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2020年9月2日水曜日

まぐまぐ!メルマガ『クルマの心』第390号再録 。

有料講読(880円/月:税込)は下記へ。

https://www.mag2.com/m/0001538851 

スマホは画面を横にしてお読みください。縦だと段落がズレます。


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           伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』 

             第390号2020.7.21配信分



●マツダロードスターから透けて見える未来


 マツダロードスター(MAZDA MX-5)、四代目となる現行モデルはNDの型式

名で親しまれている。1989年の初代からNA、1998年NB、2005年NCと来

て、2014年9月舞浜アンフィシアターでワールドプレミア。スペインのバルセ

ロナとアメリカ・カリフォルニア州モントレーで同時開催となった。あと一月

余りで丸6年、2015年5月の発売から数えても5年余の歳月が流れたことに

なる。


 過去の例を辿るとロードスターは7~10年でフルモデルチェンジされてい

る。初代NA型はバブルの絶頂期に、マツダが国内シェア拡大を期して展開し

た販売5チャンネルの一つユーノス店のブランドアイコンとして位置づけら

れた。


 当初のユーノスロードスターという車名に懸けられた国内市場向け呼称(後

にマツダロードスターと改称)と、マツダMX-5ミアータと命名された海外

向けタイトルの間にあるギャップは、ついこの間まで存在した内外別呼称にみ

られる市場認識が垣間見れて興味深い。


 一方でロードスターは、当初からグローバル市場が企画の要となっていた。

特に最有力市場の北米での成否が至上命題として掲げられ、同市場の現地スタ

ッフの支持がなければ日の目を見ることはなかったと言われている。それにつ

いては歴代モデルすべてに共通する課題であり、スポーツカーに極端なほど冷

淡な日本の社会システムに対して常に現実的な対応を取ってきたマツダの経営

陣と見識と開発陣の熱意には経緯を評する必要がある、と思う。


 小型軽量小排気量(1.6リットル)という英国発祥ライトウェイトスポーツ

(LWS)コンセプトの復刻。といえば格好良いが、実際には社内的にも軟派

なスポーツカーを支持する勢力は少数派で、希少なリソースであるエンジンの

選択肢は限られたという。1.6リットルで120馬力という当時のレベルでも優秀

とはいえない汎用エンジンB6-ZE型の搭載は望んだ形ではなく、選択の余地は

なかったと言われている。


  しかし、この非力なパワーユニットの採用が"知恵で価値を創造する"という

このクルマ本来の魅力の源泉になったのは間違いない。当時の技術力では高出

力/高トルクに対応できるオープンボディを用意できる技術力はなく、何より

も世界中で途絶えて久しいLWSという形態に対応する知見は枯渇していた。


 2リットル以下の小型車クラスは、当時まだ5ナンバー枠が主流の日本車が

もっとも得意とするところ。その意味では実に的を射たチャレンジと言えた

が、時あたかも誰もが上を向いて歩こうとしていた熱狂的な時代である。


●世界のブランドスポーツを追い詰めたのは紛れもなく日本車だ


 奇しくもロードスターがデビューした1989年に登場した日産のスカイライン

GT-R、フェアレディ300ZX、インフィニティQ45は、いち早く国産車初

の300馬力をカタログに掲載する実力を手に入れていた。時代はバブル景気に

沸く”イケイケ”気分が充満していたが、一方で『第二次交通戦争』と呼ばれ

るほどクルマの安全性が社会問題化していたタイミングでもあった。


 一計を案じた許認可権を握る所轄官庁の旧運輸省は、日本自動車工業会(自

工界)を通じて性能表記を280馬力に留める自主規制を”行政指導”。輸出モ

デルについては300馬力の表記を認める一方で、国内市場向けには長く280馬力

の自主規制値が徹底された。


 現代目線で過去を測る昨今の風潮は憂えるべきものがあるが、実はこのバブ

ル期の日本車のハイテク/ハイパフォーマンスのトレンドが世界のパワー競争

に火をつけている。日産のR、Z、Q45を皮切りにトヨタのセルシオ

(LS400)、スープラ、ホンダNSX、三菱GTO、マツダユーノスコスモ……と

続いた国内280馬力自主規制、海外300馬力超の日本車集団は、欧州の名だた

る老舗ブランドを震撼させた。


  1989年登場のポルシェ911(964)は250馬力、ニュルブルクリンクを荒し回っ

たスカイラインGT-Rに追い詰められて2年後の1991年に930時代からキャリー

オーバーの3.3リットルターボを投入するが320馬力であり、3.6リットルター

ボ(360馬力)が溜飲を下げるのはさらに2年後の1993年の事だった。


 もう一つの世界的ブランドであるフェラーリも、当時FIAのF1世界選手

権で鎬を削りあったホンダがNSXを米国ACURAブランドのフラッグシップと

してローンチした1990年の主力モデルは348。3.4リットルV8で300馬力だっ

た。当時(も今も)世界最大のスポーツカー市場アメリカ向けアキュラチャンネ

ルのブランドアイコンとして企画されたNSXは日本では280馬力自主規制を守

らされたが、輸出仕様はNA3リットルV6で楽々300馬力を得ていたとされる。


  モーターレーシングの最高峰F1GPで1.5リットルターボ時代からNA3リットル

V12の全盛期までマクラーレンとともにシリーズを席巻し、導入したテレメト

リーシステムでF1の世界を一変させたホンダ。バブル崩壊を受けて撤退した後

にホンダは自ら構築したテレメトリーをかつてのライバルフェラーリに技術供

与してフェラーリの復活に寄与したという逸話が示すように、フェラーリのク

ルマ作りにも多大な影響を与えている。


  世界的な名門ブランドの意識を根底から変えたのがバブル期の日本メーカー

だったことは疑いようのない事実だが、30余年前のバブルの絶頂期は日本中が

熱病に冒されたように上を見る中で真逆を行くコンセプトを評価するのは勇気

が要った。今でこそ諸手を挙げてロードスターを評価するのがあたりまえにな

っているが、当時は10%もいたかどうか。


●マツダが広島に本拠を構えていることの最大のメリットは何か?


 リアルワールドの走りの魅力に注目する企画の正しさは、世界中の名だたる

自動車メーカーが争うようよ追従したことからも明らかだが、日本国内に渦巻

く西欧コンプレックスはより大きく、よりパワフルで無闇に速いクルマを過剰

に評価する熱病の最中にあった。


 すでにデビューから30年を重ね、100万台超のグローバル販売を実現したス

ポーツカーとしてギネスブックにも載る成果を残した現代目線と当時の認識に

は当然のことながらズレがある。現代的解釈によるLWSの再定義は、11年前

の1978年に発表されたサバンナRX-7以来の注目すべき”事件”だったが、

ロードスターが今ある評価を得るには長い時間が掛かっていることを知る必要

がある。


 マツダは古くから外国市場での評価がブランド価値の大半を占め、ライバル

は国内よりも欧州やアメリカなど自動車先進国の老舗ブランドだったりする。

東京から約800km西に位置する分西洋に近いと巷間言われるほどに、デザイン

にしてもテクノロジーにしてもトヨタ・日産・三菱・ホンダといった関西以東

の大都市圏に本拠を構える国内5大ブランドとは異なる文化的土壌で歴史を重

ねて来た。


 サバンナRX-7(SA22C)は、紛れもなく世界最大の自動車自由市場にして

モータリゼーションの母国として100年超えの歴史の積み重ねを持ち、クルマ

のトレンドセッターとして今なお強い影響力を有するアメリカ市場の存在なし

に世に出ることはなかった。


  アメリカは、1908年に史上初の流れ作業によるマスプロダクションを実現し

て20世紀を『自動車の世紀』として社会の変革に大きな影響を与えたクルマの

母国。ヘンリー・フォードの"モデルT”が1927年の生産終了までの19年間で

約1500万台も作り続けられた。無数のベンチャー企業の中から淘汰されたGM

(ゼネラルモータース)とクライスラーにフォードモーターカンパニーを加え

たビッグスリー(ミシガン州デトロイト)が1973年のオイルショックを契機に

世界の檜舞台から退くまで、アメリカ車は一貫して世界中の憧れであり”大き

いことは良いことだ!”に象徴されるアメリカンライフは世界に目指すべき道

を示し続けていた。


 現在アメリカでは、常に限界効用の壁を意識させられる製造業から情報産業

へと21世紀のテクノロジーを背景にした構造改革が進み、自国の自動車産業は

相対的に衰退し、日本メーカーが市場の40%近くを握る(韓国・ドイツを合わ

せると50%に迫る)という脱モノ作りが際立っているが、クルマを消費する文

化的土壌は今なお世界のトレンドセッターとして機能する。


●ユーノスロードスター(MAZDA MX-5MIATA)はまったくのノーマークだった


  マツダがロードスターを企画・開発・生産・販売するプロセスで、米国市場

が念頭から外れたことは唯の一度もない。初代NA型はもちろん、キープコンセ

プトのNB型、フォード傘下に下ってその存続のために上級志向に走る必然のあ

ったNC型、そしてリーマンショックを経てフォードの傘の下から外れることで

『原点回帰』に立ち返る幸運を得た現行ND型……。


  すでに”なってしまった現実”から過去を想像するご都合主義に染まる前に、

歴史に学ぶ謙虚さが必要だ。そもそも初代NA型ロードスターMAZDA MX-5 

MIATAがアメリカシカゴ国際自動車ショー(1989年2月)でワールドプレ

ミアされたことの意味を理解できない日本人は少なくない。


 何よりもこのクルマの登場を事前に知る部外者はほとんどなかった。徹底し

た機密管理の下、噂にも上ることもない。現行NDロードスターもそうだった

が、右肩上がりの永遠の成長が信じられた1980年代は熾烈な国内シェア争い

が展開された時代である。


 今以上にハイテク&ハイパフォーマンスに人々の目が行き、高出力/高速性

能を基本とする高性能化と、目先の変化を求める価値観に対応する多様化と大

型化、時代のトレンドとしてのFF化から4WDへの流れに対して小型FRのライ

トウエイトスポーツは人々の視野の外にあった。活気を帯びる自動車メーカー

の意向に沿うべくトレンドを形成する役回りを演じた雑誌メディアでもLWS

に注目す勢力はごく限られた少数派であり、現在のマツダロードスターが支持

されるような環境にはなかった。


 自動車ジャーナリズムの世界に入って12年目を迎え、FR駆動レイアウトに一

家言持っていた私ですらまったくのノーマーク。しかも、同年9月の日本市場

での発売に先立つ4カ月前の1989年5月に米国において先行販売がなされてい

る。


  ともすると、現代日本人は昭和の気分そのままに日本メーカーや日本車を日

本の国内目線で語りたがるが、平成の30年を過ぎて今は令和も2年であり、日

本メーカーがグローバル化に踏み出してた1995年からすでに25年。海外生産拠

点が国内を上回り生産台数オーダーで約2倍、販売比率で言うと国内1に対し

て国外4を大きく上回るほどに様変わりしている。


 実は国内市場が沸騰していた1980年代においても日本メーカーの世界生産の

およそ半数は国外市場向けであり、破格の円安為替レートの恩恵もあって貿易

黒字の稼ぎ頭となっていた。マツダMX-5ミアータ(ロードスター)は、グローバ

ル市場においてゲームチェンジを促す起爆剤になったという意味で、国内市場

専用のスカイラインGT-R(R32型)とは次元の異なる資質の持主でもあった。


  蛇足次いでに、私は1987年からCOTY(日本カーオブザイヤー)選考委員を委嘱

されていて3度目の10ポイント(COTYではノミネート10台の中から5台に持ち点

の25ポイントを振り分け、最優秀候補に10ポイントを配点するルール)として

ユーノスロードスターを選んでいる。微かな記憶では同車に10点を振り分けた

選考委員は全60名の内10人もなく、COTYはトヨタのセルシオ(レクサスLS400)

の頭上に輝いた。


●「今ステアリングを修正したな?どんな感じだ??」


  さらに余談を続けると、ヴィンテージイヤーとして振り返られる1989年は、

年初の昭和天皇崩御(1月7日)にともなう自粛ムードからそれまでのバブル景気

とは打って変わる雰囲気となった。自粛は前年9月の天皇の容態悪化報道後か

ら始まった。


 有名なところでは井上陽水がスカイライン/ローレルと共通プラットフォー

ムでマークII三兄弟(マークII、チェイサー、クレスタ)に対抗する目的で開発

されたセフィーロのTVCMがある。陽水がセフィーロの助手席から「お元気で

すかぁ~」と発するそれは、天皇容態報道後は"お元気ですか"の音声が消さ

れた。


  世の中を覆った天皇崩御からの自粛ムードとは真逆に、1989年はバブル経済

の頂点であり過熱した好況感とのギャップは大きかった。一方各社のその後を

運命づけるエポックメーキングなニューモデルラッシュは今もなお語り草だ。


  北米専用のプレミアムブランドとして立ち上がったレクサスの旗艦LS400(日

本ではセルシオ)、同じく日産のアメリカ市場向けインフィニティブランドのQ

45、スバルが社運を賭けたレガシィ、マツダの国内販売5チャンネル制の一角

ユーノスのブランドアイコンと位置づけられたロードスター(NA型)……翌90

年にはホンダの北米向けアキュラブランドのNSX、三菱GTO、ユーノスコスモ

などが続き、日本車が史上もっとも華やかな頂点に達したことを印象づける百

花繚乱ぶりだった。


  記憶に残るのはCOTY選考を意識した各社の取材攻勢で、トヨタはフランクフ

ルトで開催されたレクサスLS400(セルシオ)の国際試乗会に日本人ジャーナリ

スト枠を設け、200km/h巡航を可能とするアウトバーンでの評価に賭けた。


  この時の逸話として何度か紹介しているように、当時中心的に執筆していた

ベストカー誌の枠組みということでトヨタ広報部は徳大寺有恒氏と私を試乗コ

ンビとして割り振った。試乗時間枠内で交替してそれぞれインプレッションを

取ることになっていたが、徳大寺氏はずっとナビシートに座り続け1秒たりと

もステアリングを握ることはなかった。


  私が200km/hクルージングで緩いコーナーに差し掛かった際軽く修正舵を当

てると、すかさずそのフィーリングを尋ね、私が印象を述べるとそれがそのま

ま試乗インプレッションとなって記事に反映された。当事者だけが知る嘘のよ

うな本当の話である。


  レガシィの富士重工(当時、現スバル)は同じ右ハンドル左側通行のオースト

ラリアで試乗会を敢行したのも印象に残る一コマだ。ロードスターのマツダは

破格のプライス設定で希望する選考委員に販売した。とにかく路上を行くロー

ドスターの姿を増やそうとマツダ広報部が頭を捻った結果だったと聞いた。私

は3年前の1986年4月に清水の舞台から飛び下りる覚悟でメルセデスベンツ190

E(W201)を購入したばかりだったので手が伸びなかった。


 すでにFR絶対主義を掲げドリフトこそが最大価値となり魅力の根源として

いただけに、W201以上に具体的なイメージに近いコンパクトFRだったロード

スターは残念な存在だった。すでに二人の娘が小学生となっていたタイミング

であり、メルセデスベンツに2人乗りのオープンカーを加えるのは難しかった。


  いずれにしても昭和の末年にして平成時代の幕開け当時の私はまだ37歳。過

酷な経験はあったにしても、自動車ジャーナリストとしてはまだまだ未熟の学

ぶべきことが多い段階だった。


●インターフェイスという言葉にピンと来た!


 とはいえ自動車メディア界に入って12年目。さすがに積もる経験から悟るこ

とも多くなっていた。日本語は自動車を語る言語として必ずしも最善とはいえ

ない。最大の気づきは、表現すべき言葉の不足だった。懸架装置や舵取り装置

に原動機など、サスペンションやステアリング、エンジンといったカタカナ表

記の外来語をそのまま使った方が理解が早い。


  実は、私がフリーランスのライターとして仕事を始めた1978年当時は、評価

されるクルマの中心はもちろん国産車であり、その技術レベルも今と比べたら

大したことはない。走行環境にしても高速道路の普及率はまったく低く、評価

の対象となる走りのパフォーマンスも知れていた。


  私がドリフトの面白さからFRという駆動レイアウトの魅力を再発見したのは

1983年のことだが、その事実を伝える言葉が見当たらない。まだシンプルの右

肩上がりの成長神話に基づく高出力/高速度を基本とする高性能やより大きく

といった価値観が支配的な発展途上段階。日本の自動車ジャーナリズムの大半

は、自動車そのものと同様にアメリカや欧州の専門誌を参考にしたコピー文化

として興っている。


 パッケージングという今では普通に流通する言葉にしても、初耳は確か1980

年代後半のことであり、それがクルマ作りの基本となることを日本人の多くが

知るようになったのはその単語が一般化してから。それ以前は本質に触れるこ

となく評価していた。世界は言葉で出来ているというが、まず言葉があってそ

れを理解してはじめて知っているから分かっているとなる。ここは重要なポイ

ントだろう。


  私は、クルマのダイナミック性能評価をする上でメカニズムのハードウェア

以上に人とクルマが直接触れる接点の重要性に気づかされた。とにかくクルマ

に触れて乗って走ってを繰り返す内に、ステアリングやシートやシフトレバー

やアクセル・ブレーキ・クラッチのいわゆるABCペダルに手足ではなく目とい

う視覚器官で接するメーター類などが、試乗インプレッションのベースになっ

ている。 


 気づいたはいいが、それらを端的に語る言葉がない。ある時TVを見ていると

日立(製作所)がCMで『日立は今、インターフェイス(Interface)』というコー

ポレートメッセージというかブランドステートメントを発しているのを目にし

た。語感の印象の良さから辞書を引いてみると"界面や接触面"といった意味を

持ち、転じてコンピュータと周辺機器の接続部分を表すという。ユーザーイン

ターフェイスという表現にも見られるように、人とクルマの接点といった意味

にも使える。


  1980年代後半に多くを寄稿していたモーターマガジン社の雑誌をめくると、

インターフェイスという言葉をしきりと使って普及に務めようとする記述を目

にするはずだ。当時の編集者も初耳の言葉に躊躇していたが、今やインターフ

ェイスは一般用語としても普通に流通している。


●SUVのオリジナルはアメリカだが、ブームの起源は日本車だった


  SUV(Sport Utility Vehicle)も同じようなラインに位置する。今や世界

的なブームとなったクルマのカテゴリーだが、最初に耳にしたのは1990年代後

半のアメリカだった。当初はピックアップトラック(ライトトラック)の荷台に

アドオンのキャビンを乗せたのがオリジナルの形態。現在世界的に流通してい

るSUVとは大分ニュアンスが異なっている。


 日本では1980年代に三菱パジェロやデリカスターワゴンなどが牽引したオフ

ロードタイプの4WDがはしり。当時はRV(レクレーショナル・ビークル)

いう通り名で一世を風靡した。三菱はそのドル箱の存在が後に重く響いてい

る。大きく重いオフロード四駆形態はバブル崩壊とともに敬遠されて衰退。


 入れ替わるように1994年のトヨタRAV4、1995年のホンダCR-Vと

いうセダンとプラットフォームを供用するモノコックボディの都市型4WD

が出現。さらに画期的なクロスオーバー型4WDのハリアー(LEXUS RX300)

の登場によって現在に至る世界的なSUVブームが生み出されていった。


 今で言うSUVブームは当初日本においてブレークしている。What's new?

は今も昔も変わらぬ人々がクルマに求める魅力の最大要素であり、ことに日本

市場の場合1980年代に急伸したエレクトロニクスの導入がもたらした技術変革

によって、クルマの形態(カテゴリー)の多様化とハイテク&ハイパフォーマン

スが劇的に進んだ。


  バブル崩壊によって一度は凹んだが、熾烈な国内シェア争いで培われた技術

的リソースをテコに市場を活性化。デフレ不況で長期の停滞が常態化した日本

では長続きしなかった都市型小型4WDは、保守的な欧州市場でもWhat's new? 

需要を喚起。中国などの新興国市場でも保守層のセダン人気とは別に、世界の

トレンドに敏感な若い世代のSUVへの関心が鰻登り。最大市場でのアメリカで

も原油価格の乱高下を受けてクロスオーバーSUVの需要が掘り起こされた。


  前述の通り、LEXUS RX300(ハリアー)の出現が世界のクロスオーバーSUV需

要を掘り起こした。アメリカでベストセラーセダンとして長く君臨したカムリ

のプラットフォームを流用して都市型4WDを創造する。このレクサスRXの登場

をきっかけにSUV(Sport Utility Vehicle)にはアプローチ/デパーチャーアング

ルや最低地上高などの"クライテリア"があり、条件さえ満たしていればフレー

ム構造でなくてもSUVを名乗れるアメリカ特有の規格/基準があることを知った。


  ともすると日本ではこのような起源は軽んじられ、すべての情報は欧州やア

メリカ由来だと短絡しがちだが、20世紀末の20年と21世紀に入ってからの20年

の計40年にわたって従来型のクルマの新基軸を発進し続けたのは"モノ作り"に

熱中するあまり情報化社会への変革に後れを取りつつある日本の自動車産業で

あることは間違いない。


●NAロードスター(スペシャルパッケージ)のMOMOステアリング!


  ユーノスロードスター(MAZDA MX-5 MIATA)の出現は、1970年代のオイル

ショックと厳しい排ガス規制の荒波を乗り越え、災い転じて福と成した日本の

自動車産業以外からはけっして起こり得なかった。1960年代の"佳き時代"を

席巻したブリティッシュライトウェイトスポーツに対する純粋なリスペクトと

憧れを1980年代末当時の技術力で再生を試みる。


  志しの純粋さだけでは不十分で、相応の技術力なしには形にならない。まだ

脆弱な日本のクルマ社会だけを念頭に置いていたとしたら成功の可能性はな

く、最大市場のアメリカでの周到なリサーチと価格競争力を加味した確かな商

品力が原動力。本国日本での発売よりも4カ月も先駆けて導入した辺りに、MX

-5ミアータの本質がありそうだ。ちなみにMIATAとはドイツ古語で「贈物」

や「報酬」を意味する。 


  1989年2月のシカゴショーでのワールドプレミアに驚き、同年5月のアメリカ

市場での発売開始に混乱した。確か日本市場での9月発売に先駆けた7月頃に、

当時のJARI谷田部テストコースでメディア向けの事前(事後?)試乗会が催され

た。その懇談の場で、立花啓毅実験部次長(当時)に率直に問うたことを思い出

す。「このセットアップ以外に方法がなかったのですか?」たしかそんな質問

を切り出したかと思う。


 FRという駆動レイアウトがもたらす走りのパフォーマンスには一家言あ

り、その価値判断からみて納得が行かなかったからだが、「軽量なオープン

ボディのクルマで(とくに)前輪に十分な荷重を期待して接地感を得ながら

バランスの取れたハンドリングを作り込むのは簡単じゃない」立花次長は、

ちょっと場所を変えようと言いながら人の輪から離れると、概要そんな話か

ら始めた。


 ご存知の通りNAと型式で親しまれる初代ロードスターは、サスペンション

のストロークを大きく取り、ロールを容認しつつ前後のバランスを取りながら

曲がるイメージでセットアップされていた。後に”ひらり感”として肯定的に

語られることになるオリジナルロードスターの走りの個性だが、出来ることな

らロールを抑えてリアのスタビリティを適宜確保。


 その上でステアリングに十分な手応えを与えながらアクセルとのバランスで

ライントレース性を追及したい。この場合前後の荷重移動は重要で、タイミン

グよく前後の接地バランスをコントロールして自在にドリフトモーションを作

り込めることが何よりも肝要となる。


 私が試乗前にユーノスロードスターに期待した走りのイメージは右の通りだ

が、それが何とも軽かった。印象的だったのはスペシャルパッケージと名付け

られたパワーステアリング(PS)、パワーウィンドー(PW)、アルミホイールを

標準装備する仕様で、握りが極細のモモ製本革巻きステアリングホイール(SRS

エアバッグレス)にその繊細なハンドリングが集約されていた。


  オープン形状から限られたボディ剛性となる条件下で、クローズドボディの

クーペのようなセットアップは困難。動力性能もあれば良いというものではな

く、過剰なパワーを与えてしまうとバランスの取りようがなくなる。


  NA6CE型と呼ばれる初期モデルは、120馬力という当時の1.6リットルエンジ

ンとしても非力と括られるレベルにあり、当時すでにリッター100馬力を実現

していたホンダVTEC(160馬力)を渇望する声が数多く聞かれたが、オープンボ

ディで高出力を受け止める剛性を得ることは当時の日本メーカーの技術力では

困難を極めたはずである。


  NAロードスターから丁度10年後にデビューしたホンダS2000が250馬力を発

する2リットルエンジンをオープンボディに押し込んだ結果、とてつもないコ

ストを懸けた専用の高剛性ボディを用意せざるを得なくなり一代でディスコン

となった経緯を思い出す必要がある。


●継続こそがロードスター歴代主査の偉業


  マツダロードスターというのは、世界中にライトウェイトスポーツカーとい

う市場が存在することを証明したという点で貴重な存在といえるのだが、それ

以上に単純に大パワー/トルクに頼る走りのパフォーマンスとは違うところに

このクルマ本来の価値があることを今に伝えているという点で重要だ。


  初代NA6CE登場からわずか4年後の1993年に年々強化される排ガス規制への

対応のために排気量を1.6から1.8リットルに拡大すると発表。それを受けて私

はドライバー誌編集長からの依頼で『反対声明』なる記事を書いている。メー

カーの発表に正面切って反論を展開することは未だにタブーの一つとなってい

る観があるが、当時としても業界に小さくない波紋を呼ぶことになった。


  当時のマツダの技術力とリソースでは排気量アップ以外に規制対応の術がな

く、ほぼ打つ手は限られていた。コストを掛ければ可能だったに違いないが、

当時のマツダは国内5チャンネル制導入の失敗から多大な借金を抱えていたか

らなおさらだ。1993年の2年後にフォード傘下に入ることで命脈をつなぎ、2代

目NB型のローンチの際にはフォードからの経営陣と議論を闘わせたりもした。


  初代の途中から開発主査となり、NB、NCロードスターを取りまとめた貴島孝

雄氏とは率直な議論を交わした関係にある。多分に失礼もあったやも知れぬ

が、今でも良好な関係を保ち続けている。貴島氏の一見温厚に見えて目的達成

のためには果敢に攻めるキャラクターを知る者としては、NC開発で見せた反骨

の精神にロードスターというクルマの強さの一端を見る。


  NCの開発期間は企画段階からフォード統治下にあり、ロードスター単独での

開発はNGとされたという。ロータリーエンジン(RE)の復活という大儀が与えら

れたRX-8とプラットフォームを供用してコストダウンを図る。与えられたミッ

ションはLWSとしてのロードスターの根幹を揺るがす困難を秘めていた。


  結果的に巧みに共用化の縛りをすり抜けながらNCロードスターという独自の

境地を切り開くことに成功。排気量の2リットル化は、主力市場のアメリカの

要求を満たす結果であり、LWSの定形としての小排気量からの逸脱を余儀なく

されたが、結果としての走りはロードスターの精神を受け継ぐ出来ばえだっ

た。


  私は最後のCOTY選考委員委嘱となる2004-2005COTYの選考でNCロードスタ

ーにNA以来2度目の10ポイントを献上したが、困難な条件下でまとめ上げられ

たこのクルマがなければ現行のNDロードスターによる"原点回帰"はなかったと

理解している。継続こそがすべてであり、止めてしまったら歴史は途切れた。


●次ぎのNEロードスターには1.3リットルモデルを期待したい!!


  そして現行のNDロードスターである。このクルマの2014年9月4日舞浜のアン

フィシアター(とカリフォルニア州モントレー、スペインバルセロナを結んだ)

のワールドプレミアに至るプロセスについては以前紹介した。同年3月のジュ

ネーブショーで明らかになってからの1年余りはすでに歴史に属するかもしれ

ない。


  発売からすでに5年が経過し、時期NE型(?)が取り沙汰される頃合いとなりつ

つある。振り返ってみれば1.5リットルにエンジンがダウンサイジングされて、

1000kgを下回るモデルが存在するLWSの原点回帰が現実となった。


 依然として世界のプレミアムブランドでは大排気量高出力の超高速性能を競

う風潮に収束の気配はない。西欧近代の矛盾が噴出、一方で地球環境だのSD

Gsだのと危機感を煽りながら未だに500馬力、300km/h超の現実的でない非日

常的な高性能の価値観で優位に立とうとしている。


  本気で持続可能な開発目標を語ろうとするなら、いつまでも消費不可能な超

高性能というファンタジーに人々を誘うのではなく、より小さくエネルギー消

費は少ないがしかし満足度は300km/h超と変わらないという世界観にアプロー

チして、その実現に踏み出す時だろう。


  私はNDロードスターの1.5リットルSKYACTIV-Gエンジンの採用を高く評価し

ている。このダウンサイジングをともないながら、しかしクルマとしての魅力

は少しも落さないという発想こそが未来的だと考えているからだ。


  NDロードスターのワールドプレミアからローンチまでの過程で、議論が沸騰

した1.5リットルか2リットルかという話題があった。もちろん、これについて

も最大市場となるアメリカで取材している。アメリカ市場におけるマーケティ

ング/PRをマネージメントするK.Hiraishi氏をオレンジカウンティ・アーバイ

ン近郊のMNAO(MAZDA NORTH AMERICAN OPERATION)に訪ねて、取材を試

みている。


  私が2014年3月のジュネーブショーでNDの情報を掴み、翌月のNYIAS(ニュー

ヨーク国際自動車ショー)でのベアシャシー&パワートレインの公開と続いた時

点で主力ドライブトレインは1.5リットルと断定し、そのことが議論沸騰のき

っかけとなった。


  MC(マツダ広島本社)の意向としては、1.5リットルに一本化しオリジナ

ルのライトウェイトスポーツに原点回帰することでコンセプトの一貫性を期し

ていたが、主力市場にして成否に大きく関わる北米を仕切る立場のMNAOとし

ては1.5リットルのドライビングスタイルは到底受け入れられない。


  激論の結果北米向けには2リットルが与えられることになった。日本でも追

加モデルのRF(リトラクタブルファストバック)は2リットルエンジンが与えら

れることになり、これで当初から1.5との2エンジン体制が設定されていた印象

となったが、私の見るところ2リットルは完全に後付け。カリフォルニア現地

で初期型を試乗した際にK.ヒライシ氏と意見交換をして、率直に言ってセット

アップが出来ていないことを告げた。


  すると「急遽決まったことだったので装着タイヤが1セットしかなくてベス

トなチューニングができなかった」と明かされた。初期型のRFのエンジンが後

に追加されたアップデート版に比べて26psという別物といえる出来ばえとなっ

たことからも分かるように、初期の2リットルは間に合わせの急拵え。


  それでも2リットルにこだわったのは、アメリカ人のドライビングスタイル

は日本人のそれとは異なり、まずコーナーに飛び込んでから対応を考える。高

回転高出力志向よりも中速域で十分なトルクが得られることを好み、そのため

には1.5リットルでは「駄目なんです、アメリカでは!」ということだった。 


  多くの日本のロードスターファンは歴代ロードスターは"我々のためにある"

と信じて疑わないが、マツダのビジネスモデルが海外依存に転じて久しい。実

は日本の自動車産業はこの四半世紀で業容を大きく変貌させており、日本市場

だけでは到底利益が得られない構造となっている。


  諸悪の根源を辿れば、技術の高度化とインフラの整備が過去50年間で大きく

進化進歩しているにもかかわらず、行政官僚機構の無謬原則にともなう前例主

義の結果、変化に対するアップデートがまったく行なわれることなく、理不尽

といえるほどクルマの所有に関わる高コスト体質が定着して久しい。


  自動車メディアはここにフォーカスを当てるべきだろう。いつまでもドイツ

を始めとする西欧近代の右肩上がり思考を善とするのではなく、自らの環境に

誇りを持って、この37万平方キロメートルの国土を旅する中からクルマの新た

な価値観を構築すべきだろう。


  私は、現在のマツダロードスターの開発主査斉藤茂樹氏にはこのように伝え

ている。次期ロードスターには現行の1.5リットルよりも小さい排気量(1.3リ

ットルがいいなあ)で世界に通用する価値観の創造を試みたほうがいい。意図

するところは分かる人には分かるはずである。



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