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2020年6月1日月曜日

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           伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』 
             第382号2020.5.19配信分


●人間は忘れる動物。その事実を忘れないことが肝心だ

 去る4月7日に安倍内閣総理大臣によって発出された”緊急事態宣言”から
およそ1ヶ月半。すでに5月14日には東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県、大
阪府、京都府、兵庫県、北海道の8都道府県を除く39県で『宣言』が解除さ
れ、同21日にも残る自治体の解除か否かの判断が下ることになっている。

 季節は初夏から毎年恒例の”梅雨入り”を経て本格的な『日本の夏』に向か
いつつあり、気温と湿度がウィルスの勢力を弱めるとの期待から人々を恐怖に
陥れた感染”第一波”が遠のいたという気分が蔓延し始めた。100年前の”ス
ペイン風邪”パンデミック禍の経験則に学ぶなら、第二波は必ずやって来るは
ずで、それが真夏の最中にあり得るのか、涼しくなった秋頃になるのか。答え
はCOVID-19ウィルスに対する人々の心構えに拠るのかもしれない。

  緊急事態宣言から今日までの40日余りで、それまでと今後とでは人々の暮ら
しぶりは明確に異なるものになっている。今のところは1億2千数百万を擁する
日本の人口に劇的な変化は訪れてはいない。その意味では今まで通りの個々人
の生活は滞りなく続いている訳だが、この間に休業から廃業を余儀なくされた
り、職を失ったりして生活の糧を奪われた人々が数多く生み出されている。

  日本では緊急事態宣言に基づく自粛が基本となっているが、世界的にみれば
国境を閉じて居住地域に"Stay Home"を強いるロックダウンが徹底され、食料
の調達などの生存に関わる必要最低限の物資以外の需要は停滞し、結果として
供給する生産活動も休止を余儀なくされた。人々の移動は制限され、物資の輸
送も国際間はもちろん国内分も激減して、いわゆるモビリティがCOVID-19以
前の状態に戻ることは容易に見通せない。

  それが日本社会(だけでなく、グローバル化の時代にあっては世界全体がだ
が)が集団免疫を獲得するか、有効なワクチンが開発されるまでなのか。いず
れにしても2年近くを要することになるのが現実的な見方とされている。人は
容易に忘れ過ちを繰り返す生き物だといわれる。私の実感としては、1973年の
オイルショックの際に垣間見た”トイレットペーパー騒動”の教訓がまったく活
かされることなく2011年の3.11(東日本大震災)でも再現され、今般の新型
コロナウィルス禍でも店頭から品物を買い占める群衆がゾンビの如く蘇ってい
る。

 人間、未知のモノほど恐いものはない。お化けが恐いのは、それが何者か分
からないからで、闇夜の木陰にまとわりついた布切れだと分かれば「なぁん
だ」となる。COVID-19に人々が震撼するのは、SARSに似たウィルスでありなが
ら基本的には未知の存在であり、有効なワクチンのない感染症であることに由
来する。全国的な知名度の芸能人の死亡事例が身近な問題として恐怖を募らせ
たこともあり、世界的にみれば異例ともいえる低い死亡者であるにも関わらず
社会を身構えさせ続けている。

●50年のキャリアを有する現役ドライバーは果たして何人いるだろう?

 広く目を世界に転ずれば、最大の感染者と死者数を数えているアメリカを始
め、ドイツ・イタリア・スペイン・イギリス・フランスなどの欧州各国から発
生源とされる中国や広大なアジア諸国と北半球ではほとんど例外なく感染が拡
大し、これからウィルスが勢いを増す冬季に入る南半球がパンデミックの洗礼
を受けると予想されている。

 時代はグローバリズムの真っ只中にあり、世界はサプライチェーンや食料物
資の貿易などで一体化を強めている。北半球での感染拡大が南半球に移り、季
節が巡れば再びその反転減少が起きる。一度パンデミックに陥れば、事態の克
服には複数年を要する。人類の歴史には100年単位で感染症の大流行が繰り返
され、その都度社会が大きく変革したことが記録されている。

 ひとつ注意しなければならないのは、スペイン風邪の1920年頃の世界人口は
約18.6億人。日本のそれは5600万人だった。現在の世界人口は76.5億人を数え
てなお増加中であるいっぽうで、日本は2008年(1.28億人)をピークに減少に
転じて世界最速で少子高齢化社会を迎えようとしている。

 スペイン風邪は世界人口の4000~5000万人(一説には1億人)の命を奪い、
日本でも38万人の犠牲者を年を跨いだ複数波の感染で出したとされる。科学と
技術の進歩によって、現下のCOVID-19がスペイン風邪ほどの猛威を奮い悲惨
な結果を生むとは思えないが、感染症の歴史から言ってこのまま収束するとは
考えにくい。

  風薫る五月晴れがあったかと思えば梅雨の走りで肌寒い日もある。変化に富
んだ日々こそが日本ならではの風土というものだが、さて今の日本社会にそれ
を味わい楽しむ余裕があるだろうか。

  嫌でも明日はやって来て、未来は現実となりすぐさま過去になって行く。ど
うなるか分からない現実に翻弄され右往左往するのではなく、歴史に学んで在
りたいこれからの姿を考えて、今まで通りに安住しようとするあまり抵抗勢力
と化すのではなく、行動の中から答えを見出したいものである。

  そのためには、過去の検証は欠かせない。言うまでもなく私は自動車人であ
り、クルマがある暮らしを前提に考える者である。自動車ライター歴は43年目
に突入し、運転免許歴は50年を数える。現役で免許保有が半世紀を数えるドラ
イバーが果して日本に何人いるだろうか?

 私は軽自動車免許が存在した1968年に資格年齢(16歳)に達していた最後の
世代だが、それを含めても50年は相当ハードルが高い。1970年当時の総人口約
1億人に対して、二輪を含む免許保有者数は26,449,229人(内女性は4,765,63
0人)。総人口に占める割合は4人に1人の割合でしかなく、自動車保有台数
は乗用(約727万台)・貨物(約808万台)・乗合/特殊(約48万台)の4輪車
に2輪車(約70万台)を加えた約1650万台とこれも現在の5分の1のオーダー
である。

●平成のデフレ環境で育った価値観にクリエイティビティはあるか?

 私が18歳で運転免許証を取得した1970年は、戦後復興期を経た高度経済成長
のピークの年だったが、実は日本という国にとっては国際的に見てまだ発展途
上段階。この年からの約40年間でさらに人口はさらに2500万人増加し、それに
伴う内需拡大によって成長軌道に乗ってきた。

 オイルショック(1973年)に伴う1970年代の停滞から、同時に強化された厳
しい排ガス規制の克服を経て、まず拡大した国内市場でのシェア争いで切磋琢
磨。資源環境問題の国際的なニーズの高まりで競争力を手にした日本(自動車
産業)は、主要貿易相手国のアメリカとの間で(現在の中国が直面している)
経済戦争を展開。当時から輸出の自主規制で対応するもアメリカの切り札円高
/ドル安を容認するG5(先進5ヶ国蔵相中央銀行総裁会議)の『プラザ合
意』を呑まされ、急速な価値高騰によって行き場(投資先)を見失った”円”
がバブル経済を招来した。

 そこまでは悪くはなかったが、不動産投機に嫉妬する庶民感情に突き動かさ
れた当局がアクセルとブレーキを同時に掛ける総量規制によるハードランディ
ングを強行。ちょうど昭和天皇の崩御が重なる自粛ムードと併せて一気に不景
気風が吹き荒れて、結果的に『失われた30年』とも称される平成のデフレ時代
に明け暮れた。

 プラザ合意から10年後の1995年は、阪神淡路大震災とオウム地下鉄サリン事
件で明け、寅さんの『男はつらいよ!』が最終第48作「寅次郎紅の花」が渥美
清の遺作となり終焉を迎えたことで記憶されるが、日本の自動車産業は日米自
動車協議が妥結を受けて輸出主導から米国を手始めとする海外現地生産に舵を
切ることで活路を見出す道を進む決断を下す。

 これによって本格的なグローバル化に突き進んだと評価することも出来る
が、いっぽうで日本国内で磨き上げた『規格大量生産システム』がオフショア
の波に乗っただけとも言える。国内における昭和の成功体験を、従来の延長線
上に置いて国外展開を図っただけ。アメリカや欧州の自動車先進国に見られる
ような社会システムやインフラや法整備が整った環境下ではトヨタのお家芸で
もある『カイゼン』や原価低減がライバルとなる競合他社に対するアドバンテ
ージになり得る。

 すでにバブルの入口となる1980年代後半には、日本国内の交通法規に始まる
道路環境に対して自動車産業の技術力は過剰領域に達しており、比較的許容範
囲の大きい先進国を中心とする国際市場に活路を見出すタイミングに差し掛か
っていた。さらに本質論を深めて行くと、日本国内のクルマを取り巻く社会的
あるいは法的な環境を国際標準に照らしてアップデートする必要があったのだ
が、戦後の経済復興に邁進しその成功体験に自縄自縛となった行政官僚機構
が”国際化”を阻む『抵抗勢力』として立ちふさがった。

  自国内での”Freedom of Mobility"を頑として認めようとしない規制だらけ
の状況は、何もしないことが評価される前例主義と成功よりも失敗を殊更恐れ
る無謬性に基づく無責任体質に象徴される官僚体質の産物と断じて良いだろう。

●今ある状況は、長い歴史の果てにあるもの

  以上の視点から問い直すべき未来に向けて早急に成すべきテーマは概ね二つ
に分けられると思う。ひとつは、日本車の走りのパフォーマンスに対する価値
観の再構築だ。最大の問題点は、自動車メディア/ジャーナリストの歴史観の
欠如にあると思っている。

 当然のことながら人は経験の中に生きている。原体験として事実をリアルタ
イムで生きていなくても学ぶことはできる。その上で追体験の形で理解を深め
ることは不可能ではないと思う。問題は、伝聞を鵜呑みにして裏取りをするこ
となく信じ込み吹聴することだろう。

 クルマは技術の上に立っている。原初の馬なし馬車の段階から、脈々と続い
た改良と新たな技術の追加によって、電気や電子制御なしでは動かない複雑な
メカトロニクスの塊となって今があるわけだが、その目的は”走る””曲が
る””止まる”という運動をひとまとめにした移動・モビリティにある。より
速く、より安全に、より快適に、そして経済的に……というスローガンは、ク
ルマが誕生して以来連綿と追及されて来た。

 時間軸で言えば、C.ベンツとG.ダイムラーが1886年に発明した2タイプ
の自動車誕生から134年だが、クルマはもとよりクルマだけでは機能を果たし
得なかった。少なくとも19世紀から20世紀にかけてはそうで、自動運転やその
前提となるADAS(Advanced Driver-Assistance System:先進運転支援シス
テム)が実用化され無人運転が現実味を帯びることになったのは21世紀に入っ
て情報技術ITが実装可能になってからのことである。

 元々の基本はFreedom of Mobilityという自動車の最大価値である移動の自
由があり、人間にとって身も蓋もなく付いて回る身体を自らの意志に基づいて
運ぶことから手段としてのモビリティツールとしてクルマが考案された。重要
なのはエネルギー源で、19世紀中頃に石油の商業採掘が始まり、産業としての
石油が確立するのにともなって大規模油田の開発と発見が促進されて、およそ
100年の時間軸の中で14億台に迫る世界の自動車保有台数という普及が現実と
なった。

  クルマの普及は都市とその郊外に広がる農業の関係を確立し、自動車化=モ
ータリゼーションの名の下に国のあり方も変えて行った。その元祖は19世紀の
商業油田の開発(ペンシルベニア州タイタスビルのドレーク油田)に始まり、テ
キサスの大油田群の発見に伴う石油産業の確立とその必然として生産される揮
発油(ガソリン)を廃棄物から燃料とする自動車がアメリカ合衆国という国を形
作る原動力となった。

 100年近く前の1927年に累計1500万台を数えるフォードモデルT(1908年
~)が量産され、『農民を泥濘から救え』のスローガンの下でUSハイウェイ
が建設され、欧州の古都とは異なる都市構造と広大な国土に展開された世界最
大の農業国家としての機能が古代から長い歴史を有する国々とは違う”ニュー
ワールド”の趣を際立たせた。

●フランスの山道で老婆にぶち抜かれて愕然とした

  注目すべきは、モータリゼーションの母国アメリカは単にハードとしてのク
ルマの機能性能に期待しなかった点にある。広大な国土が背景になっているの
は間違いないが、都市も郊外を結びつける道路などのインフラもクルマを機能
的に走らせる法整備やドライバーの習熟もほぼ一体となって形作られ、それぞ
れが有機的に結びついて世界最大の自動車消費地にして多様な価値観を受け入
れるクルマ好きの国として今がある。

 もちろん50ある州はそれぞれに個性があり、日本人がアメリカと認識するカ
リフォルニアやニューヨーク・マンハッタンばかりがUSAではない。ボスト
ンのマサチューセッツ州とダラスのテキサス州ではオランダとスペインほどの
違いはあるだろう。

 私のアメリカ初体験は1980年代前半のことだが、先んじて踏み入れたヨーロ
ッパの国々(フランス・スイス・イギリス・ドイツ・イタリアなど)と違って
茫洋として掴み所がない雰囲気になかなか馴染めなかった。EU統合以前の欧
州は、米国の州より小さな国々が独立して個性を発揮することから分かりやす
く思えた。

 初めての渡航先となったフランスが海外ドライブの初体験だったが、郊外の
ワインディング路で年配の女性(というよりはっきりと老婆)にコーナーでぶ
ち抜かれた衝撃は忘れられない。これでも富士SWのレース現役を退いてまだ
2年の28歳の砌(みぎり)である。ショックもショック、大ショックだった。

 あれからもう40年になるわけだが、当時の欧州車が現在のようなパワーとス
ピードに依存するクルマだらけだったかというとまったくそうではない。私が
1980年の初渡航の際に2週間で約5000kmを走破したのはレンタカーのルノー
5。エンジン/ミッションを縦置きに前後反転して搭載したモデルで、最安値
のレンタカーゆえラジオの装備もなかった。

 今なら当たり前のNAVIもなく、街中で手に入れた地図が頼り。これでスイス
で5泊ほどした後ドーバーをフェリーで渡ってロンドンに入り、家内の親戚と
いうケーキ職人(奥さんはイギリス人)の家に何泊かしてシルバーストーンF
2(ホンダの復帰第2戦)をカバー。取って返してフランスルマン24時間を取
材して、無事帰朝を果たしている。

 この時確信した”ドライビングスキルは語学力を補って余りある”は後進に
は是非伝えたい金言となっている。富士フレッシュマンレースに始まる散財の
歴史は『人生に無駄はない』を実感させた。この初渡航の経験が、後に巡って
きたチャンスに前向きな姿勢を可能にし”運は前髪でつかめ”を実践させた。
出来る出来ないは二の次でいい。とにかくやってみて、失敗したらとりあえず
凹んで、そこから学べば済むだけの話なのである。

●1982年の3代目アウディ100は2200cc105馬力で200km/h巡航を可能にした

 欧州はクルマの本場であるという。誰が言ったか知らないが、通り相場のよ
うに常套句として用いられる言葉であるようだ。その代表格としてドイツ車が
あるわけだが、私が知る1970~1980年代のドイツ車は今ほどパワー志向ではな
く、非常に合理的な思想性を感じさせる存在が多かった。もちろん当時の国際
基準に照らせば高度な技術力とクラフトマンシップを感じさせる作りだった
が、性能的に驚く存在は少なかった。

 一世を風靡した初代ゴルフは、ジウジアーロデザインの欧州合理主義を具現
化した軽量コンパクトなFF2ボックス。実はデビュー年次で言えばホンダの
初代SB1型シビック(1972年)に遅れること2年であり、シビックがアメリ
カでブレイクしたのとは対照的にアメリカ現地生産でビートルに代わる存在と
して本格進出を狙うも、製造品質の低さから失敗に終わり後々まで響く禍根を
残している。

 2015年に発覚したVWのディーゼル排ガス不正は、捲土重来を期してトヨタ
のハイブリッドに対抗するエコパワーとしてTDi(コモンレールディーゼ
ル)を普及させようという悲願が根底にあった。2008年、2009年のカリフォル
ニア・グリーンカーオブザイヤー(LA国際オートショー開催時に発表)を連
覇したからくりが明らかになるのに数年を要した勘定だが、VWにとって米国
は喉から手が出るほど欲しい”ドル箱市場”だったということである。

 話を1980年前後に戻すと、当時のドイツ車は他の欧州車やダウンサイジング
に苦しむ米国や発展途上段階の日本車に比べると相対的には優れた存在だった
が、内実は質実剛健を地で行く。

 先述の初代VWゴルフもそうだが、印象的だったのは1982年デビューの3代
目アウディ100。全長×全幅×全高×ホイールベース=4805×1815×1420×269
0mmというスケールをCd値0.30という空力ボディに磨き上げ、わずか2.2リッ
トルの小排気量(105馬力)で200km/hの巡航を可能にした。

  現在では速度無制限のアウトバーン育ちがドイツ車の高性能を物語る枕詞の
ようになっているが、実はジャーマンスリーがハイテク/ハイパフォーマンス
に手を染めるのはずっと後になってから。

 私は、自分なりの評価基準となる”メートル原器”を求めてメルセデスベン
ツ190E(W201)を購入している。時に34歳。折悪しく前年12月に取材中の
瀕死の重傷を負ってはいたが、信念に基づいて当時ヤナセ仕切りで500万円の
プライスタグのついた5速MT右ハンドルのカタログモデルを手にした。2リ
ットル直4SOHCは115馬力に留まったが、Cd値0.33と空力性能を磨いた
5ナンバーサイズのコンパクトボディは190km/h近い最高速を可能にし、乗り
味はSクラスから乗り換えてもちゃんとメルセデスを感じさせる存在感を秘め
ていた。

 W201には後にDTM(ドイツツーリングカー選手権)を席巻する2.3-16V
というDOHCエンジン搭載車も加わるが、上級のEクラス(W124)も当初
はSOHCであり、Sクラスも同断。性能が得られるなら、メカニカルな構造
はシンプルが良いという哲学が感じ取れる仕立てだった。

●日本の法定最高速度は100km/hでしょう? このベクトラの性能は十分です!

 取材を通じて印象に残ったのは、当時GM傘下ということで同グループの日
本メーカーいすゞがオペルのブランニュー『ベクトラ』を導入することになっ
た際(1989年)の話である。2リットルDOHCエンジン搭載が噂に上り、そ
れは是非日本市場に導入した方がいいと伝えると「我々のSOHCエンジンは
アウトバーンで実績があり十分な性能を得ている。日本の高速道路は100km/h
の法定速度が施行されているから不足なんて考えられない」そんなコメントが
飛び出した。

  その通りだが、日本では高性能はイメージであり実際に消化できない分余計
にその事実が価値を生む。理屈に合わない論理が理解されるはずもなく、一笑
に付されてしまった苦い想い出がある。

  実は、ドイツは性能が正味で消費される分、合理性の伴わない過剰な装備や
性能に対しては冷徹な面があった。環境性能についても超高速で走れるアウト
バーンがあることで高速性能に対するほどには消費者の感度が高くなく、1985
年頃までキャタライザー(触媒)なしのゴルフGTIが有鉛ガソリンとともに併売
されていたと記憶する。また東西冷戦下ということで電子制御化にも及び腰。
電磁パルスによって立ち往生することを嫌った結果だと聞いた。まだ東西ドイ
ツが分断されていた時代の話である。

  この時代を知っているかどうかでドイツ車を評価する価値観に差があるよう
だ。実は、世界のエンジンパワー競争を仕掛けたのは日本メーカーだった。

  意図してそうしたかどうかはともかく、ポストオイルショック/排ガス規制
の1980年代に激化した国内シェア争いで何でもありのパワーゲームが進行。そ
の究極がヴィンテージイヤーとして振り返られる1989年に登場した280馬力の
自主規制高性能車群である。

 なかでも象徴的な存在として位置づけられるR32型スカイラインGT-Rは、
1985年に国内ツーリングカー選手権として始まったグループAの車両規定を精
査して、それに勝つべく開発された。2600ccの排気量も、収まるタイヤサイズ
から割り出されたアテーサE-TSという4WDシステムも、その一点に集中して開
発された。最大の問題点は、商品企画が国内限定だったこと。

 直6ツインターボのFRベースの4WDということで左ハンドルは当初から想定
されておらず、R33、34と併せても7万台規模に留まったそう生産台数を考え
ると減価償却は難しい。母体となるスカイラインシリーズ3代が好調であった
ならばまだしも、GT-Rの名声ほどにはビジネス的成功は認められなかった。

 要するに、エンジニアの暴走であり、経営マネージメントが機能しなかった
と結論づけられる。その結果としてのNRP(日産リバイバルプラン)に至る
破綻劇立ったわけである。この辺りを冷静に分析することなく、倒産寸前に至
ってもなお称賛を続けた自動車ジャーナリズムの”お花畑”状況を指摘する声
は稀だ。

●R32GT-Rがポルシェの目を覚まし、NSXがフェラーリを変えた

 この日本のヴィンテージイヤーはバブルの狂騒の最中に訪れた。トヨタのセ
ルシオ、日産のインフィニティQ45、フェアレディ300ZX、スカイラインG
T-Rに続いて、ホンダ(アキュラ)NSX、ユーノスコスモ、三菱GTO、
少し遅れてトヨタスープラ80とまさに百花繚乱の様相だが、これらが欧米のプ
レミアムブランドを慌てさせた。
         
 スカイラインR32GT-Rは、ほぼ純然たるドメスティックブランドと位置
づけられていたが、開発の拠点にドイツのニュルブルクリンクを置き、仮想敵
としてポルシェ911を掲げた。かつての式場ポルシェカレラ904vsスカイライン
S54の伝説を意識しなかったわけではないはずだが、とばっちりを受けたのは
ポルシェである。当時の911カレラ(964)は空冷3.6リットルで250馬力、ター
ボで320馬力というパワースペック。自主規制の280馬力はターボにとっては有
名無実であり、そのスピードがポルシェのプライドを傷つけたとしても不思議
はない。

 翌1990年デビューのNSXは、基本的にアメリカのプレミアムブランド
ACURAのフラッグシップスポーツとして企画されたというのが本筋。これ
が当時のフェラーリにとって最大かつ最重要市場だったアメリカで旋風を
巻き起こす。当時の主力348は300馬力。動力性能ではほぼ互角のレベルに
あり、ユーティティスペースやタウンユースでの扱い勝手においてフェラー
リの意識改革をもたらすインパクトを秘めていた。

  この独伊のブランドスポーツの両巨頭の尻に火をつけ、それまで眠っていた
ような欧州のプレミアムブランドスポーツを覚醒させたという点において、バ
ブル期の日本のパワーゲームが生んだムーブメントは意味深い。それまで格下
の新興勢力と見下していた日本メーカーが具体的な脅威として立ち現れた。国
際舞台で従来の既得権益に浴して安閑としていた伝統的な老舗ブランドに、ま
だ市場が残っていることを知らしめたということでも、日本車のグローバル化
を考えるポイントとして考えられる。

 そして、ふたつめとしては、日本の走行環境の抜本的な見直しを挙げないわ
けには行かない。

  日本の改正道路交通法が、1962年以来ほとんど手つかずのまま法定最高速度
を維持していることはすでに何度もこのメルマガで紹介している。実証実験と
称して第二東名や第二名神などといった新たな規格で設計されたインフラで試
されているが、法改正をともなう抜本的な変更が行なわれる気遣いはない。

  すでに過去50年間以上に渡る自動車産業の切磋琢磨の結果、日本車は超高速
のプレミアムスポーツカテゴリーに関しても世界の有名ブランドと肩を並べる
実力を身に付けている。

●危機は好機になり得る。日本の国土は決して狭くはなく、魅力的な変化に富

  主力といえる量産モデルについてもそうで、例えばマツダの現行ロードスタ
ーなどはわずか1.5リットルの排気量ながら200km/hに迫る超高速巡航をフルオ
ーブンで楽しめる域に達している。日産GT-RやホンダNSX(2代目)、トヨタ
LC500/500hなどといった500馬力、300km/h超級のハイパフォーマンススポー
ツを輩出する技術レベルに達しているにもかかわらず、道交法が定める高速道路
の法定最高速度は半世紀以上前の発展途上段階に据え置かれている。

  日本は、かつて高知県在住の警察官が創作したとされる『狭い日本、そんな
に急いでどこへ行く』と言うほどには狭くも小さくもなく、北海道の最北端か
ら九州最南端まで目を三角にして走ったとしても2日で走破できるスケールと
は違う。津軽海峡は自動車専用道がなく、ここをどう渡るかでコストと時間が
大きく変る。

 何よりも日本の自然環境は東西南北にわたって変化する多様性に富み、北海
道、東北、甲信越、関東、東海、中部、近畿、中国、四国、九州と4つのメイ
ンランドだけでも山紫水明/風光明媚のバリエーションに事欠かない。

 ランダムアクセスこそが自動車のモビリティにとって最大の利点であり、他
の公共機関とは異なる自在性と自由度に期待が寄せられる。今般のCOVID-19
パンデミック禍で露顕した『三密』や『ソーシャルディスタンス』という視点
からも、パーソナルモビリティを基本とする自動車の機能は再認識するに値す
る魅力に富んでいる。

  すでに少子高齢化がメガトレンドとして定着しつつあり、10年以上前から人
口減少サイクルに転じたことは誰もが知っている。現状の感染拡大は転機であ
ることを明確にしたという点で重要で、今まで通りのままで済むことはないと
いう厳然たる事実を共有して、未来をどのように形作るかを議論する必要性に
迫られている。

 果たして、首都圏を中心とする東京一極集中という国土のあり方でいいのだ
ろうか。大阪や名古屋や福岡や仙台、札幌といった大都市圏に集約して効率を
追及することに疑問を抱く必要がありそうだ。リモートワークの可能性が必要
に迫られた結果として現実化したように、中央集権的に集めて効率を図るより
も、地方分散型のネットワーク型で過疎と過密の偏在を解消することの意味が
見えてきた。

 人口減少の流れの定着にともない大量輸送という右肩上がりに人口が増え続
けることを前提にした公共交通機関がいつまでも採算が合うとは限らない。こ
こ数年で盛り上がったCASEやシェアエコノミーも、誰の管理に従うかと
か、ハッキングのリスクをどう取るかを考えるとき果して現実的かという見方
も出来るようになっている。

 今回のパンデミック禍は、今まで通りを前提にした平時の考え方が変化を求
められる時代には適応できず、大胆な発想の転換が求められることを示唆して
いる。その多くは未来を長く生きる若い世代の判断に委ねるのが正しく、旧世
代は「自動車の魅力は実はこういう点にあるんだよ」といった本質論を語り、
選択は彼らに任せるのが正解であるような気がしている。

 変るべきときに変れないと、後悔する時が必ずやって来る。それをこれまで
何度経験したことか。逃げきりを図る老い先短い既得権益層を見逃して、未来
が痩せ細ることだけは避けなければ、と思う。              
                                   
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