツなのだ

 昨年、私は幸運にも孫の誕生に恵まれた。私としては初めての血のつながっ
た男子であり、その無限の可能性を感じさせる存在感にあらためて生命の深淵
を見る思いがしている。私には二人の娘があり、授かったのは次女のほうだが
彼女も30代後半の初出産。縁あってのことなので言うべきことは何もないが、
大変だが子は設けた方が断然良い。

 初孫の男の子は現在満1歳。10年後は11歳であり、小学校の最高学年になっ
ている。この1年間の成長の足跡は存外に長い。「人生は加速する」とは私の
持論だが、長じてからの1年は瞬く間に過ぎる。いっぽう、赤子の成長はまっ
たく時間軸が異なると思えるほどゆっくりだ。産まれたばかりは片腕に収まる
小ささだった。今は体重が10kgを超えずっしり重くなったが、それでも一人歩
きを始めて2ヶ月あまりであり、ちっちゃくて言葉もまだ発しない。

 子供の成長は身体の発育をともなう具体的なものであり、フィジカルな成長
が止まるまでまだ20年近くの猶予がある。いっぽう老人の私はというと、順調
に衰退の一途を辿っている。10年前の自分と現在の己の違いを知る手立てとし
て旅は有効で、ことにクルマを自ら運転して行く自動車旅行はドライビングが
極めてフィジカルな能力が問われる行為だと改めて痛感する。

 50代までは活力に不安を覚えることはなかった。例えば、国内旅行では東京
~広島間約800kmは何と言うことはなく、マツダロードスターの20周年記念イ
ベント@三次PGも苦にならなかった。メルセデスベンツ190E(W201)にし
てもホンダS2000にしてもプリウス(NHW20)にしても、いずれも10万km以上
乗り継ぎ、日本中を四季折々走り回った。

  よく旅先で「クルマで東京から?大変でしたね……」判で押したように言わ
れることが多かったが、実はクルマの旅は面白い。たとえそれが退屈といわれ
る高速道路を延々行く道のりだったとしても春夏秋冬、昼夜、雨天曇天晴天そ
れぞれで別物という印象を得る。クルマの旅は体力的に大変だが、それ以上に
刻々と移ろう状況に対処することの刺激ほど心身を活性化するものもない。

 私の自動車旅行の原体験が1980年6月の欧州5000kmという話は何度も紹介
しているが、国際自動車ショー取材のなかでもジュネーブショーはフランクフ
ルトを起点にジュネーブまで往復約2000km(現地滞在中走行を含む)をルーテ
ィンとしていた。さすがに60歳の大台を超えてからは一気走りは難しくなった
が、デトロイトにしてもフランクフルトにしても、そして英国のカントリーロ
ードを堪能できたグッドウッド取材でも敢えて遠地に宿を取り現地で試乗車を
手配して体感することに励んだ。率直に言って最近は体力的に厳しくなってい
るが、それでもやめようとは思わない。休み休みで走破すればそれでいいのだ。

●海の上のフェリーが国道となる197号線

  ここで自動車旅行で会得したクルマを語る評価法を開陳しよう。高速道路を
駆って北は北海道から南は中国・四国・九州まで。バブル期の建設ラッシュは
本州との距離を一気に縮め、津軽海峡を除く海による隔たりを解消した。それ
とは別に、四国と九州をフェリーでつなぐ国道九四フェリー(四国佐田岬三崎
港~九州佐賀関間)はフェリー上が国道197号となる島国日本ならではのルー
ト。瀬戸内海の本四架橋3ルートの完成で失われた情緒がここにはある。

 危うく話が逸れそうになったが高速道路移動の理想はアベレージ120km/hの
巡航だ。もちろんこれは日本においては現実的ではない。道交法が定める国内
法定最高速度は100km/h。といっても、日本全国どこでも100km/hが許されて
いるわけではなく、東名や名神などの主要幹線道でも100km/h以下の制限区間
は思いの外多い。平日昼間の東北道や山陽中国道などの地方では前後数kmに
渡って車影が認められない区間も珍しくないが、こんな条件下でも80km/h制限
や場合によっては70km/hという"難所"も点在する。

  真冬の東北道(宮城以北)ではほとんど交通量がないが、聞けば「何も恐い思
いをしてまでお金を払うことはない」悪天候時には速度制限が敷かれ、暴風雪
によるホワイトアウトの恐怖も頻繁に発生する。沿線を走る国道4号線に目を
やると結構な交通量である。需要がないわけではなく、現実に目を向けるとそ
うなってしまう。冬以外の平日の閑散ぶりは、全国統一で低い制限速度で縛り
続ける無意味さを際立たせる。道路インフラもクルマの技術も昔日とは比べ物
にならないほどレベルアップしているのに、実情に合わせてアップデートしよ
うとしない。

 東京をはじめとする大都市圏の交通集中による過密と対照的な地方の過疎。
速度レンジを変えて地方の活性化を図る策を講じるのは、リモートワークの実
態が知れるに連れてゆとりある地方での暮らしが注目されつつある今着手して
良いタイミングだと思うのだが、行政は頑なに拒み続けている。

 ドイツがアウトバーンに象徴される交通システムをブランディングに活かし
て世界の技術的な覇権を握っている事実。そこには連邦共和制を採用し、首都
ベルリン以外は100万人以下の都市が点在するネットワーク型の国土構築があ
り、比較的平坦な国土というインフラ作りのコストが低く設定できるという構
造があるにしても、日本には地域ごとの環境や気候や風土の多様性に対応する
ことで制約の多い国々の事情に合わせたクルマの開発が可能なはず。

 国を代表する基幹産業でありながら、自国民がその優秀性を体感できない環
境に留める愚策はほどほどにしなければ、と思う。

●九州までの1400kmを11時間半ちょっとで走破できたら……旅が変る!

 アベレージ120km/hで日本国中の高速道路網を走ることが出来たら、単純計
算で走行距離の半分がそのまま所要時間となる。例えば東京~大阪間約500km/
hは250分=4時間10分。これはドアtoドアを考えると中々魅力的だ。新幹線は
乗車時間は2時間半前後だが、自宅と新幹線駅~目的地駅から最終訪問先まで
のアクセスを含めると前後に2時間ほど掛かるのが相場だろう。航空機にして
も羽田~伊丹間のフライトは約60分だが、遅くとも15分前に搭乗口にいる必要
があるし、空港から都心までの移動を含むとやはり4時間を超えていく。

 1980年代に頻繁に東京~大阪を行き来した時に確信したことだが、交通法規
がクルマの技術開発に合わせてアップデートされ、人々が速度差に伴うルール
/マナーの重要性に気がつけば、路上の秩序は別物になったに違いない。アメ
リカや欧州が出来て器用な日本人が出来ない相談ではないだろう。

  最近では、中国が世界標準に準じた120km/hの最高速度を施行していること
を見ると、海外展開している日本車はともかく、日本の交通秩序は途上国レベ
ルに落ちる可能性が否定できない。ここに官製の全自動運転化が現行法を変え
ることなく施行されたら、安全との引き換えに失うものの大きさに愕然とする
に違いない。

  繰り返しになるが、10年後の私は78歳。すでに後期高齢者とカテゴライズさ
れる年代になっていて、免許返納の同調圧力に直面することになるだろう。孫
はまだ11歳であり、私がステアリングを握ることはあっても彼が資格を得るに
はしばらく掛かる。仮に全自動運転が実用化したとしても、日本には2輪を含
む従来型車両が8000万台のオーダーで残っているはずで、混合交通の線引きを
成すのはまさに人口動向における労働人口(15~64歳)と非労働人口と括られる
65歳以上の高齢者という対立項に議論が傾きかねない。

  私は、お叱りを承知で敢えて持論を言わせてもらえば、クルマの動力性能は
ほどほどが良い。具体的には発進加速性能テストの経験値としてあるレベル。
例えば、懐かしのゼロヨン(0→400m発進加速テスト)で言えば17秒を切る辺
り。それには大体10kg/psという非出力(パワーウェイトレシオ)に収まれば十
分で、0→100km/h発進加速で言えば10秒を下回れば必要十分なスピードと
認定できる。

  オイルショックと排ガス規制克服で明けた1980年代は、まずゼロヨン16秒を
切るところから競争が始まった。最終的には1989年のスカイラインGT-R(R32)
がアテーサE-TSという電子制御4WDと280馬力超の2.6リットル直6ツインター
ボで12秒台まで削り取り、世界の馬力競争に火をつけた。海外市場をまったく
考慮しないドメスティックブランドに経営資源を注ぎ込み、コストを回収する
ことなく経営危機まで追い込んだ。

  この事実を冷静に受け止め、グローバルに展開した1990年代後半から現在に
至る国内事情と国際情勢の変化をメディアがきちんと整理して日本の自動車産
業や行政官僚機構に正当な批評を加えて議論出来ていたら、昭和の劣化コピー
に終わった平成の30年はなく、都市化にともなう少子高齢化に対する処方箋を
考える余地が生まれ、予想される衰退局面は避けられたような気がする。

●「ヒール&トゥ? それって何!?」M.フェルスタッペン

  このSDGsや『パリ協定』が全会一致で採択された2015年は、9月18日に
EPA(アメリカ環境保護局)がフォルクスワーゲン(VW)のディーゼル排
ガス不正を告発。その発覚を受けて時代が大きく動いたと記憶されている。

 破壊的技術(Disluptive Technology)という言葉が一般用語として浮上し、
既存の自動車メーカーの中には従来型のオートカンパニー(自動車製造業)から
(Auto&)モビリティカンパニーを志向すると宣言する企業も出現。ドイツのメ
ガサプライヤーボッシュの技術に頼るジャーマンブランド各社は、ディーゼル
スキャンダルを振り払うかのように『CASE』(ダイムラーAGディーター・
ツエッチェ前CEO)や『EVシフト』(VWヘルベルト・ディースCEO)
といった、すでにドイツが舵を切っていた『インダストリー4.0』に被さる施
策を表明。私にはディーゼルスキャンダルを打ち消す『スピンコントロール』
としか思えないが、中国頼みの一本足に特化して不安定なドイツ経済はエコと
エゴの間で揺れ動く微妙な時期を過ごしている。

 ここで降って湧いたような中国発の新型コロナウィルス(COVID-19)による
パンデミックが発生し、世界は目に見えないウィルス感染症との闘いによって
今まで通りとは違う生き方を考える必要に迫られている。すでに感染発覚から
7ヶ月余り。『2030年の地図帳』にも予期せぬ事態に今しばらくは様子見を決
め込む他はなさそうだ。

 すでに一般用語として定着した『ソーシャルディスタンス』という視点で考
えると、パーソナルモビリティを実現する手段としてのクルマの価値は再認識
されて良いものがある。地方の公共交通機関は都市化にともなう過疎化の流れ
に抗うことができず、当該地域の高齢化と合わせて問題が複雑化する傾向にあ
るが、テレワークによる労働生産性の低下が見られないと分かったような業種
は過密な都市にこだわる必要はない。

 国家の施策が都市化を促し、地方の活力を奪うことに力を貸しているような
ところもある。世界最大の東京首都圏に執着するかぎりは地方の活性化は画に
描いた餅になるほかなく、豊かな環境が残る地方に目を向ける若い世代がクル
マの魅力の再発見とともにモビリティの理想追及に走ったら、これだけ技術の
蓄積を手に入れた日本の自動車産業である。答えは無数にあるだろうし、自動
車メディア/ジャーナリストが腕を奮う余地は十分存在する。

 SDGsが想定する2030年では我が孫はまだ小学生。次の10年の後半になっ
てやっと”現役”として活躍できる世代だが、2040年は私が現役でいることが
危ぶまれる米寿の頃合いである。ここで現役の孫と丁々発止のやり取りができ
る身体を維持できるか。身体能力の低下は致し方ないが、可能なかぎり現状維
持が図れたら望外の幸せというべきだろう。

 無益な老害に傾くことなく、ひたすらクルマの魅力を実感することを心掛け
て次の世代に申し送ることができたなら、破天荒を極めた過去40年余りも無駄
ではなかったと振り返られるのではないか。

 M.フェルスタッペンは「ヒール&トゥ?それ何!?」今や古典的と評され
ることになったドライビングテクニックの基本を知らなかったという。無理も
合い。カートに始まって以来、ずっと2ペダル。左足ブレーキが基本であり、
トップフォーミュラに至る各カテゴリーもすでにそうなっていた。F1で最年
少記録を更新している逸材だが、時代の変化にともなう技術革新に順応する才
能はピカ一でもオールドスタイルのテクニックに遊ぶ余裕はない、ということ
だろう。

 今でも郷愁を誘う昔ながらのクルマを愛する者は多いが、この先の10年はど
のような変化が訪れるのだろうか。楽しみでもあり、これまでを残して置きた
くもある。                              
                                   
-----------------------------------
ご感想・リクエスト
※メールアドレス fushikietsuro@gmail.com

■twitter http://twitter.com/fushikietsuro
■facebook http://facebook.com/etsuro.fushiki
■driving journal(official blog)
■instagram ID:efspeedster