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2020年7月21日火曜日

私の有料配信メルマガの再録です。ご一読下さい。

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           伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』 
             第387号2020.6.23配信分



●『お前の知らない世界に入ったのさ」星野薫氏談@鈴鹿サウンドofエンジン

 クルマは単にクルマだけでは評価することはできない。当たり前の事実に気
がついたのはフリーランスの自動車ライター稼業を始めて丸7年が過ぎた頃。
石の上にも三年というが、まったくの白紙の状態から始めてようやっと形にな
り始めていた。

 オイルショック(1973年10月勃発)を契機に急降下した10年前の1975年秋に
実戦デビューしたフレッシュマンレーサーの私には想像すら出来ない境遇に身
を置いた不思議。今となってはさらに35年の月日が過ぎ去り、自動車メディア
界にどっぷり浸かって42年。運転免許証取得は1970年7月5日であり、そろそろ
運転歴満50年の節目を迎える。

 すべては行き当たりばったりの成り行きで、運だけでここまで来たというの
が偽らざる実感だ。率直に言って、20歳の自分が私のキャリアを聞いてもまず
信じない。なりたい自分を思い描くことなど一度もなく、なんとかかんとか山
を越え谷を渡ってきたら68歳になっていて、まるで自覚ないままに高齢者と括
られる境遇になっていた。

 スターレーサーに憧れて一念発起でその気になる。情報が月刊ペースで更新
される発展途上段階だったからこそ夢見る馬鹿者が許されて、根拠のない自信
がダイナモとなった。振り返れば幸運の連続という他はないが、無手勝流には
絶えず痛い思いが付いて回った。

 好事魔多しというが、乗って書くの方向性が固まりつつあったタイミングで
盛大に躓いた。

 時は暮れも押し迫った1985年12月11日の午後1時になる少し前。私は富士ス
ピードウェイにいた。この年の始めから連載企画としてスタートした当時の国
内自動車レースのトップカテゴリーWEC(World Endurance Championship:
世界耐久選手権)を争うグループCマシンのステアリングを握っていた。

 条件は悪かった。前夜の執筆が押して、半徹夜でなお脱稿せず富士スピード
ウェイの待ち合わせ時間に遅刻した。使用料金の安い昼休みの1時間を専有し
て試乗と撮影を行なう。メニューは当時八王子に存在したオートヴューレック
レーシングチームのグループAマシンBMW635CSiとメインがグループCのトヨ
タトムス85C。快晴だったが真冬の路面温度は低かった。

●ドライ路面のスリックタイヤが氷上トライアルかと思わせた!

  まずは肩慣らし。driver誌の編集担当Tさんの「どおすんのよぉ~」盛大に
押した時間を嘆く声に身の縮む思いでBMWのシートに身を沈めた。すでに眠気
はすっ飛んでおりドライビングに集中。両脇から抱え込むようにして回すステ
アリングの重さに驚嘆。これであの名機ZC型16バルブDOHC搭載で初代全日本
ツーリングカー選手権(グループA)を制したシビックSi(AT型)やカローラレビン
(AE86型)と渡り合う困難に思いを巡らせた。

  無難な走りを見てチームオーナーからOKが出て85Cのガルウィングドアを
開けてコクピット。驚いたことに床はアルミモノコック剥き出しで、シートバ
ックとサイドサポート部にウレタン成形が配されていた。ステアリングホイー
ルのセンターが左に10度ほど傾いていたことを覚えている。

 走り始めて戸惑った。まったくグリップ感が得られず、氷の上を走るよう。
当時すでにグランドエフェクトカー(ボディ下部がウィング形状。ベンチュリ
ー効果でダウンフォースを得る)であり、グリップを得るにはスピードを出す
必要がある。

  すでに年初の日産コカコーラターボC(ルマンLM03C)でアクセルを踏めば激
烈なターボパワーが牙を剥き、踏まないとまるで安定しないというジレンマを
経験していたが、85Cはその比じゃない。そういえば夏場の鈴鹿で初めて同型
車のステアリングを握ることになった中嶋悟選手の姿が蘇った。コースインか
らの数周は、まるでマシンと会話をするようにゆっくりと流し、なかなか鞭を
入れることをしなかった。

  ライバルの日産勢も、日産LZ20B2.1リットル直4ターボ(540ps)マシン初テス
トの際に、長谷見昌弘・星野一義・柳田春人といった猛者をして「ちょっと気
持ちを整理させてくれ!」1周でピットインして弱音を吐かさせた"どっかんタ
ーボ"ぶり。同時代のトヨタの4T-GT改2.1リットルターボ(470ps)は、トータル
バランスで凌駕することを狙ったと聞いていたが、百聞は一見にしかずのじゃ
じゃ馬ぶりだった。

  私の葛藤は5~6周にわたって続いた。そして、決断を促したのは時間だっ
た。専有走行時間残り数分というところで、意を決して長い直線を全開。第一
コーナーアプローチに勢いよく進入する。と、リアが左にスライド。自然にカ
ウンターステアを当てコントロール内に収まったと思った次の瞬間、挙動が乱
れた。左リアタイヤがスキール音を発するのを聞いたところでノーズがインフ
ィールドを向き、狭いグリーンを横切ってガードレールに直行。弾みで軽く宙
を舞い、衝撃を臀部に感じた後グリーン上に着地した。

  流血の感触があったので、ガルウィングドアを開け車外に出てすぐに臀部に
手を這わしたが濡れていなかった。結果は仙骨骨折。内出血によりお尻は2倍
に腫れ上がった。患部の性格上手術は施されず、入院は2ヶ月に及んだ。

●何度も痛い目に遇って学んだ私流

 当時は(というか今でも変わらないと思うが)レーシングカーのサーキット
試乗取材で保険を掛けることはなかった。結局全損となった85Cは出版社が弁
償することになり、私の入院費用と休業保証も相談の上支払われた。自動車専
門誌のほとんどがそうで、基本的には無事故が前提。何もなくて良かったね、
というオウンリスクで回っていた。

 結果的に、不測の事態があり得るレーシングマシンの試乗取材はプロのレー
シングドライバー(基本的に書けない)の領域となり、私のような”走れるジ
ャーナリスト”にリスクを負わせて取材する編集者はなくなった。この年の私
はLM03日産(コカコーラターボC)に始まり、マツダ727C(ワークス)、ポルシェ
956(FROM-A)、ローラT616RE(オーナーのBFグッドリッチ社の招待でアメリ
カ・カリフォルニア州リバーサイドレースウェイに出張)の取材をこなしてお
り、この85Cをクリアすればほぼ制覇というところだった。自ら取材ジャンル
を開拓して、身を以て幕を閉じた。

 またぞろの回顧話になってしまったが、この事故による長期入院期間がそれ
までの仕事ぶりを変えるきっかけとなった。乗って走る自動車ライターの看板
を掲げていた以上ドライビングには人一倍関心があったし、クルマの評価スタ
イルにも一家言あった。しかしキャリアはまだまだ浅く、若さに任せた勢いと
ラップタイムや加速性能データといった数字にモノを言わせる面が強かった。

 クルマを走らせること、ドライビングには自信があった反面、国内外を走る
経験を通じて、クルマは単にクルマ(のハードウェア)だけでは評価できない
と痛感するようになっていた。長期の病床に伏せる時間は、”走り屋”として
のプライドの消失と向き合いながら「いかにしてサバイバルするか」を考える
またとない機会となった。

 その時の直感で手にした『知価革命』堺屋太一著が描き出した20世紀の残り
から21世紀に至る時代のパースペクティブ(透視図)に可能性を感じ、激変の
様相を呈した時代の流れに沿って自らの見通し立てながら進む羅針盤の役割を
果たした、という話はこれまで何度も記している。

 私のキャリアの転機は、まず最初にGSのアルバイトの身であったにも関わ
らず自動車編集者の誘いに乗りホイホイと現業に就いてしまったことに始ま
る。レースで多少なりとも腕に覚えがあるという一筋の炎だけで行動に移した
ところが私の私たるところだが、当然当初は苦労した。クルマの運動性能計測
のテスターに始まり、最高速トライアル、サーキットラップタイム、試乗記に
レースリポート……出来ることは何でもやったが、1980年代を予見する60偏
平タイヤのテストリポート企画が運を引き寄せたことはもう耳タコかもしれな
い。

●「何故ドリフトは面白いのか」FRにはまった原点

 ここでテスト車両にFR(フロントエンジン・リアドライブ)レイアウトの
クルマを前後輪の役割分担の把握しやすさから採用し、テストモードから考案
する中でリアドライブ車ならではのパワードリフトの魅力に気付かされた。私
の(ドリフトの魅力を究極とする)FR絶対主義はここに始まるが、このタイ
ヤテスト企画が関西のタイヤメーカーの目に留まり、商品企画の担当者が取り
持った縁で『身体論』の地平から”身の構造”の著書で人とモノとの関係をテ
ーマに掲げた哲学者市川浩明治大学教授(当時)と出会う。

 私は、「何故ドリフトを面白いと思うのか」という素朴な疑問を抱きながら
FRという古くて新しいレイアウトと人間の関係を我流で考えたりしていた。
当時は小型車中心の国産車が競い合うようにFF化を進め始めた時代背景。そ
の次ぎは4WDだといつの時代も変わらぬ”What's new?"を求める人々が身構
えている時に、保守的なFRに目を向ける私は変わり者の扱いを受けた。

 今でこそ現代日本人を特徴づける気質と知れ渡った”同調圧力”だが、当時
はまだ少数意見はことの良否ではなく大勢に従うべき……という”皆で揃って
豊かになろうとした時代。片隅でFRだドリフトだと気を吐く者は煙たがられ
た。私が自分の考えを述べたところ「あなたの業界では一人かもしれないが、
日本のいろんな分野に同じような人はいる。心配には及ばない」その後変節す
ることもなくずっと絶対主義を貫けたのは市川先生の一言が効いている。身体
という言葉を私が多用するのは、直接薫陶を受けた哲学者の影響によるという
のは本当だ。

 あれからすでに35年以上が過ぎているのだが、相前後して影響を受けた人物
に佐藤潔人(きよんど)昭和女子大学教授がいる。1984年12月に「自動車=快
楽の装置(人間との幸福な関係を目指して)」カッパサイエンス=光文社を著
している。ハーバード大学で博士号を取得し、滞米中にレーシングカーや日本
車のテストもこなしたエンスージャストの一面も持つ。

 同書で強く印象に残っているのは「ヒトとクルマの二重のシステム」という
考え方。クルマはハードウェアのシステムとして自己完結しているが、それだ
けでは走れ(動け)ない。人というもう一つの”システム”が組み込まれるよ
うに加わることで本来の機能が発揮できるのだと。

 この考え方にインスパイアされた私は、さらに道路インフラや交通法規など
の広い意味での環境からなるフィールドシステムを加えた「人・道・クルマ=
三重のシステム」としてクルマを捉える現在の立脚点に辿り着いている。

 ITとAIの合流で現実味を帯びてきた昨今の全自動運転車の登場によって
いささか古くなった印象もあるだろうが、クルマの本質は21世紀の今後もさほ
ど変わらないのでは? と見る私としては、持論を引き下げる予定はない。

●バブルの『負け組』と『勝ち組』

 私が20~30代を過ごした昭和末期には「明治は遠くなりにけり」というセリ
フを度々聞いた。調べると、中村草田男という俳人が昭和6年(1931年)に詠
んだ句であるという(降る雪や 明治は遠く なりにけり)。中村は明治34年
(1901年)の生まれ。30歳の青年がわずか20年前を詠んだという事実に驚く
が、振り返ってみれば令和2年(2020年)の現在は平成の30年を挟んで昭和と
なるわけで、”昭和は遠くなりにけり”明治の比ではない歴史であるようだ。

 私にとって昭和は”ついこの間”の話であり、日本が世界一の座に躍り出た
1980年代10年間の昭和末年はまだ鮮明な記憶として残る。それ故に、ポストバ
ブルのデフレ不況に明け暮れた「失われた……」という枕詞が付く平成の30年
の問題点も指摘できる。

 昭和というのは要するに「みんなで揃って(物質的な)豊かになること」を
目的とした戦後復興期の記憶であり、現代人にとっては敗戦から高度経済たか
成長のピークとなった1970年まで継続的に続けられた5カ年計画に象徴される
計画経済を前提にした社会システムを指す。新卒一括採用から年功序列賃金体
系に終身雇用……私が自動車ライターとして生きることを決めた1978年当時フ
リーランスという概念は一般化しておらず、会社勤めのサラリーマンであるこ
とが普通の社会人とみなされた。

 現在50代以下のほとんどの世代は、社会人としての昭和を知らない。私の二
人の娘は1980年代初頭の生まれであり、平成の改元時はまだ小学生。2000年以
降に成人したいわゆる”ロスジェネ”で、ポストバブルのデフレ不況下に多感
な時期を過ごした。ミレニアムに至る1990年代の私は40代の働き盛りであり、
幾多の幸運が重なって1995年から21世紀初頭の2005年までの10年間は新たに
始まったCSTVのレギュラー番組を中心とする仕事にも恵まれた。

  バブル崩壊が現実のものとなった1992年から日米貿易摩擦にともなう自動車
協議が妥結した1995年までの世相の落ち込みは1973年のオイルショックに始ま
る大不況に酷似した。バブル期に深手を負ったマツダは翌1996年からフォード
の出資(株式の33.4%)を仰いで傘下に入りフォードから4代に渡って外国人ト
ップを受け入れ、有利子負債を2兆数千億円積み上げた日産も1999年3月に仏ル
ノーからの資本注入(約6000億円:当初株式の36.5%、後に43.4%を取得)によ
り危機を脱し事実上子会社化。

  さらに2000年3月には三菱自工もダイムラークライスラー(当時)から34%の
出資を受け入れて傘下に下った(2005年11月に提携解消)。他にもスバルの富士
重工(当時)もそれまでの提携先だった日産に変わってゼネラルモータース(G
M)との提携に走ったし(GMの経営悪化にともない解消し2005年からトヨタ
と資本提携)、大手で無傷で残ったのは堅実経営のトヨタとクリエイティブムー
バーで一息継いだホンダだけという世紀末の"惨状"だった。

●身の丈に合わない豊かさは続かない……がバブル景気最大の教訓だった

  今昭和末年の1980年代の約10年間をリアリティを以て語れる者がどれだけあ
るだろうか。当時30代の現役世代がもれなくリタイアしている2020年現在、語
り部たるメディア界でも当時はまだ人材に限りがあり、国内シェア争いに鎬を
削り合うメーカー関係者(開発陣を含む)と丁々発止を演じた者も数少ない。

  時代感覚としてはまだ中央の行政官僚機構による威光が強く、1980年代初め
に"ジャパンアズナンバーワン"という日本の高度経済成長期を分析した社会学
者エズラ・ヴォーゲル氏の著作により『日本株式会社』とも揶揄された日本特
有の経済・社会システムが機能していた。

 繊維から自動車へと対象が変った日米貿易摩擦は、日本社会が基本構造を変
えることなく輸出総量を自主的に規制する対症療法でかわす"変れない体質"を
露呈。米国での日本車打ち壊しがショッキングな映像とともに報じられてもな
お変れず、痺れを切らしたアメリカが円高/ドル安を容認するG5のプラザ合
意を以て歴史的な転換点を迎えたのが1985年9月。円高により輸出貿易が停滞
するという不況予測に消沈する一方で、価値が倍増した上に有望な投資先の見
えない状況が不動産バブルを招来し奇妙な好況感のなかで株式の史上最高値を
更新。過熱する不動産バブルに対する庶民感情に配慮した政府金融「行政当局
が異常な投機熱を冷ます狙いで行なった「不動産融資総量規制」がバブル崩壊
というハードランディングを招き、平成の30年間を通じて「失われた20年とも
30年とも言われる」デフレ不況の種を蒔くことになった。

 ヴィンテージイヤーとして振り返られる1989年(昭和64年/平成元年)は、
日本の自動車産業がその技術力(開発/生産の両面)において国際基準に肩を
並べたという意味でも記憶されるべき年だった。ただし、1990年に史上最多の
777万台を記録した国内自動車販売と輸出台数(572万台※海外生産326万台)
からも分かるように国内市場の拡大が成長の原動力であり、排気量2リットル
以下全幅1700mm未満のいわゆる5ナンバー枠が世界生産の大半を占めていた。

 戦後の社会システムの基本となっていた一括採用/年功序列/終身雇用の仕
組みは、コストダウンを徹底させることで規格大量生産のメリットを追及する
ことに長けてはいたが、良く出来たモノは出来るだけ高く売るというバリュー
アップの価値観を根付かせることには不向きだった。国内生産/輸出貿易とい
う枠組みでは従来の日本型生産システムには限界があったが、バブル崩壊の5
年後に訪れた日米自動車協議妥結が”変れない日本”に幸いした。

 高度に洗練された規格大量生産システムをそのまま海外生産拠点に転用し、
仕向け地に見合う商品性に優れたクルマ用にアレンジすればいい。ミレニアム
前後の海外主要市場には日本人の知らない日本車が数多く見られるようになっ
ていた。巡り合わせの幸運もあって実力派の奥田碩社長から張富士夫~渡邉捷
昭氏と3代続いた内部昇格トップの積極経営によって1995年からの10年余りで
40万台/年という海外生産を推進したトヨタがその代表例だが、わずかな期間
でグローバル販売台数を倍増させ、『世界のトヨタ』と呼ばれるようになった
業容の変化に異論を差し挟む者はない。

 時代背景としては、ITバブルからその崩壊を経て不動産バブルからリーマ
ンショックに至る米国の好景気下にあり、日本の自動車産業すべてがその恩恵
に浴していた。日産のカルロス・ゴーンCOO(当時)によるV字回復も、ア
メリカ市場の好況を背景にそこでの収益性に焦点を当てた結果であり、日産リ
バイバルプラン(NRP)当時はほぼ拮抗していた日産とルノーの販売台数(日産
=273.5万台、ルノー240.4万台)が2016年の最盛期には2対1に近い(日産=556
万台、ルノー=318万台)に広がっていた。同年に三菱自工をアライアンスメ
ンバーに加えて世界の3強に躍り出る実績は、トヨタの躍進と同様に評価され
ることはあっても非難の対象になるものではないだろう。

●私はホンダのDNAでもある行政官僚機構と渡り合える企業風土に期待する

 ポストバブルの『勝ち組』に名を連ねていたホンダもリーマンショックが転
機となった。6代目の福井威夫社長の後を受けて伊藤孝紳氏が社長に就任した
のが2009年6月。私は同年暮れにdriver誌の特集企画で伊藤社長との独占イン
タビューをしているが、その時語られたビジョンはほとんど形を成している。
F1然り、NSXのハイブリッド化をともなう復活然り、日本市場での軽自動
車中心然り。”メードバイグローバルホンダ”を標榜し『世界6極体制』で相
互補完を目指した戦略にしても誤りということはなかった。

 何かと非難の対象となった「2016年に世界販売台数600万台」という数値目
標も、1990年代後半からの10年余りで40万台/年の海外生産拠点を構築し業容
を倍増させたトヨタに比べれば1.5倍の増販はホンダの海外展開を知れば納得
も行く。国内市場で見るホンダはトヨタに遠く及ばない存在だが、2輪の世界
ではトップシェアであり乗用車でも米中2大市場でトヨタと互角のブランドイ
メージを有している。

 経営は結果責任なので責めを負う必要はあるが、私の見るところでは根っこ
に大企業病に犯されたホンダの現実があり、また開発拠点として世界的なメー
カーとしては珍しい研究開発部門の別会社化=本田技術研究所における組織的
な脆弱性が問題としてあった。平たく言うと大企業病であり、ホンダという企
業ブランドの看板を背負いこむより看板にすがる従業員=エンジニアのサラリ
ーマン化が背景としてあった。先に述べたインタビューの際にも、技術研究所
の組織的な力量低下に危機感を募らせていて、当面ホンダ本体と研究所のトッ
プを兼務して改革に取り組むとしていた。

 かつてのホンダであるならば、リコールを始めとする品質問題を”無茶な販
売計画目標”を掲げた経営トップのせいにするなんて、技術者がするはずもな
い。恥ずかしい言い訳をする前に、プランに沿うよう尽力して結果を出そうと
いうスピリットを感じさせる個性がいた。リーマンショック時のトヨタの品質
問題/リコール騒動の原因もほぼ同じところにあり、無理を重ねた結果という
よりも別の要因を疑う必要があった、と思う。

 日産のゴーンスキャンダルの構造もよく似ている。私も在任10年を越えた辺
りからC.ゴーン氏の長期政権は組織的な問題が膨らむと思うようになってい
た。2018年11月19日の逮捕の第一報直後は、”遂に?”と長居による綻びが過
ったものだった。しかし、ゴーン氏は2017年4月にCEOの座を腹心の西川廣
人氏に譲り、就任直後に自らの意向でヘッドハントした元いすゞのデザイナー
中村史郎専務執行役員CCO(チーフクリエィティブオフィサー)と一緒に退
任している。

 事件発覚当時はすでに1年半以上が経過しており、それまでも代表取締役の
地位にあった西川CEOの経営手腕が問われて不思議はないタイミングだっ
た。事件直後からの記者クラブメディアによる日産・検察からのリーク情報に
よる印象操作や、最初の起訴事実の金商法の有価証券報告虚偽記載にしても当
初匂わせられた脱税や過少申告などではなく現に支払われていない将来受け取
る可能性も定かではない報酬を記載しなかったことが罪という、どう斜め読み
しても立件の難しい内容だったり。

 しかも、金商法については同じ案件を二つの時期に分割して別個に起訴して
拘留期限の引き延ばしを図り、保釈請求を裁判所が認めるやそれまで起訴する
予定のなかった会社法違反(特別背任)で再逮捕起訴に及んだ。捜査には一方
の当事者でもあるサウジやオマーンの人々への供述が欠かせないはずだがそれ
もなく、様々な禁を破って日産当事者に中東やフランスやブラジルで”捜査”
に及び不当な証拠集めに没頭した。刑事司法の国際的常識でもある『推定無罪
の原則』などどこ吹く風。検察(それも地検特捜部)が逮捕起訴に及んだとい
うだけで極悪人であるかのようなイメージをメディアと一体になって植え付け
ている。

 今でも日産のステークホルダーだけでなく多くの庶民もC.ゴーン氏を不良
外国人の如く言い募っているが、果たして皆さんは当の人物をご存知なのだろ
うか?

●日本から見た世界ではなく、世界の中にある日本の発想が持てるかどうか

 国際的な名声を得ていたカリスマ経営者を、騙し討ちのような手口で逮捕起
訴し、長い拘留の果てに保釈を得て、さて公判はいつから始まるのかと問えば
金商法の件はやっと日程が見えてきたが、二つに分けられた罪状ごとにスケジ
ュールが組まれ、会社法については何時公判が始まるか明かされない。検察に
よる時間稼ぎは明かで、下手をすれば現在66歳のゴーン氏が異国でもある日本
に留め置かれ被告の身分のままで後数年過ごすことになっていた。

 日本には日本の刑事司法制度があると言うのは良いが、外国人それも請われ
て日本にやって来て倒産寸前の企業を再建し再び世界的なアライアンス企業体
に育て上げた人物を悪し様に問答無用で罪人に陥れようとする。レイシズムや
ダイバーシティが問われるようになったグローバルエコノミーの中で、そんな
横紙破りが通ると考える方がどうかしている。

 ゴーン事件は、ひとり日産という企業に留まらない。日本の自動車産業全体
のブランド毀損につながったという意味で重く受け止める必要がある。日本か
ら見ればC.ゴーン氏は野球の助っ人外人といった軽い雇われ人かもしれない
が、経営のプロの才覚が求められるグローバル市場におけるステイタスは世界
的スポーツのサッカー界の最優秀選手に与えられるバロンドール保持者のC.
CロナウドやL.メッシ級。その価値は長きにわたって国際自動車ショーでの
仕事ぶりをフォローしてきた私が余人に代え難しと断言する。

 多くの日本人は日本の自動車メーカーが平成年間にグローバル企業へと変化
している認識を欠いている。メーカーに限らず部品を含めた自動車産業全体が
その収益の80%以上を海外に依存していて、日本市場は全体の中のごく一部に
なっている。日本語の壁に守られ、基本的に日本市場に限った範囲でしか情報
伝達できない現実もあるが、直接収益に関係のない国外の事情は”知ってるつ
もり”のレベルで用が足りている。

 売り上げや収益の大半を国外に依存しているということは、すでに従業員数
でも日本人より諸外国人のほうが多くなっていると考えるのが自然で、一部の
創業者を除けば内部昇格のサラリーマン社長にグローバルガバナンスを期待す
る方が無理というものだ。西川廣人氏の無能ぶりが国際市場に周知されたこと
のダメージは、現実に国際舞台に一度も登場しなかったことからも明かであり、
内田誠社長にグローバル展開している現在の日産をハンドリングしつつルノー
と三菱とのアライアンスを成長軌道に乗せる才覚を期待するのは酷というもの。

 同じことはトップメーカーのトヨタについても言えることで、エンジニアの
経験もなく経営のプロとしての実績もなく、ただの創業家に生まれ育ったとい
うだけで当然のように経営のトップに座った豊田章男氏は批評に晒されるのは
当然であり、腫れ物に触れるような扱いは誰のためにもならない。1995年から
リーマンショックまでの13年間にわたって40万台/年というハイピッチで海外
生産拠点作りに邁進した経営トップとそのプランに応えて企画開発生産販売と
いう各部門が必死でサポートした。

 リーマンショックと相前後して品質問題やリコール騒動に揺れたのは、毎年
のように米国現地に飛んで取材していた者としては不思議であり、納得の行か
ないことも多い。2008/2009年のカリフォルニア・グリーンカーオブザイヤー
などは、今にしてみれば”なるほど、そういうことだったのか!”である。

 08年のジェッタTDiはまだしも、翌09年のアウディA3TDiのVWグループ2
連覇はディーゼル不毛の地であり未だ普及の前段階にも至らないタイミングで
それはない。地元の同業者に尋ねてもクリーンディーゼルがブームになってい
るとは「聞いていない」。その6年後の9月18日にEPA(アメリカ環境保護局)が
明かにしたディフィートデバイスを用いたフォルクスワーゲン社の組織的な排
出ガス規制逃れの不正で謎は解けた。

●何のためにクルマはあるのか? そこから考え直す時かもしれない

  何よりも2009年は3代目プリウス(ZVW30)のデビュー年。VWのクリーン
ディーゼルが妥当トヨタハイブリッド(HV)を旗印に北米市場での捲土重来を
期したという触れ込みだったことからも明らかなように、不正をしてでも取り
たいと熱望した結果だった。

  すでに事件発覚から5年が経過し、世界的な訴訟案件となったはずの出来事
がなかったかのような雰囲気だが、翌年に打ち出されたEVシフトにしても
CASEにしてもドイツが国家ぐるみで推進するインダストリー4.0の一環とし
て呑み込まれ、ディーゼル不正などなかったかのような振舞いだが、M.ヴィン
ターコルンCEOにしてもU.ハッケンベルグ技術担当常務にしても辞任後の続報
は届いていない。

  米国市場に賭けていたマツダのSKYACTIV-Dがグローバル市場での商品性諸共
失い、今日の混迷につながった事実を追及しない自動車メディアのジャーナリ
ズム精神を欠いた不定件が問題視されないところに今日の混迷の一因がある。

 不透明感といえば2016年の米国大統領選挙が巷間の予想に反してD.トランプ
氏の勝利に終わり、第45代大統領に就任が決まったのを受けて、就任前の"指
先介入" でメキシコ工場の新設中止を求め始めた。お膝元のフォードは強烈な
ブラフに負けてプランを撤回。M.フィールズCEOは翌2017年にはフォードの日
本市場からの撤退を決断したのも束の間、自身も業績不振の責めを受けて退任
に追い込まれている。

  トヨタもメキシコ新工場の建設を決めていたが、トランプ氏の就任前の恫喝
に即応。デトロイトNAIASのカムリのワールドプレミアのスピーチで急遽向う5
年間で総額100億ドル(約1兆円規模)の米国内投資を行なうというリップサービ
スを展開した。さすが内部留保が6兆円を超えるとされるトヨタといったとこ
ろだが、よくよく考えてみればまだ就任前の次期大統領のツイッターに応える
ように世界発表のプレゼンの場で1私企業のトップが口にすることだろうか?
如何にトップダウンが可能なワンマン体制を構築しつつあるといっても、反応
が早すぎる。

 ここからは私の”邪推”だが、一説によれば世界最大の投資ファンドとして
知られるGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)の資金が原資であり、
トヨタが身銭を切ったのではないともいう。日産のゴーン事案といいトヨタの
リーマンショックからの5年間法人税未払いといい、政府の関与が取り沙汰さ
れる日本型経営の在りように対する疑念の数々がもやっと漂っている。

 クルマは人・道・車=三重のシステム。すでにファンタジーと化して久しい
走りのパフォーマンスを中心とするクルマのハードウェア評価は、現実に則し
ていないという点で情報としての価値が薄れつつある。政府が私企業に深く関
与する日本式経営は『日本株式会社』とも揶揄されるように、世界で最も成功
した社会主義によってもたらされたとも言う。

 出来ることなら、道路交通法や自動車関連諸税や高速道路の世界的に見ても
類例のない高額な通行料などクルマを取り巻く環境=フィールドのシステムか
ら見直して、ヒトとクルマというマン・マシンシステムが活き活きとした豊か
さを実感できる仕組みを構築したいもの。際限のない右肩上がりを論じること
て白ける愚はほどほどにして、スピードの意味に正面から向き合ったところで
現実に則したクルマの姿を追及したい。

 300km/hを知る者としては、その世界観に匹敵する価値や魅力を少なくとも
半分のスピードで得られる工夫を考えてみたい。リアルワールドを自らの運転
で走り回って掴み取れる身体感覚。過密な都市空間では味わえない管理社会か
ら距離を少し置いた移動の自由(Freedom of Mobility)は、クルマの最大価値。
新型コロナウィルスCOVID-19がその必要性を明かにしたソーシャルディスタン
スを保つツールとしてのクルマは、もっと注目されていい。

  何のために人は生きるのか。豊かで幸せな日々のためにクルマはある。そこ
から考えるエコロジーの発想が必要なのではないだろうか?        
                                   
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