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2020年9月2日水曜日

まぐまぐ!メルマガ『クルマの心』再録再開。まずはご一読下さい。

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           伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』 

             第389号2020.7.14配信分


●「誰が座って良いと言った!」トヨタの重役が浴びた罵声


 かつて聞いた実話。トヨタ自動車の重役(たしか技術担当専務)がある日運

輸省(当時)に呼ばれた。1980年代のことだったか。許認可権を握る中央官庁

の課長クラスといえば40代前後だったろう。当然国家公務員上級試験をクリア

したキャリア組であり、それなりの経験を積んでいる。


 執務デスクに座るお役人氏を前にトヨタ重役氏は挨拶もそこそこに対面する

位置にあった椅子に腰を掛けたそうだ。すると「誰が座っていいと言った?」

自分の息子ほどの年頃が憤然と怒気を孕んで一喝したという。驚いた重役氏、

飛び跳ねるように起立したそうだ。何でも許認可に関係することで不手際があ

り、若手官僚の担当課長殿が叱責を浴びたということだった。所轄官庁と民間

企業の力関係を物語る『法治国家』たる日本の現実ということなのだろう。


 重役氏は無駄に逆らうことを避け、平身低頭でその場を収めて早々に辞した

そうだ。そして帰社して「何であんな小僧にこの俺がペコペコしなくちゃいけ

ねぇんだ!」自らのデスク上にある一切を払いのけながら吼えたという。魂か

らの雄叫びだったと、側近が蒼くなってその場の様子を伝えた。


 すべては伝聞なので本当のところは分からない。しかし多分事実だったに違

いない。日本の自動車産業は、戦後一貫して所轄の運輸省や通産省など官僚主

導による国家の庇護の下で育成されてきた。敗戦直後は民生用自動車の開発は

もちろん企画することさえ占領下のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に

よって許可されなかった(乗用車は全面禁止、トラックに限って1500台/月が

許可された)。


  戦後2年の1947年には1500cc以下の小型乗用車が許可され、さらに2年後の

1949年10月には全面的に解禁となったが、庶民にとって乗用車はまだ高嶺の花。

ところが1950年の朝鮮戦争勃発によって発生したトラックなどの特需が呼び水

となって自動車産業が一気に勢いづく。それまで自動車生産といえばトラック

とタクシー/ハイヤー業者の需要に支えられていて、ほんのわずかな富裕層が

いる段階に変わりはなかったが、風向きが変ったのは間違いない。


 当時興味深いことの第一にトラック比率が圧倒的であり、第二に二輪から派

生した三輪自動車が約4万台近くも製造され(1950年度)、第三にベンチャー

企業として位置づけられる東京電気自動車(旧プリンス自工の前身)が1947年

に「たま」、1949年に「たまセニア」というEV(電気自動車)を発売したと

いう事実がある。


 私はまだ生まれておらず荒廃した世相など知る由もないが、私の記憶に残る

1950年代にはまだ戦争の雰囲気が残り、川崎駅地下通路などで”傷痍軍人”の

姿を見て胸が痛んだことを思い出す。


 焦土からの復興にはまずトラックであり民間ではオートバイ派生の3輪車が

注目され、ダイハツやマツダやクロガネ(現日産工機)など戦前からの有力企

業が席巻。それぞれ”自動車メーカー”として今に残るきっかけを得ている。


 少し話は長くなるが、起点となる歴史観をきちんと整理しておかないと誤解

が誤解を生む原因となる。歴史的な時代の大転換点に差し掛かっている今こそ

それが現代の価値観の原点と錯覚されている平成時代の常識にとらわれた現役

世代が肝に銘じておくべきことだろう。


●アメリカ車に席巻されずに済んだ幸運


 日本の自動車産業は、1886年(明治19年)の自動車発明(ドイツのカール・

ベンツとゴットリープ・ダイムラーがシュツットガルト近郊のそれぞれ異なる

街でほぼ同時に製作したとされる)から18年後の『山羽式蒸気自動車』(山羽

虎夫が1904年に製作)に始まり、21年後の約10台が”量産”されたガソリン自

動車『タクリー号』(1907年)に起源が求められるが、今で言う自動車メーカ

ーとしては1911年(明治44年)の快進社自動車工業に行き着く。ドイツでの自

動車発明から遅れること四半世紀(25年)ということになる。


 世界のモータリゼーションの起源は1908年のヘンリー・フォードによるモデ

ルTの量産化に始まり、19年の量産化の歴史によって累計1500万台超が生み出

され第二次世界大戦前に文明としての自動車が普及していた。それに比べると

日本の後進性が際立ち、戦後の急成長を経て世界最大級の自動車生産大国に辿

り着いた印象を持つが、20世紀前半は2度の世界大戦で戦場となることがなか

ったアメリカ以外は大方が戦禍に塗れて停滞する傾向にあった。


 日本の戦前は、富国強兵に始まる明治時代の政策が軍国主義の台頭によって

民間需要は後回しとされたが、国防・軍事を優先する方針による工業化は進め

られていた。その技術力を背景に自動車が基幹産業として国を代表することに

なるのだが、前例がない事態に対する行政官僚機構の対応は後向きだった。


 当初は、敗北主義に染まった行政官僚のほとんどがアメリカ製乗用車との競

争は困難であり、自動車需要は輸入で賄えば十分との意見に傾いていた。すで

に巨大な市場を背景に高度に進化していたアメリカ車との競争にエネルギーを

割くよりも、外国からの輸入でまかなえば十分という考え方が支配的。当時の

一万田尚登日銀総裁は「国産車育成無用論」の考え方に立ち、乗用車生産に消

極的な意見を表明している。


 資源の大半を輸入に頼ることから貴重な資源は鉄道・鉄鋼・造船などといっ

た重厚長大型の基幹産業に注がれるべきだとした説に、当時の自動車産業界が

置かれた後進性が表れている。幸いだったのは当時世界最強だったアメリカの

ビッグスリー(ゼネラルモータース=GM・フォード・クライスラー)にとっ

て日本市場が魅力的として映らなかったことだろう。


 戦前にも横浜にフォード(現マツダ横浜研究所の所在地)、大阪にGMの生

産拠点があったが、当時の世界情勢から一計を案じた商工省(当時)の岸信介

工務局長は「自動車工業法要綱」を立案。事業許可制の導入や米国メーカーの

拡張阻止の方針を明確にする。アメリカ政府は日米通商航海条約に違反すると

して抗議したが、日本側は産業保護政策ではなく”国防上の理由”という一文

を加えることでGM・フォードの事業拡大を阻止した。


 遥か1980年代に観た『NHKスペシャル』の前身(?)ドキュメント昭和-

世界への登場-第3集「アメリカ車の上陸を阻止せよ~技術小国日本の決断」

(1986年6月13日放送)で語られた秘話を思い出す。かつて有望な市場として

注目していた日本が、対戦の結果破れ去り焦土と化した現実を見たビッグスリ

ーが注目しなかったことが幸いした。


 日本の自動車産業の成功は、幾つもの幸運に恵まれた”奇跡”の結果だが、

誤ったその成功体験に対する評価と認識がゲームチェンジが迫る『大変革期=

トランスフォーメーション(Tranceformation)』という21世紀の現実への対応

を難しくしている。


 無謬原則と前例主義が変れない日本を牽引する官僚システム最大の欠陥であ

り、当時も半世紀を遥かに超えた今も何ら変わらない。今まで通りは失敗や間

違いはないが、変化に対応して成功に結びつけるという前向きな発想はない。

大過なく日々を送れば保証される。親方日の丸の発想は、全面的に日本社会を

覆った宿痾であり、21世紀に入って”一人負け状態”にある最大の失敗要因で

あるのは間違いないだろう。


●中国はかつての日本の生き写し。やがて沈む可能性は高い


 話を少し戻すと、朝鮮特需はかつての交戦国が同盟(日米安全保障条約)を

結んで、ソビエト連邦共和国や中華人民共和国という社会主義体制国家と資本

主義陣営が対峙する新たな局面、東西対立を浮上させた。およそ40年後に冷戦

構造はソ連崩壊とともに過去のものとなったが、それから30年で米中対立とい

う21世紀という新たな状況を生んでいる。


  歴史を振り返ると、現在68歳の私が生まれる前からの話であり、ようやっと

記憶に残る1960年前後から見てもすでに60年という短くない時が流れている。

クルマで記憶に残るのは、初乗りがたしか60円の日野ルノー(4CV)に乗っ

て労働争議真っ只中のデモ隊に囲まれた鶴見の路上や、エネルギー革命(都市

ガスの普及)によって石油コンロ製造を生業としていた父親の同族会社が潰れ

る前の社用車RS型初代クラウンの後期モデル。今の60歳以下の世代にとって

はSFのように雲を掴む話に近いだろう。


  戦後に訪れた自動車産業の成功のきっかけは、外資(当然連合国側で、小型

車中心のイギリスやフランスメーカー)の力を借りたライセンス生産(ex日産

オースチン、日野ルノー、いすゞヒルマンなど)といった政府主導で始まる。

今世紀に入ってから本格化した中国における改革開放政策に基づく社会主義市

場経済を背景に急成長を果たした中国はこれに倣った感がある。国営企業との

合弁によって産業育成と技術の習得を短期間で成し遂げる。


  今世紀に入って二桁の高度経済成長を成し遂げ、2000年には1180万台に留ま

っていた自動車保有台数は今や2億台を超えた。国内生産台数も2000万台/年

を大きく上回り、今やアメリカに次ぐ世界第2位の保有と生産台数を有する有

望な最大市場への道を突き進んでいる。


 市場規模は日本の総人口の10倍以上というスケールそのままであり、このと

ころの経済の停滞はあるものの、まだまだ成長の可能性を残している。すでに

人口が減少サイクルに入って12年となる我が国とは直接比較にはならないが、

ここまでの成長パターンとそのプロセスは改めて見比べると驚くほど酷似して

いる。


  行政指導や護送船団方式といった資本主義とは相容れない社会主義的な施策

の下で自動車産業は今日に至っている。日本のクルマの歴史を紐解くと、歴史

的経緯と技術や環境の変遷からモビリティの発想が生まれた西欧やアメリカと

は異なり、生きる糧を得る産業の側面から始まり、割り込む形で社会に広まっ

た日本車の成り立ちが浮き彫りにされる観がある。


●C.ゴーン氏にあって、西川廣人氏に決定的に欠けていたモノ


 ところで、唯一純国産化を志向したトヨタは紆余曲折の後にクラウン(初代

RS型1955年=昭和30年)を開発して独自路線を貫いた。1948年創業のホンダは

まだ2輪メーカーであり、1961年に通産省(当時)が発表した『自動車行政の

基本方針』(後の特振法案=既存の自動車メーカーに絞って振興を図り、新規

参入業者を拒む:国会には未提出)に創業者の本田宗一郎が猛反発して今日の

発展の礎を築いた話は有名だ。


 それにしても戦後の黎明期に登場した無数の自動車メーカーからは淘汰され

たとはいえ、現在もなお大手の乗用車メーカー/ブランドが8社も存続して、

トラックバス専業のいすゞ、日野、三菱ふそう、UDが残る。乗用車メーカー

はトヨタグループ(子会社のダイハツやスバル・マツダ・スズキ)、風前の灯

火とはいえアライアンスを組むルノー日産三菱。そしてデトロイトのGMとの

関係を強めているホンダ。大規模な合併といえば日産に吸収されたプリンス自

工(1966年)があり、それ以来当時の通産省による官主導の再編は見られない。


 1998年末に倒産の危機に瀕し、翌年3月27日にフランスのルノーとの提携に

よって救済された日産の事例などは、経営陣の失策もさることながら縦割りの

官僚的な組織構造や労使関係に見られる無責任体質といった霞が関の行政官僚

機構そのままの結果であり、バブル期の狂騒から庶民感情を恐れた責任回避の

ハードランディングでバブル崩壊という官僚の失策が30年に及ぶ平成の不況時

代を招来させた。


 日産の再生には、日本型経営にドップリと浸かりことなかれが内部昇格の決

め手とされたサラリーマン経営者では覚束ない。結果としての経営のプロたる

カルロス・ゴーン氏の招請であり、実は日産の少壮管理職階層が取りまとめた

日産リバイバルプラン(NRP)をしがらみに囚われずに断行した結果が奇跡

とも言われたV字回復の真相だった。


 1998年末の時点で所管の通産省もメインバンクの興銀(現みずほ銀行FG)

も匙を投げていた案件が、外国人の経営で再生どころか2016年には世界で3本

の指に入るアライアンスグループに躍り出た。経営は結果責任というが、1999

年の日産COO就任以来、2001年には同CEO、2004年紫綬褒章授章、2005年

ルノーCEO、2016年12月には三菱自工を日産傘下に買収し同社取締役会長と

歩を進め、世界で最も有名な自動車会社経営者として知れ渡っていた。


 NRP以前の1兆円超の有利子負債に喘いでいたポストバブル期、超円高が

転じてバブル景気に沸いた昭和末期のR32GT-Rに象徴されるエンジニアの

暴走、その前の労使紛争による社内ガバナンスの混乱。高度経済成長期からの

歴史を俯瞰できるキャリアの持主なら、非難されるべきは誰かは明らかなのだ

が、権力の走狗と成り果てたメディアが混乱に輪を掛けた。


 所管の現経済産業省の官僚の無能と無責任に西川廣人前CEOの私利私欲が

重なり、検察の思惑と現政権につながる自動車産業界の意思が合わさって(ト

ップメーカー首脳の嫉妬が背後にあったというのは私の想像だが、その可能性

は否定できないだろう)、日本という世界的な信用につながるブランドそのも

のが致命的といえるほどに傷ついた。


●オイルショックからの数年間”ワークス”はサーキットから姿を消した


 今はもはや昭和の発展途上段階ではない。1985年のG5(先進5ヶ国蔵相・

中央銀行総裁会議)での『プラザ合意』は、日本はすでに途上国ではなく世界

でもっとも貿易黒字を掻き集める文字通りの先進国の仲間入りを果たした。そ

れなりに振る舞って下さいね、というメッセージがドル/円の為替レートを一

気に2倍へと円高になることを容認する合意だった。


 この時に世界基準で変革に舵を切る国際感覚の持主が日本の政界や経済界に

いれば良かったのだが、一括採用、年功序列、終身雇用という世界でも類例の

ないシステムで醸成され、内部調整に長け大成功よりも失敗しないことで生き

延びた内部昇格組の経営トップにリスクを取って変革に踏み出す勇気など有ろ

うはずもない。


 チャンスはあったと思う。バブルの絶頂に至るまでの1980年代の活況を知る

者なら共有できるはずだ。時は1970年にピークを迎えた高度経済成長の後に突

如として襲ったオイルショック(第4次中東戦争に伴ってアラブ諸国が親イス

ラエル友好国を対象に行なった石油の禁輸措置による高騰と混乱)と相前後し

て強化された自動車の排出ガス規制による停滞は、日本の自動車産業をほぼ壊

滅状態にまで追い込んだ。この間(1974~77年まで)の日本車の「走らない、

つまらない、華がない」という三重苦は、思い出すだけでゾッとする。


 私は、世の中が反自動車に触れるこの時期(1975~1978年の足掛け4年)に

モーターレーシングを志し、自動車メーカーが一斉にサーキットから姿を消し

(ワークス活動の全面的休止)、富士のグランチャンピオンシリーズ(BMWvsマ

ツダ13B)や鈴鹿のF2シリーズ(BMWのM12/6直4エンジンが全盛)が席巻。1300

ccクラスの特殊ツーリングカー(TS)の日産サニー(KB110)が隆盛を誇った。


  日本の自動車産業は生き残りを懸けて排ガス対策に没頭、1978年3月のマツ

ダRX-7を皮切りに3元触媒を手中に収めた各社が続々と日本版マスキー法

として克服困難とされた昭和53年排出ガス規制をクリアして日本車の時代が始

まった。


 世界的な省エネと排ガス規制強化のトレンドの中で、小型車中心の日本車は

排ガス規制クリアと好燃費が受けて世界的な評価を受ける。最大の貿易相手国

のアメリカでの日本車人気は日米貿易摩擦の筆頭に挙げられる存在となり後の

グローバル化につながるのだが、1970年代に規制対応に没頭する余り世界の潮

流に外れ掛かっていた小型車のFF(前輪駆動)化が急伸する。


 日本の主要各社が競ってFF小型車を品揃えすると差別化の必要からパワー

競争が勃発。さらに高出力/トルクに対応するというロジックから横置きFF

ベースの4WD化が進み、エレクトロニクス(電子制御)技術と走りの性能を

合わせたハイテク/ハイパワーが1980年代のトレンドとなったわけだが、国内

主要メーカーによる国内市場シェア争奪戦はあらゆる車型にチャレンジする多

様化のムーブメントは、バブル景気に向かって激化の一途を辿った。この間の

タイヤメーカーによる走行性能を高める技術開発が日本車のパワー競争に多大

な影響をもたらしたことも重要なファクターとして押さえておく必要がある。


●スカイラインGT-Rが日産を駄目にした


 日本車のヴィンテージイヤーとして振り返られる1989年はバブルの頂点であ

ると同時に元号が昭和から平成に変った年としても記憶される。実はこの年ま

では日本車の主流はいわゆる5ナンバー枠であり、全長4.7m、全幅1.7m、エン

ジン排気量2リットル未満が国内需要の大半を占めた。2リットル超の多くは

輸出向けを中心とする海外市場対応モデルで、唯一の例外として日産のスカイ

ラインGT-Rがあった。


 米国トヨタのレクサスチャンネル用フラッグシップとして開発されたLS400

や日産のインフィニティ向けのQ45、Z(ズィー)カーとしてブランドアイコ

ンにもなっていた300ZXとは違って、R32GT-Rは1985年から始まった国

内ツーリングカー選手権のグループA規定を精査してエンジン排気量からタイ

ヤサイズと4WDシステムの採用に至るまでフルコミットメント。その仕上げ

を西ドイツ(当時)のニュルブルクリンク北コースで行い、1960年代に伝説化

されたポルシェを仮想敵に想定することでブランド価値の創造に注力した。


 時代は面白いクルマを作れば売れたバブル期。70年代から80年代前半を通じ

て労使紛争が絶えなかった低迷から一転初代シーマからS13シルビアに始まる

ヒット作の延長線上に究極のハイテク/ハイパフォーマンスマシンR32GT-

Rが位置づけられた。原価管理が行き届いていた企業だったら果たして市場に

投入されたかどうか。


 国内ツーリング競技車両規定だけに注目したR32GT-Rは、直列6気筒エ

ンジンにツインターボとアテーサE-TS4WDシステムを組み合せる仕組み。

かぎられたフェンダースペースに収まるタイヤサイズを勘案してトルクを分散

する4駆システムとしたわけだが、このパッケージングでは当然左ハンドルは

作れない。国内市場専用のドメスティックモデルであるスカイラインだからこ

そあり得たレイアウトであり、同じ280馬力自主規制のフェアレディとは違っ

て当初から輸出は想定されていない。


 スカイラインの主力モデルは2リットルのGTS-tタイプM。クーペのG

T-Rから割り出されたパッケージングで4ドアを仕立てた結果、コンパクト

である以上にセダンとしての機能性に疑問を生じることになった。後の日産G

T-R開発の全権をC.ゴーンCEOから任されて商品企画に携わったという

水野和敏氏は、スカイラインのポジションはスポーツモデルであり、異なる

キャラクターを求めるならローレルやセフィーロを用意する。当初から意図し

て開発したと振り返るが、それを聞いたのは21世紀に入ってからだった。


 私はR32では実験主担、R33と34では開発主管を務めた渡邉衡三氏とは深く

議論を交わした間柄で、最後の直6スカイラインR34の発売前には即刻の企画

中止を進言して不興を買ったこともあるが、日産FR3車がかつて月販4万台

を売ったトヨタマークII、チェイサー、クレスタと同様の商品企画だったとは

初耳だった。ポストバブルで経営が傾き懸けた時にもなおテクノロマンに興じ

たエンジニアこそがNRPに至る元凶だったと私は見ている。


 アメリカでも25年ルールが解けて右ハンドルのR32GT-Rが市場に回るこ

とが許されるようになり、エキゾチックカーとしての”R”はカリフォルニア

でも人気というが、現役当時は収支にまったく好影響を及ぼすことがなかった。

ゴーン氏がブランド資産としての価値に注目し、R34で途絶えていたGT-R

を日産ブランドの核として復活させた洞察力は経営のプロらしい慧眼(けいが

ん)と言うべきだろう。


 ことはフェアレディの復活や日本市場では交通法規の制約や負担の大きい税

制から軽自動車が最適とスズキからのOEM供給、ハイブリッドではトヨタに

追いつけないとEVのリーフ開発に経営資源を傾けたり。責任を持ってリスク

に対峙する。日本人が決定的に駄目なリーダーシップを発揮したところに得難

いモノを感じる。内部昇格のサラリーマン経営者がそこに嫉妬して独裁者とい

うレッテル貼りを貶める。この感覚でグローバル化時代を乗り切れると正気で

思っているとしたら、日本企業にチャンスは永遠に戻ってこないだろう。


●「次ぎ?多分もうこの担当ではなくなってます。地方かなあ」


 ここで重要なのは、許認可権を握る行政官僚機構が法治国家という支配構造

の中で、法の下において揺るぎない権力を握っているという事実だろう。方や

公僕として国民に仕えることで税金を原資とする給料を貰う立場の官僚に対し、

自らの才覚で企業の運営に携わり収益を上げた結果としてそれなりの報酬を受

け取る私企業の経営層。経済的にも社会的ステータスの面でも圧倒的優位にあ

る重役が、若輩の行政官僚の権力の前に屈伏せざるを得ない。


 冒頭のエピソードがここに掛かってくる。大した人生経験もしていないのに

キャリア官僚として採用された瞬間にエリートの道が用意される。入省(庁)

当初は青雲の志を持った優秀な若者が、無謬原則に凝り固まり前例主義と失敗

しないことが登り詰める道であると散々組織の掟を刷り込まれる。


「嫌だったら、そこの窓から飛び下りろ!替えはいくらでも居るからな」そん

な恫喝が日常的に行なわれていると聞いたことがある。斯くして金太郎飴のよ

うな行政官僚が出来上がる。役人の最高峰事務次官になれるのは同期で一人。

2番手の官房長や局長クラスのポストも数に限りがある。駄目だと分かったら

セカンドキャリアを求めて辞する。


 かつて東京都の石原慎太郎都知事が『ディーゼルNo宣言』を発した頃、当時

の関係省庁(通産省、資源エネルギー庁、環境庁)や石油連盟などの業界団体に

朝日新聞系列のCSTVレギュラー番組の看板を活かしてインタビューを試み

たことがある。対応の多くは若い(20代)の班長クラスで、事情通のノンキャ

リ組がサポートに回ることが多かった。取材終了時に「また何かあったら次ぎ

もよろしくお願いします」挨拶代わりに述べると「次ぎ?多分もうここにはい

ませんね。地方の出先で修行を積んでいると思います」若いキャリア組は幹部

候補として英才教育を受けるのだという。


 斯くして民間の重役クラスなど例え大企業であっても同じない若きエリート

官僚が出来上がる。人生経験などなくても組織の掟に順応し、無謬原則に従っ

て過去を否定せず前例主義に則ってシンプルに答えを出す。徹底した既得権益

の保護に徹し、容易に変化に与しない。ここにこの国がかつての成功体験が忘

れられず、変革を阻むことに執着するメンタリティの根源がある。


 そうした体制下で成功を収めてきた企業が、伝統的にトランスフォーメーシ

ョンが苦手で従来型の手法をリファインすることで延命に長ける組織となるの

も分からないではない。相手のあるビジネスでは、こちらの都合ばかりでは動

かない。世界的なゲームチェンジが進む中で、今まで通りに固執することのリ

スク。ダイバーシティ(多様性)が世界の現実なので、まだ従来通りが通用す

るかもしれないが、我流に拘って変化への対応を怠ると一気に置いていかれて

しまいかねない。


 ピークは奈落の底への始まりになりかねない。私は従来型のクルマにもまだ

まだチャンスはあると考えている。テスラの最新モデルを見ていて思うのだが、

EVが何で500馬力、300km/h超というリアルワールドで使えないパフォーマン

スと競い合う必要があるのだろう。


  現在のICE(内燃機関)でも、あまり現実的でない過剰性能なんかに振り

回されないで、かつてのソニーのウォークマンのように"SMALL IS BEAUTIFUL"

といし事実に注目して、より小さい排気量で必要十分以上の走りのパフォーマ

ンスを身に付けて、何よりもクルマの商品価値を決めるデザインやテクスチャ

ー(手触り)に関わる素材にコストを懸けた方がいい。


  真似の出来る技術なんかに頼らないで、真似の出来ないセンスを磨いて価値

(バリュー)を高める。人は何のために生きている?『幸福感(ハピネス)を求

めている』と考えるところから始めるのも悪くはないんじゃなかろうか?  

                                   

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