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2020年5月17日日曜日

まぐまぐ!メルマガ 伏木悦郎の『クルマの心』第379号2020年4月28日配信分
の再録をします。自動車メディアの現状がどうなっているのか?半ば”天唾”の
様相を呈していますが、ここはリスクを負ってでも言及しないとクルマの未来
が痩せ細る……そんな思いが募って書きました。一読後ご意見等ありましたら
お寄せ下さい。


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           伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』 
             第379号2020.4.28配信分



●いわゆる試乗記が読むに堪えないファンタジーに思える理由を考えた

 凄い時代を生きているという実感がある。私の場合すでに還暦から8年であ
り、世に言う15~65歳までの生産人口の対象から外れて久しいが、これが所帯
を持ち世帯主となって妻子を養うことになった1980~2002年までのいずれかの
時期と重なっていたとしたら戦慄せざるを得ない。新型コロナウィルスCOVID-
19によってもたらされた現在の状況は、今を生きるほとんどの者にとって初め
て経験する世紀の一大事。誰もが緊張する事態であることは間違いない。

 私がフリーランスの自動車ライターなる職にありついた1970年代末。日本社
会は再起のタイミングにあった。戦後の復興期を経て、最長といわれた”いざ
なぎ景気(1965年から70年までの57ヶ月)”に終止符が打たれたところで第一
次石油危機が勃発。店頭からトイレットペーパーが蒸発し、物価が瞬く間に跳
ね上がる『狂乱物価』を経験したのが1973年。折悪しく強化されることになっ
た排出ガス規制が自動車産業に壊滅的な打撃を与えた。自動車メーカーが絶望
の淵に沈んだ暗黒の時代を知る世代も少なくなったが、あの危機を克服した感
覚と再び挑戦者としての世界を目指す機運が日本全国に満ち溢れた時代だった。

 安全保障を同盟国アメリカに丸投げして経済的発展に邁進する。電子制御技
術に技術的な活路を見出し、生産と製品の両面で世界初を掛け声にモノ作りに
磨きをかける。人口増加にともなう国内市場の拡大と合わせて、まずは激しい
シェア争いで国内競合各社が切磋琢磨する。自動車は裾野の大きな基幹産業に
相応しく多様性と性能/技術水準の両面で鎬を削りあい、1980年代を通じて
蓄積された競争力を背景に国際舞台で優位に立つ道筋を築いて行った。

 生産台数では、すでに1980年に1100万台に到達して世界一(当時)を実現し
ていたが、永遠の成長を多くの人々が共有できた当時の社会の一体感は格別だ
った。私はちょうどその時期に一からの駆け出しとして自動車評論に関わるこ
とが出来た。これ以上の幸運もなかったと思う。『ジャパンアズナンバーワ
ン』と持て囃され、最大産油国(当時)のサウジアラビアを抜いて世界一の貿
易黒字国となったのも今は昔だが、おそらくこの時の成功体験の記憶が今もな
お変ることができない社会の元凶となっている。

 そのことが日米貿易戦争のハイライトとされ、円高/ドル安容認の『G5プ
ラザ合意』につながり、束の間の円高不況のあとにバブルの狂騒がやって来
た。この超金余り状況が世界のパワー競争に火を着けるハイテク/ハイパフォ
ーマンスモデルを生み、国際市場での存在感を得る原動力となったことを忘れ
てはならない。重要なのは、この発展途上段階を身を以て経験しているか否か
だろう。

 高度経済成長期のモータリゼーション元年(1966年=昭和41年)からオイル
ショックまでの数年間に登場した草創期のクルマが持つノスタルジーとは違
う、世界市場に本格的に打って出るまでの技術開発プロセスを知っているかど
うかで、クルマの語り部としてのスタンスは異なるはずだ。バブル後の人々は
伝聞で知る他ないが、グローバル化以前の日本車にはまだインスツルメンタル
な計測テストが評価評論の前に有効で、例えば最高速度200km/h超えや0→
400m発進加速データが欧州やアメリカの先進国メーカーとの距離感の測定と
して意味を持っていた。

●還暦過ぎのレーシングジャーナリストが居座り続けるのは何故だろう?

 バブル期の280馬力自主規制下の国産高性能スポーツモデル群をリアルタ
イムで経験している世代は押し並べて50代となり、実際に評価評論の実務に
あたった者はすでに60歳の大台に乗っている。バブル崩壊以降急速に進んだ
自動変速化の波(AT限定免許制度が1991年11月から始まった)によってマ
ニュアルドライブ車比率は激減し、ポストバブルの出版不況もあって高コスト
となるテストコースやサーキットでの計測取材は主流の座から後退していった。

 そして、代わって一般化したのが試乗記(ドライビングインプレッショ
ン)。従来から自動車専門誌の花形としてとされているが、その内実はライタ
ーの主観に基づく印象記であり感想文の範疇に留まる。経験値がモノを言う世
界であり、書き手のキャリアが価値観の分かれ目となる。検証すべきファクト
は配布されるプレスリリースに掲載される技術情報やデータが中心となり、そ
の確認は開発陣への直接取材以外に手立てはない。多くの場合は広報資料とし
て用意されるパブリシティが頼りであり、それを乗り越えて独自の論点を展開
できる豊富な経験の持主は残念ながら少なくなりつつある。

 私は20代前半でモーターレーシングの扉を叩いた後に縁あって自動車メデ
ィア界に入っている。オイルショック後の1970年代は前述の通り自動車暗黒
の時代であり、自動車メーカーが一斉にワークス活動から撤退した時期。プラ
イベーターが反社会的との批判を浴びながら草の根的な活動を絶やさなかった
ことが今につながった。現在国内自動車メーカー各社はモーターレーシングを
文化的活動とか奇麗事を並べるが、ビジネス度外視でモーターレーシングをサ
ポートできるカーガイがどれだけいるか。ホンダ創業者の本田宗一郎氏以外に
思い浮かぶ日本人経営者はいないし、責任の所在をあいまいにする日本的経営
にはいわゆる根っからのクルマ好きを見出すのは難しい。

 日本で初めてのワンメイクレースを開催したのは鈴鹿というホームコースを
擁するホンダで、1981年にF2シリーズのサポートイベントとして『スーパ
ーシビックレース』をシリーズ化したことに始まる。2代目シビックCXモデ
ルは85psという平凡なスペックのFF2ボックスだったが、当時の広報部の肝入
りで国内有名レーサーや専門誌メディアの参戦などの話題を集め、白熱のレー
ス展開で後の国産ワンメイクレース全盛のひな型となった。

 この記念碑的なレースシリーズに私も参戦した。編集者にスカウトされた関
係でdriver誌からのエントリー。当時は軽自動車の試乗記からサーキット/テ
ストトラックでのハード評価にタイヤテストにレースリポートまで。出来るこ
とは何でもやって糊口をしのいだ結果のひとつだったが、それで身を立てるこ
とよりも自動車業界を盛り立てる役回りであることを強く意識した。

 1983年9月に運輸省(当時)が偏平率60%のロープロファイル高性能タイヤ
を認可する断を下したことを受けて同年年初から当時市場で購入できた全ブラ
ンドをdriver誌の短期集中連載で請け負ったことがその後の私の仕事の幅を拡げ
たという話はこのメルマガでも紹介しているはずだ。

 乗って書くことが唯一の売りだった私の原点でもあるわけだが、当時はチュ
ーニングカー誌(徳間書店)で最高速トライアルも経験している。

 谷田部(JARI)テストコースの高速周回路(5.5km)を舞台にしたそれは、
1980年代に飛躍する日本の自動車産業の陰で花開いた徒花のような存在。

 RS雨宮のSA22Cターボで当時の国産最速288km/hというデータを叩き
出したのは何を隠そう私である。油温計の針がタコメーターのように跳ね上が
るのを確認して、計測地点でちょうど振り切るタイミングを測って裏のストレ
ートを加速してベストレコードを記録した思い出がある。

 前述のタイヤテストのプログラムを編み出す過程でFR駆動の魅力を再確認
し、(パワー)ドリフトこそがその魅力を端的に表す要因だと喝破した。爾来
FR絶対主義の看板を掲げ、今なお内燃機関で走るクルマはFRに限るという
持論を曲げるつもりはない。

●自動車評論家がファンタジーを語り続ける理由

 私の原点は20歳の時にある有名レーサーの手記に触発されて一念発起した
モーターレーシングにある。裕福な家庭の育ちでも何でもなく、手を油まみれ
にして稼いだ資金で足掛け4年奮闘するも息切れ。折よく自動車専門誌編集者
に誘われ自動車メディア界に飛び込んで42年が過ぎた。初の渡航は1980年6月
の欧州。新婚旅行に託つけて、フランス~スイス~英国~フランスと2週間で
約5000kmを走り、シルバーストーンのホンダF2復帰第2戦とルマン24時間レ
ースを取材した。

 この時の原体験が、結果的に300を超える海外渡航取材につながる自信と運
を呼び寄せたと思っている。30代前半からプレスツアーの一角を占めることが
できたのは、出来る出来ないではなくてまずはやってみるを心掛けた結果。

 1985年の取材中のアクシデントによりレーシングマシンの試乗リポート
という新たなジャンルの幕開けと幕閉じを一人相撲の態で成し遂げてしまった
のは残念だが、1981年のスーパーシビックに参戦して以来メーカーに依存して
レース参戦を試みることは厳に慎むこととした。

 後進には、まず専門誌を始めとするメディア界に入って、メーカー肝入りの
レースを足掛かりにプロフェッショナルドライバーとしてキャリアを積んだ者
が数多く存在する。自動車メーカーにとっては媒体露出の対費用効果を考える
と効率が良かったという理屈が成り立つし、どのような方法でプロモーション
しようがそれぞれの勝手だが、経済的なリスクを負うことなくポジションを得
てなおメディアの一員として評価評論の立場に留まる。盗人に追い銭と言った
ら過ぎるかもしれないが、二足の草鞋を履きながらパブリシティに沿った言動
をしてジャーナリストを気取る行き方には賛同しかねる。

 最大の問題点は、時代の変化に対応することなく、自らの歩んできた道のり
を肯定する余り既得権益を守る立場に転じたことに無自覚になっている点にあ
る。象徴的なのは、走りのパフォーマンスに対する認識だろう。

 日本車はことスピードに関して言えば高度経済成長末期に200km/hの壁を
超えている。フェアレディSR311の時代に205km/hを公表していたように、
半世紀前(排ガス規制前のキャブレター時代)のおおらかな時代の現実がす
でにあった。排ガス規制に沈んだ1970年代に一旦途切れるが、1981年に登
場した2.8リットル直6DOHCエンジン搭載のソアラ/スープラが再び200km
/hの壁を破ると、日本車は世界でも稀と言えるほどパワーゲームの坩堝と化
して行く。

 1989年の280馬力自主規制という日本の道路交通法との整合性を意識した
官僚機構の無責任体質を忖度して受け入れたのは、自動車が許認可事業である
という事実の裏返し。自動車メーカーに育てられた業界ドライバーであるな
ら、正々堂々と中央官僚機構の無謬性に囚われた前例主義の矛盾を問うべきで
あり、1962年に施行された改正道交法の高速道路100km/hという法定最高速
度の是非を諸外国へのプレスツアー等を通じて精通する自動車産業先進国の現
実との対比で論陣を張るのが筋というものだったろう。

 現実は、自らの経験としてではなくほとんど伝聞で知る昭和末期の姿をあた
かも劣化コピーとしてトレースするお花畑の狭い世界に甘んじてファンタジー
を語ることに終始した。平成の30年を経て時代はすでに令和という新たな元号
に変わっている。西暦でも2020年と21世紀もふたつのディケード(旬年)が過
ぎようとしている。過去58年間に渡って法定最高速度100km/hがビタ1km/h
たりとも上乗せされていないのに、相も変わらず300km/h超を可能にする500
馬力オーバーのクルマを頂点に据えて絶賛し、すべてのクルマがその方向を目
指すべきとでも言いかねないような言説に留まっている。

●300km/h超の世界を知っている自動車ライターは一握りしかいない

 日本の自動車産業が世界水準を追って切磋琢磨していた発展途上段階に、身
を以てクルマをテストし評価評論に明け暮れた経験の持主なら、1989年に到
達した『280馬力自主規制』の高性能車群が世界の有名ブランドのプライドに
火を着け、世界的なパワー競争を引き起こした事実に対して謙虚であるはずだ。

 そもそも、0→400m加速で16秒を切るような性能は、数値レベルでは
評価できるが、人間の感覚評価の観点に照らせば好ましいとは言えない。

 1989年登場のスカイラインGT-R(R32型)は0→400m発進加速で未踏の
12秒台を難なく捻り出した。エンジン回転をピークトルクの4400rpm以上に保
ったところでポンとクラッチをつなげば、電子制御式4WD(アテーサE-T
S)が的確に駆動力を4輪に伝え、あとは5速MTをミスすることなくシフト
アップして行くだけ。テクニックの介在を必要としない"オートマチック"なパ
フォーマンスに当初は感嘆し高評価を与えたが、道交法との乖離に気がつきそ
のテクノロジーのあり方に疑問を抱くようになった。

 それと相前後してだと思うが、レスポンスという評価にも再定義が必要だと
感じるようになった。一般に応答性が早いことに高評価を下すことになってい
るが、実は人間には位相遅れが存在してほんの微小の鈍さがあった方が好まし
い。逆にシャープ過ぎる応答性はレスポンスが悪いと評すべき筋のものである
はずだ。

 速度そのものにもクルマとクルマ同士のいわゆるハード比較で論じるのでは
なく、運転する人の感覚に沿ってどうか?が問題となるはずだ。私の経験知で
は、大体250km/h(秒速70m)辺りに生理限界があるように思う。これはテス
トコースで何度も感じたことだが、250km/hから上の速域は何度経験しても緊
張する。これは多分人間の神経伝達スピードで最速の有髄神経系の反応速度と
の関係にあるもの(確か0.3sec/m)で、違和感の原因はそこに求められるは
ず。アウトバーンにおける250km/hの紳士協定などもそれに由来するのではな
いだろうか。

 そんなこと言ったって、レーシングドライバーは平然と300km/h(秒速84
m)超の世界で闘っているではないか。その通りだが、彼らプロフェッショナ
ルが有視界飛行同様の眼で現場を確認しながら卓越した反射神経で走っている
とみるのは典型的な素人考えに他ならない。レースで競われているのは本質的
にフィジカルな視力や筋力ではなくイメージ。レーストラックに描かれたイメ
ージの質とそのイメージを実践する能力を競い合っている。現場に来た時には
すでに彼の視野はその先に注がれていて、結果としてのライン取りが優劣の証
となる。

 レーシングドライバーに求められる資質は(1)体力(2)知力(3)胆力の順。プロ
フェッショナルであるにはまず体力が一流のアスリートレベルであることが必
要とされるが、トップドライバーとなるのはイメージの質を高次元に保つ知性
が不可欠で、チャンピオンたるには何がなんでも勝つという強い気持ちの持主
でないと叶わない。

 かつてC.ゴーン前日産会長からR35GT-R開発の全権を任されたエンジ
ニアはナビ席の同乗者とリラックスして300km/hの超高速ツーリングを鼻唄
まじりでこなせると豪語していたが、2007年10月に発売を間近に控えたGT
-Rをアウトバーンで試すプレスツアーで走らせると、とてもとても。

 生憎の小雨まじりの濡れた路面に2車線区間という条件では300km/h寸前
まで攻めるのがやっと。youtubeにプロフェッショナル(レーシングドライバ
ー)の2ショット同乗動画がアップされていると思うが、いずれも両名とも訳
もなく笑っているはず。人間、恐怖が募ると笑うほかなくなるという好例だ
が、まさか引きつるわけにも行かず笑って誤魔化す以外になくなったという
ことだろう。

●起訴されたら99.4%が有罪の国に世界的な外国人経営者はもうやって来ない

 現在の現役自動車ライターで実際に300km/h超の世界に踏み入れたことが
ある者がどれくらいいるのか知らないが、日本のトップフォーミュラやWEC
マシンで超高速トラックを走ったレース経験者や超高速トライアルに挑戦した
猛者を除けば何人もいないはずだ。しかし、相も変わらずエンジン出力の最高
値を喧伝し300km/h超のスピードを理想であるかのように語るのが大半だ。

 日本(に限定する意味はないが)の変化に富んだ走行環境を走破し尽くし、
その多様性を背景に自動車旅行の楽しさ魅力に言及するスタンスを得れば、今
とはまったく違った価値観の提示が成されるはずだが、『試乗記』のほとんど
が昭和の発展途上段階から踏み出してはいない。

 バブルの狂騒から崩壊に至るプロセスは新たな価値観の創造のまたとない好
機だったが、出版不況とインターネットの普及によってメディアの資金と情報
の両面で自動車メーカー依存が強まり、国内市場の飽和サチュレートと自動車
産業のグローバル化にともなうオフショアの流れに沿う収益源の国際化によっ
て、パブリシティに生き残りを賭ける内向き志向が加速してしまった。自動車
に限らず情報は市場やユーザーや読者に向けてこそ価値のあるものになるはず
だが、メディアの食い扶持としての情報が優先され自動車産業の都合に沿った
宣伝広報のような記事がほとんど。批評や批判などが正々堂々と語られること
はまずなくなってしまった。

 一昨年(2018年)の11月19日に起きたC.ゴーン、G.ケリーという日産
代表取締役ナンバー1、2逮捕起訴という衝撃的な報道の際に、いわゆる自動
車メディア界から何ら発信されることなく傍観者の立場に沈んだのは何故か?

 記者クラブメディアによる一方的な(日産・検察による)リーク情報によっ
て、強欲非道の外国人経営者という印象操作が徹底されるのを尻目に何の批評
も批判もしなかった者にジャーナリストとしての矜持はあるのだろうか。

 自動車業界の最前線に位置しながら、過去の業績から容易に推察される推定
無罪の大原則すら忘れ、日産広報部の箝口令に従った無為無策は万死に値する
とは思わないのだろうか。やがて、この火種は日産以外の全メーカーに飛び火
するはずだが、日産というすでにグローバル企業として日本だけでは成立しな
くなっている自動車メーカーの現実はトヨタを始めとするすべての日本自動車
産業に当てはまる。ことはひとり日産の危機ではなく、日本ブランドともいえ
る自動車産業全体に累がおよぶことが避けられないと見るべきだろう。

 すでに日産の傘下に収まりルノー日産三菱というアライアンスメンバーに位
置するようになって久しい三菱は260億円の赤字を2020年3月期で計上すると
いい、日産の同期連結最終損益もリーマンショックに沈んだ2009年3月期以来
の赤字に転落するという。今回の新型コロナウィルスCOVID-19禍以前に顕在
化した業績不振の結果であり、西川廣人前社長CEOの責任は免れない。

 そもそも当初C.ゴーン氏逮捕起訴の罪状とされた金融商品取引法の有価証
券報告書虚偽記載は、現に受け取ってはいない退任後の将来に受け取る金額の
覚書に過ぎないことから犯罪の要諦を成してはいないものだが、仮に起訴した
検察が執念で有罪としたところで、2011年3月期から2015年3月期と分けて
再逮捕起訴した2016年3月期から2018年3月期についてはその3分の2にあ
たる2年分は西川氏がCEOの時代のもの。有証の虚偽記載は提出者に課せら
れたことに対するもので、この場合は西川氏が当事者となる。その事実からも
無茶苦茶なのだが、ことが明らかになっても未だにC.ゴーン氏に対する嫌疑
を口にするものが絶えない。

●元に戻せないことはやってはならない。日産クーデターの教訓は重く深い

 本当に大丈夫だろうか?相変わらず、昔ながらの作法でドライビングインプ
レッションという感想文に明け暮れ、日本社会が抱える変化に対応できない官
僚統治機構とその前例主義によってアップデートすることが出来ず時代や社会
のありように対応できなくなったシステムが明らかになってもなお変れない。

 日産も三菱も20年前の危機的状況に逆戻りした。西川氏の後任として挙がっ
ていたホセ・ムニョスCPO(チーフ・パフォーマンス・オフィサー)はゴー
ン氏失脚とともに日産を追われ、今やライバルメーカーの現代自動車のグロー
バルCOO(最高執行責任者)に就いている。

 日本人経営陣による本格始動が始まった矢先にグローバルな企業活動の実態
に対応できない元の木阿弥に戻りつつあるマツダも厳しい。日本の本社筋で内
部昇格によって頂点を極めた人材にグローバルビジネスが収益の柱となってい
る自動車会社経営は難しいのかもしれない。C.ゴーン氏の後を追うように米
中での存在感演出に血道を挙げ、ワンマン体制を徹底しつつあるトヨタも危な
っかしい。

 トヨタの創業家三代目は、一見全自動車産業を代表する言動を振舞いなが
ら、実は豊田家(株式保有は全体の1%にすぎない)を中心に据えた価値観
に終始している節がある。この点については次週の課題として残すが、今直
面している新型コロナウィルスCOVID-19がもたらした難局は日本社会を根
底から揺るがす可能性が高い。

 CASEもMaaSも従来からの社会の延長線上に描かれたプランという側面
が色濃いが、いわゆる100年の一度の大変革は社会のあり方を一から見直す必
要を促すものであるようだ。ポストコロナウィルスがどんな社会変化を要求す
ることになるのか。今はありたい未来の姿、あるべき姿を時なのかもしれない。   
                                    
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