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2020年6月13日土曜日

 まぐまぐ!有料メルマガ『クルマの心』第384号2020年6月2日配信分を期間限定で掲載する特集。ご一読頂き、よろしかったら御講読お願いします。https://www.mag2.com/m/0001538851



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           伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』 
             第384号2020.6.2配信分


●アフターコロナに向けた3つの提言

 一寸先は闇。人の世は、斯くも不確実で思わぬ事態が招来するものだと改め
て思い知らされている。昨年11月に中国湖北省武漢市で感染が確認された新型
コロナウィルスは、年が明けて2020年2月には旧暦で祝う中国の春節(旧正月)
の長期休暇に乗じて越境する人々と共に世界中に感染が拡大。COVID-19と命
名されてから瞬く間にパンデミック(世界的流行)と化して大混乱に陥った。そ
の経緯の真っ只中に、今我々は漂流気分で立ち会っている。

  77億人を超えた『宇宙船地球号』乗員の日々の営みは貧富濃淡の違いはとも
かく、絶え間なく続いている。BC(Before Corona)とAC(After Corona)
と分けたところで、目に見える日常の変化は何もないのだが、感染拡大阻止の
ために講じられた経済面での諸活動の停止はAC=BCとはならない様変わり
を予感させる。

 この半年余りの間に失われた需要が即座に回復するとは考えにくい。収入を
閉ざされた消費者が再び職を得て以前と同じ活力で消費経済を回して行く保証
はあるだろうか。すでに多くの物財を手に入れた富裕層が、新たに経済を牽引
する消費の中心となる可能性はどうだろう。

 文字通り100年に一度となる世紀の一大事。世界が呆然と立ちすくむ混乱を
契機に「躊躇することなく変化に踏み出せたら」と思うのだが、人は基本的に
保守的な生き物であるようだ。例えば、4月に年度替わりを設定して新学期と
するのは、G20でも日本とインドだけだという。今年はパンデミックの影響で
3月末の卒業式も4月初旬の入学式も行なわれることなく、新学期も延期のま
ま6月を迎えている。

 長期となる夏休み入り前に学期終了や卒業のタイミングを設定して、休み明
けの9月に新学期を始める。北半球で多数派となっている世界基準への転換な
どは、熟慮や細部の調整に万全を期そうとすれば”出来ない理由の山”を築く
より遥かに有意義なものになる。素人の先走りとの批判に晒されるのを承知で
敢えて言えば、変えてから考えるのも一手だろう。

 戦後75年間小手先の微調整に終始して抜本的な改革を怠ったことが、グロー
バル化によって世界が身近になった時代に『我流にこだわる』アップデートが
できない日本の現実として浮かび上がっている観がある。

 まず変ることから始める。新しい時代を築くということは、必ず訪れる未知
なる難題との遭遇を厭わず、立ち向かって解決を試みる柔軟性が欠かせない。
そのためには若さは絶対必要で、保守性に凝り固まった高齢者は活力溢れる若
者をサポートする度量が求められる。時代を変えるのは常に未来を生きる世代
でしかない。

 今ある制度や仕組み、その元になっている法制は敗戦からの復興を目的とし
た昭和の高度経済成長期あたりまでの時代を想定していたもの。1970年をピー
クとすればすでに50年。半世紀という短くない時の流れが過ぎている。そこか
らおよそ20年でバブルの崩壊と共に平成の30年にわたるデフレ期に突入した。

”失われた30年”は、昭和の成功体験が忘れられず微調整で『夢よもう一度』
とした旧世代による老害の結果。昭和の現実を知らない若い世代が唯々諾々と
従って劣化コピーに満足してしまったことが、変るべき時に変れなかった最大
の理由ではないだろうか? 昭和の実態を再検証して、変革することなく単純
に右肩上がりの成長を追い求めた『平成の誤り』を知る必要がある。

 そして、ただ反省するだけでなく、未来を生きる世代が自ら選ぶ”これから
の時代”を具体的な例を挙げて問いたいところ。すでに日本の人口は2008年を
ピークに減少サイクルに入り、このままでは二度と増加する可能性がなくなっ
たと言われている。

 ほんの10年前までの右肩上がりの成長ベクトルは、少子高齢化のトレンドと
ともに反転し、人類が初めて経験するマイナス成長に踏み込んでいる。私ら世
代は成り行きを眺める傍観者に甘んじることになりそうだが、できることなら
当事者として生涯現役を貫きたいものだと切に願っている。

●サバンナRX-7のトリッキーなハンドリング(US→OS)の衝撃!

 日本が変ることができた最大のチャンスは昭和から平成に元号が変るバブル
期に訪れた。後知恵で言うのではなく、私は当時『今がチャンス』だと浮かれ
る世相を醒めた目で眺めていた。

 時代の分水嶺だった1985年末。瀕死の重傷の病床で藁をもつかむ思いで読ん
だ『知価革命』(堺屋太一著)。1987年ベスモ(Best Mortoring)キャスター
抜擢とその失敗を経て、バブルの狂騒でも踊らなかった。浮沈の激しい境遇を
生きたからこそで、スカイラインGT-R(R32型)を絶賛から全否定へと突
っ走れたのも”皆と一緒”で安心するメンタリティとは距離を置けたから。

 重要なポイントは私が育った時代にある。高度経済成長の頂点(1970年)に
自動車人の仲間入りをし、当時の自動車が背負っていた負の遺産(公害や交通
事故死の増大)に心痛める一方で、スターレーサーに感化されてモーターレー
シングの扉を開くアンビバレンスに揺れていた。経済的負担は覚悟を遥かに上
回り、運良く知り合えた編集者の誘いにホイホイ乗って42年のフリーランス人
生である。

 1970年代の自動車産業をレースの現場で知り、オイルショックと排ガス規制
を克服したタイミングで自動車メディア界入り。時代の荒波に揉まれながら、
肌でクルマの本質と向き合えたことが私の何よりの財産だと思っている。

 1978年3月末に発表されたサバンナRX-7(SA22C)が現れるまで、日本
車は深い闇の中にいた。当時ハイエンドだった2000ccクラスで筑波サーキット
を1分20秒を切って走れるクルマはなく、”セブン”で壁を破った時の高揚感
は忘れられない。

  1分19秒37。今でも諳(そらん)じることが出来るラップタイムは、現在な
ら軽自動車でも捻り出せる数字だが、グロス値130馬力(現在の指標なら120馬
力を下回るだろう)に185/70HR13という"小径タイヤ"ながら、1000kgを下回
る軽量仕立て。当時はスーパーカーブームに乗って時代の寵児として扱われた
が、内実は後のユーノス・ロードスター(初代NA型)とも相通じるライトウェイ
トスポーツ然としたものだった。

  クルマの性能は常にその時代ごとのヒエラルキーによって判断される相対的
なもの。たったのグロス130馬力でも当時の2リットル直6SOHCにこれを上回
るものがなく、ゼロヨン(0→400m加速)16秒台は当時並ぶもののない"駿足"
として憧れの対象となった。

●個性的なエンジニアブランドが日本車のFF化をリードした

  1978年は私のフリーランスライターデビュー年だが、このSA22Cサバンナ
RX-7だけでなくKP61スターレット(FR2ボックス)や18R-GEU型DOHCエンジン
搭載のセリカなど53年排ガス規制適合モデルが相次いで登場している。

 翌1979年には国産初のターボ(L20ET)がセドリック/グロリアに初搭載。さら
に1981年2月には2800ccの5M-GEU型DOHC(170馬力)を搭載するソアラがデ
ビュー。5ナンバーが常識の国産車に3ナンバー市場が有望な存在として瞬く
間に認知されて行った。

 1980年代最初のトピックとしては、1980年6月登場のFFファミリアと空前
のヒットがある。日本の小型車のFF化が定まった記念碑的存在だが、この欧州
テイストの浸透がトヨタの横置きFF車モデルのスタートラインとなる2代目カ
ムリ(1982年)から翌年のカローラのFF化へとつながる。

 なお、コンパクトクラス小型車のFF化は1970年代のトレンドとして予見さ
れていたが、トヨタと日産の量産大手2社はオイルショックと排ガス規制に忙
殺され、本格導入は1980年代にずれ込んだ。例外としては1966年(モータリゼ
ーション元年)のスバルff1、1970年の日産チェリー(旧プリンスからの流れ)、
1972年のホンダシビック、1977年の三菱ミラージュなどがある。日本車の多様
化の萌芽はこの草創期にも表れているが、技術が花開くのは永遠の成長が信じ
られた1980年代。人口も経済も右肩上がりの成長過程にあった昭和の末期のこ
とである。

  排ガス規制を克服し小型車FF化の目途が立つと、拡大する国内市場を舞台に
激しいシェア競争が繰り広げられることになる。規制クリアとFF化による横並
びが定まると、差別化のためのパワーゲームが折からの電子制御技術をともな
うハイテク化とともに沸騰する。DOHC化に続くそのマルチバルブ化、ターボ
との争いからDOHCターボの合体、FF化の先にある高出力/高トルク対応の4
WD化の流れ……。

 技術のトレンドはドライブトレインからシャシー/ボディを統合的に制御す
るメカトロニクス化へと向かったが、そのすべての前提になった重要なパーツ
としてタイヤの存在を抜きに語ることは出来ないだろう。

●今から50年前の日本の道路は凸凹。バイアスタイヤが主流だった訳

 その萌芽は、やはり波瀾の1970年代にあった。オイルショックが資源の有限
性という事実を広く一般に知らしめ、省資源/省エネが技術開発の最優先課題
として急浮上した。最大の変化が訪れたのがタイヤ技術においてだった。

 タイヤの機能性能は、走る・曲がる・止まるというダイナミクスの基本とと
もに車体を支え、同時に乗り心地を快適に保つことにある。クルマが単にクル
マというハードだけで語れないのは言うまでもない。操る人との関係や、実際
にクルマが走る道路環境がセットでクルマの走りパフォーマンスと評価される。

 オイルショック、いわゆる1973年の第一次石油危機以前というと、日本車の
タイヤの主流は内部構造が現在とは異なるバイアスタイヤだった。それは当時
の日本の道路状況が影響した。舗装率は乗り心地が最優先課題となるほど低か
ったし、当時の輸入車の主流でありトレンドに影響を与えたアメリカ車が採用
していたベルテッドバイアス構造に倣うなど、省エネ発想とは距離のあるアメ
リカンテイストが土台にあったことを理解する必要がある。

 オイルショックによる資源有限の認識と省エネ発想から転がり抵抗が小さく
燃費性能に優れるラジアル構造のタイヤが注目されるようになる。道路整備の
進捗(舗装率の向上)と高速道路を始めとするインフラの高速化が、走りのパ
フォーマンスに対する要求を高め、ソフトな乗り心地からフラットで安心感の
ある走りへと評価の視点が時代とともにアップデートされて行った。

 余談だが、モーターレーシング界では伝統的なバイアス構造のスリックタイ
ヤが長く優位に立っていた。1970年代後半になると、市販タイヤの世界でのラ
ジアル化の波が訪れ、そのトレンドとともにラジアル構造のレーシングスリッ
クへの移行が技術的課題として浮上した。パイオニアはミシュランだったと記
憶するが、日本ではブリヂストンがチャレンジャーとなった。

 当時の日本のトップフォーミュラF2や太平洋地域リージョナルフォーミュ
ラを目指したFP(フォーミュラパシフィック=国産1.6リットルエンジン)
でラジアル化が進んだが、従来のバイアス構造のドライビングスタイルに慣れ
親しんだ有力ドライバーの中には”強力なコーナリングパワー”を利して一気
にステアして向きを変える特性を嫌い、その頃はまだコンサバなバイアス路線
に留まっていたダンロップとの契約を結びラディカルなブリヂストンと縁を切
る者も現れた。

 当初は五分五分の闘いが演じられたが、次第にラジアル構造が革新的な技術
を発掘しやがてデファクトスタンダードを手に入れる。今五感に忠実だからと
バイアス構造のレーシングタイヤを求める者はなくなった。相手が居てそれに
勝つことが目的なモーターレーシングで評価されるのはフィーリングではなく
結果として勝てるパフォーマンスそのもの。ここは重要な視点で、現在のクル
マの評価が陥っているのはまさに同じなのである。

●タイヤ技術の進歩が今に続くパワー競争を可能にした

 1980年代の初頭。私は出来ることは何でもやるの精神からチューニングカー
の最高速トライアルに精を出していた時期がある。当時まだ筑波研究学園都市
にあったJARI(日本自動車研究所)の通称谷田部テストコースの5.5km高速周回
路が舞台。1983年には雨宮REターボ(SA22C・12A)で当時国産最速の288km/h
を記録しているが、たしか同年のことだった。

  当時有力チューナーの一角を占めていた『トラスト』のセリカXX2.8リット
ル(5M-GEU)のツインターボモデルをテストした時のこと。装着タイヤはピレリ
P7。サイズは忘れてしまったが、当時はVR規格(最高速度240km/h)が市販タイ
ヤの上限で、240km/h以上のZR規格は存在しなかった(と思う)。

  その後40年近くが過ぎて300km/h超のY規格までが登場し、現在の超高性能車
群の足元を確かなものにしているが、多くの人々が速度レンジに見合ったタイ
ヤがないといくらパワーを追及しても求めるスピードは得られないことを知る
のはずっと後。ひと頃ブームを極めたF1(フォーミュラ1)でタイヤ戦争が注目
を集めて、そこにキーテクノロジーが潜んでいることを理解した向きも多いと
思うが、私の場合はもっと過激に実践的だった。

  雨宮REのSA22Cターボのエピソードもこのメルマガで何度か語っている。そ
う油温計の針がタコメーターみたいにビュ~ンと跳ね上がる熱い話だが、トラ
ストセリカXXの経験は痺れた。

  私は経験則として最高速計測(当時は光電管やテーピングスイッチを一定間
隔で接地して平均タイムから速度を割り出していた)地点を通過した瞬間アク
セルをオフにして様子を見ることをルーティーンとしていた。速度が落ちたと
ころで軽くブレーキを踏んで反応を確かめる。用心深くしないと何が起きるか
分からないのが当時のチューニングカーの基本。

  この時は、軽くブレーキに足を乗せると"グラッ"。異変を察知して第一バン
クへのアプローチは身構えながらコース中央を進むことにした。

  と、バスンッ!!ときた瞬間マシンは半回転して後向きにバンクを駆け上がっ
て行く。寸でのところでガードレールヒットは免れたが、振り返るとブラック
マークが下から上へと駆け上がり、今停止しているバンク下内側のグリーンま
で痕跡が続いていた。

  この時現場に飛んできたトラストの若いメカニックの第一声が耳に残ってい
る。「あの、これターボなんで、エンジン急に止めないでもらえますか!?」
(おいコラッ!よく見てからモノを言え)危うく怒鳴るところだったが、呑み
込んだ。

 翌週だったか、若手レーシングドライバーが同じセットアップでテストし
た。「良い数字が出せたら来季のスポンサーになってもいい」そんなことを囁
かれてその気になった若手君。血気にはやったこともあるのだろうが、同じ条
件で同じことをすれば同じ結果となるのは自明だろう。ただし、このドライバ
ーの経験不足は残念な結果を迎えた。

 私の時と同じでピレリーP7が設計速度180km/hのマッコーネル曲線で造られ
たバンク内を250km/h超で走るセリカXXの負荷に耐えかねた。アウト側の右前
輪がけっこう強めに左にステアするストレスとダウンフォースによってタイヤ
の内部構造が破損。バーストとなってコントロール不能に。身構えた私と違っ
て彼はガードレールに直行したという。

  黎明期にはこのような伝説に事欠かない。あるタイヤメーカーの耐久試験で
の某レーシングドライバーの武勇伝。バンク内は目を瞑って睡魔との争いを避
け、何秒かの数字をカウントしたところで目を開けるのだとか。それをやって
いたある時、気がついたらインフィールドの藪の中だった。嘘のような本当の
話である。

●日本車がちょうど良い性能レベルにあったのは実は1980年頃である

  1980年代は、日本メーカーが国内シェア争いに心血を注いだ時期。この時の
パワー競争は熾烈を極めたがメーカーが直接手を下すことはなく、専門誌メデ
ィアを中心とする各媒体それぞれが独自にテストしてメーカーのパブリシティ
から距離をおいた情報提供に徹していた。

  といっても、1988年にシーマが3リットルDOHCターボで255馬力を誇るまで
はまあ抑えが効いていた。81年のソアラが2.8リットルDOHCの5M-GEUで3ナ
ンバーの敷居を下げたとはいえ、国産車の中心は2リットルの5ナンバーモデ
ル。社会現象と化した”シーマ現象”が高出力化のタブーを取り払い、バブルの
狂騒の勢いも借りて1989年の歴史に残るヴィンテージイヤーを招来させる。

 何しろ、トヨタのセルシオ(レクサスLS400)、日産のインフィニティQ45以
下グループA車両規定に合わせて勝つ条件を整えたR32スカイラインGT-R、ド
ル箱のアメリカ市場でアイコンとなるべく磨かれた300ZX(フェアレディZ)が、
当時のブランドスポーツを震撼とさせる280馬力を自主規制という但し書きを
添えて出現している。

  翌年のホンダ(アキュラ)NSX、三菱GT0、ユーノスコスモと続いたバラエティ
溢れる高性能車軍団が、ポルシェやフェラーリに代表されるプレミアムブラン
ドの危機感を募らせ、現在の500馬力超、オーバー300km/hという現実離れした
性能がリアルワールドで得られるかのような虚構へと走らせた。

  性能は常に相対的なもの。秒速56mの200km/hでも8000万人の免許保有人口の
中で経験した者は多くないはずだが、一般的な身体機能の限界値と考えられる
秒速70mの250km/hはもちろん、さらに上の秒速84mに達する300km/hから見
るとずっと低位に感じられてしまう。日本の場合100km/hが法定最高速であり、
論理的にはそれ以上の"高性能"は消費不能であるはずなのだが、交通環境の現
状を変える議論もすることなく、昔ながらの右肩上がりの論調で語り続けるメ
ディアの不定見が、人々のファンタジーへの逃避行動を加速させた。

  テスラが0→100km/h加速で3秒を切る快速を誇ったところで、その心臓が口
から飛び出るような猛烈な加速フィーリングに耐えられる身体能力を備えた一
般ドライバーはまず一人もいない。ここに自動運転技術がもたらすフィクショ
ンが加わると、誰もが超人的なモビリティを経験できるという錯覚を生むが、
身も蓋もない生身のあなたの身体は断じてそれに対応できることはない。

●日本経済はずっと内需主導で成長してきている

 昭和末期に訪れた日本が経済規模でアメリカを抜き世界一に躍り出る成功は
奇跡といわれた戦後復興の高度経済成長を成し遂げた(1970年がピークとされ
る)直後のオイルショック(第一次石油危機=1973年)を危機バネに、日本に
とって唯一最大の資源といわれた技術力で難問を克服したことに始まる。

 成長の負の遺産として浮上していた大気や河川湖沼沿岸の汚染や交通集中と
技術やインフラの未熟にともなう死傷者の激増に上乗せされた石油資源有限の
現実が技術による問題解決に向かわせ、ピンチをチャンスに変えることに成功
した。

 私は高度経済成長の頂点を知る世代。1966年(昭和41年)のモータリゼーシ
ョン元年のサニー/カローラの登場やホンダN360のメガヒットを最後の軽自
動車免許世代として肌で知り、トヨタ2000GT・スカイラインGT-R(PGC10
型)・フェアレディZ(S30)・べレットGT・マツダコスモRE……キャブレタ
ー時代の和製スポーツの登場に心を躍らせた。

  最初のクルマが日産サニー1200クーペGX(KB110)。当初は頭の片隅にもな
かったモーターレーシングにのめり込んだのは運命的な偶然だが、資源環境安
全というクルマを取り巻く課題が社会を覆う問題として浮上する中で対極とも
いえる自動車レースに心奪われる。インターネットに情報が溢れる現代と違っ
て、無知ゆえの行動力が今につながる。

  オイルショックと排ガス規制強化という社会に吹き荒れた"アンチ自動車"
という猛烈な逆風下に富士フレッシュマンシリーズに身を投じ、本気でF1を夢
見た馬鹿者が他ならぬ私である。

  当時の自動車メーカーは一斉にワークス活動から身を引き日本版マスキー法
と言われ克服困難とされた昭和53年排ガス規制クリアに没頭した。この間に市
販された日本車の技術的未熟さは現代人には理解不能だろう。昭和48年規制適
合のために施されたデスビ(=ディストリビューターが何か分かる世代は漏れ
なく還暦を迎えているはずだ)の遅角調整をした記憶が蘇る。

  ホンダCVCCにトヨタEFI・日産ECGIの電子制御燃料噴射に三元触媒にサーマ
ルリアクターRE(ロータリーエンジン)……自動車先進国とされたアメリカやド
イツが白旗を挙げる中で日本メーカーは世界中で強化された排ガス規制に適
合。小型車中心で燃費性能でも有利な条件が揃った日本車は、抜群の国際競争
力を発揮して今日の繁栄の礎を築いた。

  ただし1980年代の日本はまだ国内市場の拡大期。史実を追えば、それが人口
動態と軌を一にしていることが分かる。終戦直後の総人口は約7200万人。25年
後の1970年に1億人を突破し、2008年に1億2808.4万人でピークに達するまで
実に5000万人近く増えている。この市場拡大が日本経済発展のダイナモだった。

  日本のGDP(国民総生産)は500兆円規模とされる(2019年度は実質で533
兆円=内閣府)。貿易立国だと小中学校で習った記憶があるが、輸出約80兆円
/輸入約82兆円(いずれも2018年実績:一般社団法人日本貿易会)。どちらも
対GDP比で15%止まりであり、日本経済は圧倒的に内需主導で現在に至ってい
る。奇跡といわれた高度経済成長は、360円/1ドルという超円安の固定相場や
原油安(1972年までの平均価格は2.48ドル/1バレル)や低賃金による労働コスト
安などが主因で、優秀な民族性によってもたらされたという日本特殊論として
持て囃されるような俗説には眉に唾した方がいいようだ。

  1970年代に浮上した難問を克服した日本の自動車産業は勇躍国際市場で存在
感を増したが、最大の貿易相手国となっていたアメリカはモータリゼーション
の母国であり、デトロイトのビッグスリーはオイルショックの影響で世界市場
からは後退を余儀なくされていたが雇用を支える基幹産業であることに変わり
はなかった。日本の対米貿易の中心はそれまで繊維から自動車へと変化したが
前提となる円安環境によって終始は大幅に日本の黒字となり、現在の米中貿易
戦争と同じ事態が死活問題として浮上した。

●バブルの昭和末期には自動車専門誌だけでも100誌を数えた

  この経緯をきちんと踏まえないと昭和末期のバブルも、30年に及んだ平成の
デフレ不況(失われた30年)も総括することが出来ず、令和も変れぬままに過ぎ
去る恐れがある。今回のCOVID0-19パンデミック禍は、それ以前と以後を明確
に分けるほど人々の暮らしぶりに影響を与えるはずだが、これを奇禍として忘
れることが出来なかった『昭和の成功体験』から踏み出す必要がある。

  1980年代の成功と失敗は、成長を続ける国内市場での激しいシェア争いによ
って自動車技術が活性化。そこで蓄積された技術と商品の多様性がバブルの絢
爛豪華を生むことになるのだが、その前に最大貿易相手国のアメリカから最後
通牒としての円高/ドル安容認が告げられる。それまでのレートを一気に2倍
円高に切り上げるG5の『プラザ合意』は従来の貿易輸出による荒稼ぎを終焉
させると同時に、一夜にして価値が高騰した『円』の行き場探しを加速させた。

 貿易輸出の不振が懸念され、メーカー広報からうろたえる声が聞かれる中、
事態は真逆に進む。金融機関は投資先に『土地神話』が囁かれる不動産を選
び、その投機マネーがバブル化して株高や高級消費財が飛ぶように売れる環
境を生み出し、”ヴィンテージイヤー”として振り返られる1989年~1992年
に掛けての自動車爛熟期を迎えた。それはちょうど1970年前後の高度経済成
長のピークとも重なる光景だが、1973年のオイルショックによる暗転とほぼ同
じタイミングで平成バブルは崩壊した。

 当時は雑誌出版メディアの最盛期。企業の活況を受けて広告が鰻登りの勢い
で増加。自動車専門誌だけでも100誌を数え、大手広告代理店の調査によれば
ピークには600万部/月にも上った。1987年の鈴鹿に始まる第2期F1ブームと
も重なるが、地上波TVが潤沢な広告収入を背景に勢いを得た時期でもあった。

 すでにバブルであり、カネ余りを背景に日本の市場拡大はまだ余地を残して
いるように錯覚されたが、弾けて見えた現実は泡の如しだった。ここで経済の
実力や技術の進歩とインフラ整備による社会の変化に合わせていたら……つま
り法制度や社会システムの運営法をアップデートして、それに合わせた産業に
転換する構造改革がなされていたら、今とはまったく異なる未来に希望が持て
て可能性を感じる現実を生きていたのではなかろうか?

 ところが、昭和末期の成功体験が忘れられず、中央の行政官僚システムに下
駄を預けて自らは責任を取らない経営者は日本が最も活力に満ちていたバブル
期に変化することをリスクとして退けた。戦後の日本経済を支えた官僚主導
の”護送船団方式”を是として、自らの失敗を決して認めない前例肯定の無謬
主義を組織的に貫く役人至上主義が、ここに来て出口の見えない閉塞状況の最
大要因ではないかと思っている。

●都市にクルマは似合わない。自然へのアクセスツールが本質であるからだ

 ポストバブルの1995年に日本の自動車産業は追い立てられるようにグローバ
ル化の道を辿る。この年は10年前のゴルバチョフ登場や日航ジャンボ墜落やプ
ラザ合意といった記憶に残る事件と同様に阪神淡路大震災やオウム地下鉄サリ
ン事件があり、自動車産業の行く末を決めた日米自動車協議が妥結する。日本
は国内拠点の生産能力を据え置いたまま海外市場向けには現地生産化を推進。
およそ20年間で国内の2倍に対応する生産能力を持つ国際企業の業態へと収益
の構造を大きく転換させている。

 日本の国内市場しか直接影響を及ぼすことができない国内メディアは、日本
中心の目線でグローバル展開する自動車メーカーを語ろうとするが、事実とし
て各社にとって日本市場はすでに全体に占める一部でしかない。まだ国内販売
と輸出が拮抗していた昭和(1980年代)の気分で郷愁を誘うかのような論調が
目立つが、日本市場での収益が企業としての存続を左右するドメスティックな
存在は一社もない。

 グローバリゼーションの大きな潮流の中で真剣に生き残りを考えるなら、国
内自動車市場の不活性化の主因となっている数多くの行政による規制……exク
ルマを所有することが罰則に思える税制、世界一高額な高速道路通行料、東京
一極集中を際立たせる道路網の構築、実際に旅すれば分かる意外に広大で変化
に富んだ37万平方キロメートルの国土の多様性を阻む半世紀以上前に施行され
た全国均一の法定最高速度、外国人の排除を目的としているとしか考えられな
いユニバーサルデザインの欠如……etc。

  パスポートの保有が42%と過半数を下回り、TV(の恣意的な)情報番組で
世界を知っているつもりになっている日本人の大多数にとって、あたりまえす
ぎて興味の対象にはならないかもしれないが、我々が暮らす極東の島国は宝庫
ともいえるほど自然の多様性に富み、季節によって変化する環境の魅力は尽き
ない。過去30余年で充実された高速道路網を利用して自動車旅行に繰り出せ
ば、それこそ誰でも実感できる。

 そこには500馬力・300km/h超の高性能など必要はなく、すでに整備された道
路インフラと半世紀以上に渡る自動車技術の進歩の果実を実感できるレベルに
道路交通法をアップデートして、けっして狭くない国土を楽しめる環境を整え
るべきだろう。私は通過を含めて47都道府県のすべてを走破しているが、もち
ろん未だ見ぬ絶景は数知れず。自由往来がもたらす可能性の広がりは、平日の
地方の高速道路の交通量の少なさを知れば変るべき道筋は自ずと開けるだろう。

  21世紀の現代は世界中で都市化が進み、全人口の80%が都市に暮らすように
なったという。3800万人とも4300万人とも言われる東京首都圏は世界最大のメ
ガロポリスとされる。東京一極集中は東京都だけの話ではなく、日本最大規模
の沖積平野である関東平野が多数の河川がもたらす豊富な水資源とともに生活
立地を拡げた結果だが、ランダムアクセスが可能なクルマで旅してみると便利
な都市空間にはない環境に心洗われることが少なくない。

  果たして、自由気ままな自動車旅行を経験した人がどれくらいいるだろう。
今般のCOVID-19パンデミック禍は"リモートワーク"をキーワードに、都市化と
セットになった過密な通勤から開放された働き方改革の可能性を知らしめた。
インターネットの開放から四半世紀。情報技術の飛躍的進歩のお蔭で、会社に
帰属するサラリーマン以外の生き方がより身近になった観がある。

  東京首都圏が直下型を含む大震災に見舞われることは歴史の証明するところ。
それが何時かは分からないがいずれ必ずやって来る。その時に現在の東京がど
うなるのか。100年前の関東大震災とは都市構造が決定的に異なり、建築物の
耐震性も飛躍的に向上しているとはいえ、結果は未知数でしかない。

  当時ほとんど存在しなかったクルマが乙種第4類の危険物を抱えて路上を埋
め、比較にならない高速の鉄道網が昼夜を問わず電車を走らせている。日常が
パタッと止まる光景を9年前の東日本沿岸で目の当たりにした。この時も単身
自動車旅行で巡ったが、発災直後だったら寸断された道路網に阻まれて近づく
ことができなかった。2ヶ月後でも復旧には程遠く、息を呑む光景が広がった。

●スズキジムニーがSUVの世界標準になったら、時代は間違いなく変るね!

 今回のCOVID-19パンデミック禍は、新型コロナウィルスと相変わらずメデ
ィアが好む用語で明らかなようにワクチンも治療薬も定まらない見えざる相手
によってもたらされた。都市空間もモビリティツールもそこに暮らす人々もほ
とんど変わらないのに、暮らしぶりだけが激変した。

  やがて克服の時を迎え、ウィルスの脅威は忘れられるはずだが、今まで通り
の暮らしぶりが戻る保証はどこにもない。滞った経済は多くの生活困窮者を生
むに違いないが、失われた仕事が復活する見込みはなく新たな生きる糧を創造
する必要が問われる。人は保守的な動物なので、できれば従来通りで生きたが
るが、何も変わらない景色の中で生き方だけを変えなければならない。

  何かと不都合が目立ったこれまで通りに執着するより、思い切って変化に対
応することに集中した方が未来がありそうだ。

  ソーシャルディスタンスの観点から、限られた空間でパーソナルモビリティ
を実現するクルマが再認識されたと思う。集中制御や誰か(エンジニアか為政
者か)が構築したシステムに従わざるを得ないCASEやMaaSといったシス
テムが理想的かどうか再考の余地がある。

 長期的に見れば地球人口はすでに減少サイクルに転じていて、再び増加ベク
トルに反転することはないという。あと30年ほど(2050年頃)でピークを迎
え、100億人がひしめいて食料やエネルギーが逼迫するという恐れは杞憂に終
わるという意見もある。

 私としては、”かつて良いと感じたものは、今でも魅力を失っていない”と
の立場から、人とメカニズムが丁度いい関係にあった時代のテクノロジーに目
を向けたい。当然のことながら資源・環境・安全というクルマが誕生以来背負
い続けている十字架についてはアップデートした上で、デザインや走りのパフ
ォーマンスの調和で”Freedom of Mobility"の可能性を追及したいと思う。

  前提となる法整備や道路インフラを現状に照らしてアップデートし、クルマ
のバランスポイントを追及し、操る人のスキルを身体性やハンディキャッパー
に考慮したテクノロジーといった視点で捉え直して最適化を図りたい。

  地球環境問題を声高に叫ぶ一方で、アウトバーンを有するポジショントーク
としか思えないドイツ的価値観(超高速至上主義とも捉えられかねない技術優
先のファンタジー)とは違う柔らかい高性能。それは多分、日本の多様性に富
んだある意味で厄介な走行環境を旅する感覚で経験する向こう側に見えてくる
ものだろう。

  いずれにしても、時代を変えるのは未来を生きる若い力。やってくれる人が
現れたなら、私はトボトボとその後を付いて行くばかりである。      
                                   
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