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2020年8月4日火曜日

メルマガ『クルマの心』2020.7.7既報の再録

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           伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』 
             第388号2020.7.7配信分


●なんとかかんとか8年間続けられました。これからもよろしくお願いします

 7月7日は本メルマガ『クルマの心』の創刊記念日。2012年に有料配信として
始めた。そもそものきっかけは今世紀に入って50歳の働き盛りに差し掛かった
時の躓きにあった。少し余談めくが、そこに至る経緯を振り返っておこう。

  忘れもしない2005年9月。トヨタ自動車は、1989年に当初は北米専用プレミ
アムプランドとして立ち上げたLEXUS(レクサス)を国内導入。すでに欧州その
他の地域に販路を拡げていたが、唯一日本市場だけが取り残されていた。この
国には自前の高級車ブランドは馴染まない。誰が決めつけたのか分からない
が、日本製プレミアムブランドはこの国には根付かないことになっていた。

 1980年代にいち早く北米での現地生産(オハイオ州メアリズビル)を開始し
ていたホンダ(1982年)が、まずアキュラというプレミアムチャンネルを立ち
上げる。レジェンドもNSXも当初からアキュラのフラッグシップとして企画
されている。今なおアキュラを国内展開しないことからホンダ〇〇〇と名乗る
が、いずれも商品企画としてはアキュラ。デザインテイストもホンダとは異な
る。ホンダが国内販売の2倍以上をアメリカで売り上げている事実を多くの日
本人は知ろうとしないが、今や世界一の自動車市場と化した中国でも同様の存
在感を有していることはきちんと把握しておかないといけない。

 次いでホンダの翌年にテネシー州スマーナに工場進出した日産がインフィニ
ティを立ち上げた。タイミング的にはヴィンテージイヤーとして語り継がれて
いる1989年。トヨタのレクサスと足並みを揃えるように展開された。トヨタは
レクサスではLS400を名乗った同型車をセルシオの名で市場導入したが、日産
はインフィニティを車名として登録。北米での本名(?)Q45はサブタイトル扱い
となった。

  それぞれの登場は好況のバブル期に重なるが、そもそものスタートラインは
日米貿易戦争にある。1980年に日本の自動車産業は1100万台/年の大台を突
破。アメリカ合衆国を抜いて世界一の自動車大国に登り詰める。1960年代の
高度経済成長期に産業としての自動車が形を成した。国内の人口増と経済的活
力が重なって、モータリゼーションの萌芽が訪れる(1966年)。年率二桁の経済
成長は1970年をピークに翳りが出て、1973年のオイルショックでどん底に凹
んだ。

  折からの排ガス規制強化もあって日本の自動車産業は滅亡寸前まで行ったが、
危機をバネに一丸となって問題解決に臨む日本の集団主義体制は、通産省(当
時)の"護送船団方式"も奏功して難局を克服。世界的な省エネと排ガス規制の
強化は小型車中心の日本自動車産業に幸いする。結果として最大の貿易輸出国
アメリカとの収支不均衡が問題視されるようになり、繊維に代わってエース品
目に昇格したクルマがやり玉に挙がった。

●長く生きて歴史観を身に付けないと本物の自動車評論家にはなれない

  すでに40年近く前の話。大方の記憶は薄れているかもしれぬ。そもそも現在
40代以下の若い世代はその事実さえ知らないだろうが、自動車産業の宗主国を
以て任じ世界最大の自動車市場を持つアメリカ人にとって、急速に存在感を高
めるメイドインジャパン(日本車)はプライドを傷つける存在だったに違いな
い。大ハンマーで日本車を叩き潰す映像は何年か前の中国から届いた映像そっ
くり。そこまでする?彼らの感情を測りかねたが、ショックを受けた記憶は鮮
明だ。

  貿易摩擦の激化。ことなかれ主義の日本政府(霞が関)は、メーカー各社に
自主規制を求め輸出台数を抑えることで矛先を逸らす策を講じたが不均衡の溝
は埋まらない。業を煮やしたアメリカ政府はG5(先進5ヶ国蔵相・中央銀行
総裁会議)において円高/ドル安を容認する合意を取りつける。

 世に言う『プラザ合意』は会議が行なわれたセントラルパーク際にあるニュ
ーヨークのホテル名に因む。それまで240円/1ドル近辺で推移していた為替
レートは120円台に跳ね上がった。すわ円高不況。輸出企業にとって従来品が
一気に売価倍増となり競争力失墜を意味した。まさに青天の霹靂。利幅の薄さ
を為替で埋め合わせていた日本のビジネスモデルの変更が急務となった。

 従来型小型車から利幅の大きい上級車への移行。丁度折よく行き場を失った
日本円が不動産への投機に向かい、資産価値の膨張にともなう金余りがクルマ
の高級高価格化を追認した。それまでの日本車はいわゆる5ナンバー枠が基本
だったが、3ナンバーに対する心理的バリアは解かれ、輸入車に対する抵抗感
も薄れていった。昭和と平成の違いを端的に述べようと思うなら脱5ナンバー
化を挙げるといい。

 昭和の終焉を飾るバブル経済は平成元年(1989年)に開花し、1990年に史上
最大の777万台の自動車販売を記録したところで弾けた。以来平成の30年間は
ずっと500万台規模で推移し、デフレ経済の定着によって市場としての活力が
戻らないまま令和の改元を迎えている。2008年にピークを打った総人口は以後
減少に転じ、少子高齢化が際立つようになって12年が過ぎたことになる。

 転機はプラザ合意から10年経った1995年。貿易摩擦の焦点となった日米自動
車協議の妥結を受けて、日本の自動車産業は輸出から仕向け地での現地生産へ
と舵を一気に切る。1980年代の熾烈な国内シェア争いで蓄積された商品の多様
化と開発/生産両面での技術的洗練をそのまま海外に水平展開。市場を国内か
らグローバルに拡げることに成功して今日に至るわけだが、やはり1995年から
10年後の2005年に新たな展開が訪れる。

 レクサスブランドの日本市場導入だ。北米での販売チャンネル創設から約15
年。現在はそこからさらに15年ということになる。『ブランドは我慢』当時の
推進スタッフの誰かがいみじくもそう言ったが、継続する体力(=販売力)が
ないとプレミアムな存在には至らない。ブランディングの正否を決するポイン
トはここにあり、1強多弱状態の日本でトヨタのレクサス以外にチャレンジで
きなかった理由もここにあるようだ。日産もホンダも国内シェアではトヨタの
半分以下であり、競合できる米中市場での関係では隔たりが大きい。

●『ブランドは我慢』レクサスの導入スタッフは喝破した

 目の前の現実だけで考える大半の日本人にとって、すでにグローバル化して
久しい日本の自動車産業の全貌を理解するのは難しい。クルマは20世紀に花開
いた文明の利器であり、ハードウェアとしての機能性能に違いはないが、走ら
せる環境は多様であり、日本の常識がどこでも通じるとはかぎらない。

 簡単に言うと、ほとんどの日本人は世界中の人々が同じようなシステム・イ
ンフラ・法制でクルマを走らせていると思っている。自らの常識が万国共通だ
と理由もなく信じているが、もちろん所変われば品変わる。

 レクサスの日本市場導入は2005年晩夏のGSとISのフルモデルチェンジで
始まった。フラッグシップのLSは翌2006年にデビューしているが、日本市場
におけるレクサスチャンネル導入に賭けるトヨタの意気込みはGSが京都、I
Sが伊豆長岡という試乗会場の設定に表れていた。

 京都はGSの三吉茂俊CEの出身地であり、南禅寺の境内がプレゼンの場に
当てられ、比叡山ドライブウェイを中心とする試乗コースが設定されていた。
いっぽうISの伊豆長岡は福里健(すぐや)CEの趣味である能に因む。老舗
旅館の『あさば』は全10室ほどの内風呂付き和室に面した庭に能舞台が設えら
れている。ロケーションは東京近郊の伊豆と近いが、予約の取れない高級旅館
として知られる。

「ブランドは我慢です」レクサスの国内導入担当者から名言を得たのはいずれ
のモデルだったか忘れたが、あれから15年の歳月が過ぎて現在のLEXUSがあ
る。冒頭に"忘れもしない2005年9月"と書いたのは京都のGS試乗会での『事
件』の記憶からだった。

  南禅寺でのプレゼン/夕食の後市内のホテルに戻ると、前澤義雄(故人)さ
んに呼び止められた。外出するという。一緒にタクシーに乗り込むと見覚えの
ある通りに着いた。建物の向こう側に白川が流れる新橋通り。ここは祇園の一
角を占める町家が並ぶ風情のある場所で、京都に訪れると白川端や巽神社辺り
で必ずクルマの撮影に励んでいた。ただし、早朝の人気の少ない時間帯がほと
んどで夜は初めてだった。

 味わい深い町家の並びとばかり思っていた軒の連なりが夜になるとネオンが
灯るナイトクラブに変貌していた。知る人ぞ知ることかもしれませんが、カラ
オケありのバリバリのクラブ。京都の奥深さを改めて知る思いをしました。と
にかく強く印象に残ったので、少し間を置いて開催されたホンダのシビック試
乗会で懇意のカメラマンと同乗した際に話した。実はそのことは忘れていた
が、しばらくあって電話が鳴った。

 出ると「マガジンXのS編集長」であるという。「レクサスの京都試乗会で
二次会に出掛けましたよね?」藪から棒に問われた。てっきり同席したトヨタ
広報部からの情報かと思い、シラを切るまでもないと認めることにした。冷静
に考えると広報がそのようなプライバシーに関わることを言うはずもない。己
の脇の甘さを恥じたが、その電話取材一本で翌月のマガジンXに『接待漬けの
自動車評論家』というグラビア3ページの批判記事が載った。

 振り返ると某カメラマンだけに話したことを思い出した。彼と某氏が昵懇の
間柄であることを後に知る。いずれも業界事情通であることを”武器”に隠然
たる影響力を持ち、彼はホンダ某氏はトヨタの庇護の元でフォトグラファー界
と自動車ライター界で隠然たるポジション(AJAJ副会長、MSJ副会長等)を築
いていた。

●銀座のママ曰く「この人たちは家でも会社でも居場所がないの」

  私は1987年からCOTY(日本カーオブザイヤー)選考委員を委嘱していた。35歳
から2005年までの17年間(2003-2004年はCOTY実行委員会内紛の影響で非委
嘱)の実績を積み上げており、1990年代は新たなメディアとして注目されたデ
ジタルCSにレギュラー番組を持ちCOTY選考会をいち早く取り上げたりもして
いた。時代はバブル崩壊に伴う出版不況下であり、インターネットメディアの
台頭と合わせて雑誌メディアを主体とするCOTYのあり方にも変化の兆しが見ら
れるようになっていた。

  私としては、COTYは開かれたイベントになるべきと考えていた。外部への情
報発信に消極的な実行委員会の意識改革を目論んで、番組を通じてオープンに
なるよう(例えば選考委員の公開を自身の紹介を通じて試みたり)知恵を絞っ
た。日本社会は人と異なる行動を起こす者に冷淡だ。出る杭は打たれるという
諺もあるように、目立つ人物を嫌う傾向が強い。

  世間に疎いと言われればそれまでだが、50歳を過ぎるこの時までCOTYのよう
なイベントは公開のお祭りのようにして盛り上げるべきだと考えていた。とこ
ろが、多くは既得権益に属する実行委員/選考委員の境遇は外部に知られるこ
となく内輪で共有できたほうがいいと認識していたようだった。

 言い忘れたが、京都も伊豆長岡もCOTYメンバー中心の試乗イベントであ
り、祇園の夜は広報部の課長職と私と同世代の実験部部長と前出前澤氏による
企て。私はついでに呼ばれた立場だった。マガジンXからは前澤氏にも問い合
わせがあったそうだが、知らぬ存ぜぬで通したと聞いた。

 斯くして2006-2007COTY選考委員を選ぶ実行委員会で落選。そこには別団
体イヤーカー選考会を企てる勢力との確執があったり(米国取材で訪れていたLA
のホテルに電話があり、そちらへの参画を要請されていた)、新旧交代の機運
が盛り上がる過渡期という政治的な事情もあったようだった。

  自動車評論家、なかでもCOTY(日本カーオブザイヤー)選考委員のような立場
にある者にはとかく接待供応の嫌疑が掛けられがちだ。公職でもなく私企業が
業務で行なうことを咎めることに疑問なしとはしないが、モラルは求められて
当然だとは思う。

  私は35歳の時に接待の洗礼を受けた。コンプライアンスが問われるようにな
った21世紀とは違う昭和のバブル期の話である。当時の私は世間知らずの堅物
で、夜の銀座に連れられて行っても楽しいとも思わない。ある日クラブのママ
に「このお店のお客さんって何なの?」直球をぶつけると「一流会社の部長さ
ん、会社では部下に疎んじられ、我が家では妻子に煙たがられる人たち。お店
は皆さんが役職で手に入れた安らぎの場なのよ」

 聞いて、少し世の中が分かったような気がした。となれば企業の数だけある
接待を全面的に受け入れるか、すべてを拒否するか。誘われたらすべて受ける
ことにした。それで知れる世界は得難い財産。COTYの配点には一切影響しな
いと決めれば、相手は残念だろうがこっちの一分は通る。先方が効果なしと見
切り声が掛からなくなっても、むしろ好都合ではないか。

  重ねて言うが、コンプライアンスが浸透確立した現在のルールを過去に当て
はめて評価するのはフェアじゃない。接待を拒む無粋を担当部署の当事者が恨
むこともある。21世紀も20年が過ぎ日本の国内市場がグローバル全体の20%を
切る現実の中で、国内広報部門の仕事はわずかなボリュームに過ぎないクルマ
の評価に収斂している。

  グローバル化した現実の中で、日本語の壁に守られた小さくて特殊な市場だ
けに向き合うことの矛盾をどう考えるか。国内広報部門とメディアの間にある
BtoBのもたれ合い関係を、ジャーナリズムの視点で問い直すことができるか。
問題の根深さに思いを巡らさないわけには行かない。

●私の興味は常に未来に注がれている

  今回で第388回。伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』としてとにかく続けて
みることにした。この間ずっと試行錯誤であり、当初からの読者は何度同じこ
とを目にすることか、と嘆き節の連続だったかもしれない。

  当初はwebマガジンをイメージして多様な記事を盛り込むことを試みたが、
スキルが思いに届かない。雑誌出版メディアで主流を成している試乗リポート
にフォーカスすることも考えたが、テクノロジーやインフラの進歩に対して法
体系やそれにともなうシステムがまったく対応できていない。単なるハードウ
ェアとしてのクルマを新旧の軸で捉えても、前提となる環境がまったく変化し
ていない状況下で優劣を語っても意味がない。

  いわゆる試乗インプレッションは、昭和の高度経済成長期に欧州やアメリカ
のメディアを目にした先達が見よう見まねで日本語化した、元々日本にはなか
った文章表現がベースとなっている。私がフリーランスを始めた頃(1978年)と
永遠の成長が信じられた1980年代の激しい変化を伴う発展途上段階に、広告ベ
ースの商業出版が活性化。多くの試行錯誤や外来語の転用によって形作られた
雑誌文化が昭和末期にピークを迎えた。

  ポストバブルとともに始まった平成時代は、インターネットの普及と自動車
産業の生産拠点の国外移転を伴うグローバル化によって産業全体の様相は昭和
のそれとまったく異なるものになって行ったが、唯一日本語の分厚い壁に守ら
れた既存メディアは縮小する国内自動車市場とともに新たな展開に踏み出すこ
とができなかった。結果として昭和の成功体験を追認する"劣化コピー"に終始
し、1mmも変化しない国内道路交通法規の中でインフラとクルマのテクノロジ
ーだけが国際的なレベルに高まったことで、現実との乖離が増幅されて行った。

  100km/h以上の速度超過は多額の罰金が課せられる現実を離れて、ファンタ
ジーだらけの"試乗インプレッション"という私的感想か溢れる。私がyoutube
などで変えるべき走行環境を語ると、経験の浅い若い世代から猛批判を浴びる
ことになるが、正すべきは走ることを否定する法規制であってクルマではな
い。すでにハードウェアとしてのクルマの性能は飽和状態にあり、クルマの性
能を下げるかインフラ/システム/法規制をアップデートするかの二者択一が
迫られるようになっている。

 1980年代の昭和末期に訪れた世界基準を追う発展途上段階では、サーキット
やテストコースとった限定空間を前提に純粋にハードウェア評価を追及した。
安くない走行料金を支払う余裕が伸び続ける広告出稿から潤沢にあったことも
あるが、シンプルに知らない世界を垣間見る興味がモチベーションとなった。

 昭和の”劣化コピー”に終始した平成の30年は、出版不況にデフレ不況が重
なり、もっともコストの掛からない一般公道でのインプレッションが但し書き
ありのクローズドトラックの評価を省く形で全能化。結果として、現代的な性
能レベルに到達したクルマの現実と半世紀にわたって変化を拒み続けてきた交
通行政に埋めがたい溝が生じ、雑誌を始めとするメディアで語られるほとんど
すべてがファンタジーと化す状況が生まれた。

 最大の問題は、当のライターも編集者もそれが異常であるという認識を欠く
ことで、昭和の成功体験の”劣化コピー”を意識することなく続けることに恥
じないことだろう。インターネットの普及によって双方向性(インタラクティ
ブ)であることがあたりまえになり、SNS(Social Network System)による
情報の送り手と受け手の関係が激変した状況にあってなお、今まで通りで在ろ
うとする。

  ここに既存メディアが時代の変化に対する最大の『抵抗勢力』と化している
現実がある。すでに、メディアに属するエディターもライターも自分の生涯を
このままの形で続けることに執着し、自らをアップデートして変化に対応しよ
うとは考えていない。

  実は、クルマは従来型のモビリティツールのままでも十分に資源・環境・安
全のスローガンに応える資質を備えている。少子高齢化の先にある人口激減を
前に、メディアがファンタジーを語って誤った情報を垂れ流すのを止めれば、
世界最先端で直面する人類史上初の自然減による人口減少社会を乗り切るアイ
デアが生まれる可能性がある。

●とにかく走り回ってビッグデータを掻き集めてクルマのハピネスを目指せ!

  2020年7月7日は『クルマの心』が創刊から丸8年を重ねただけでなく、未来
に向けて9年目に踏み出す記念すべき日でもあるようだ。

  昨年11月の中国武漢市で感染拡大が発覚した新型コロナウィルスCOVID-19に
よるパンデミック禍は、それ以前と以後を大きく分ける歴史的な事件として後
世振り返られることになりそうだ。

  20世紀最大の発明とされた自動車が、この先同じ形で存続しパーソナルモビ
リティツールの中心に留まるかどうか。率直に言って分からない。私としては
すでに老境を迎えていることもあるが、50年にわたって慣れ親しんできたクル
マに深い愛着を感じるし、このままの姿で難問に応える術はあると考えている。

  永遠に地球人口が増え続けるという右肩上がりの成長に疑問符が付き、都市
化にともなう世界的規模の人口減少がテクノロジーの進歩とともに新たな局面
を迎えようとしている。

  何も300km/h超を実現するオーバー500psだけがクルマが目指す方向ではな
い。実際に経験したことのない者にかぎって秒速84m=300km/hを軽々しく口
にするが、人類の進化は未だそれを自由に操る身体機能を身に付けた訳ではない。

  日本の変化に富んだ37万平方キロメートルはもちろん、多様な価値観が溢れ
る世界各国各地を走り倒して、何が21世紀に求められる自動車モビリティのあ
るべき姿を考える。未来を生きる若い世代にとって、これほど面白くチャレン
ジングな話もない。

  実は自動車ジャーナリストという職業は、今後の指標となるハピネスの創造
=人それぞれで異なる幸福のあり方を探る魅力的なものになりそうだ。ドイツ
かぶれも結構だが、そろそろ狭い東京の論理を離れ自前の価値観で魅力的なク
ルマのあり方を見つける時ではなかろうか。

  大丈夫、『クルマの心』の読者ならどう生きるかもう分かっているはず。私
はまだまだこの先も人とは異なる視点で行動し、クルマを語って行きたいと思
っている。                              
                                   
                                   
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