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2020年9月3日木曜日

  まぐまぐ!メルマガ『クルマの心』第392号2020.8.4配信の再録 です。(前号は前段に同時既報)

有料講読(880円/月:税込)は下記へ。

https://www.mag2.com/m/0001538851 

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           伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』 

             第392号2020.8.4配信分


●情報に踊らされることなく……


  2020年も後半に入り早8月(葉月)。昨年11月に中国湖北省武漢市で感染

が確認された新型コロナウィルス(COVID-19)は、年が明けて世界規模に感染

が拡大。パンデミック(Pandemic)の様相を呈して半年が過ぎた。


  去る3月24日は私の68回目の誕生日でしたが、この日IOC(国際オリンピ

ック委員会)と安倍内閣総理大臣が電話協議を行い、第32回東京オリンピック

の翌2021年への延期を決めている。4月に入ってアメリカ(USA)やイタリ

アを始めとする欧州での感染拡大(感染者100万人突破)とともに、日本でも

感染者急増を受けて4月7日に安倍首相によって7都府県(東京都・神奈川・

千葉・兵庫・福岡各県・大阪府)を対象に緊急事態宣言を発出。同16日には同

宣言の対象を全国に拡大し、5月25日に解除されるまで約1カ月半にわたって

店舗の営業自粛や出社せずに自宅で仕事をこなすリモートワークなどが常態と

なった。


 その後も東京アラート(6月2日)やら東京都知事選挙(7月5日)などを

経て現在に至るわけだが、すでに感染発覚から9ヶ月が過ぎ、その間の出来事

も経緯を記す資料片手に確認しないと思い出せないようになっている。


 世界に目を転じると、もっとも深刻な感染者数と死亡者(率)の多さが深刻

なアメリカや、季節が北半球と反対になるブラジルの同被害の急伸を始め、西

欧やアフリカ、インドなど広範囲にわたって深刻な事態に陥る中、東アジアの

国々における感染者は比較的少なく、とりわけ死亡者数と感染に占める死亡率

の低さが際立っている。


 わが日本においてもそうなのだが、マスメディアの伝える報道は悪しきセン

セーショナリズムに乗り、米国や西欧諸国との相対化をデータに基づいて報じ

ることなく、いたずらに不安を煽ることで「劇場化」に邁進している観があ

る。視聴率を稼ぐ道具として扱っているとさえ思えるTVや客観的なデータで

事態の解析を試みようとしない既存メディアの報道姿勢はどうしたことだろ

う?


 科学的アプローチを怠って、情報を自らの利益のために扱っているとしか思

えない官民揃っての無責任きわまりないお祭騒ぎにも似た状況は、不信を通り

越して呆れる他はない。問題は感染者数の増減ではなく、重症化とその先にあ

る死者数の絶対数であり、それが世界の趨勢に比べて桁が二つも低い(現状で

1000人規模)である事実に触れずに、政府もメディアも不安を煽っているとし

か思えない姿勢でありながら、一喜一憂の如く”皆と一緒ならそれでいい”と

言わんばかりの従順さは何故だろう。素朴な疑問を抱いて不思議はないはずだ

が、市民社会に漂う”考えない従順さ”を強いる圧力は不気味でさえある。


●今回のCOVID-19パンデミック禍は間違いなく時代を変える


 率直に言って、感染症の専門家でもない私らが、断片的な知識の合わせ技で

あれこれ言っても仕方がない。メディアも知っていることと分かっていること

を適切に整理して、科学的なアプローチに徹する必要がある。未知のウィルス

である以上、不明の段階で右往左往しても始まらない。政府の方針をいたずら

に批判するのではなくて、経過を追いながらデータに注目して、問題を特定し

た上で評価する姿勢が必要だろう。この場合は感染者の絶対数ではなく、重症

化率やその結果としての死亡率で判断するのが合理的であるはずだ。


 医療の専門家と緊急事態における経済の専門家の知見を元に、適切な政策を

実行するのが行政の役割であるはずだが、行政官僚機構は基本的に責任を取ら

ない組織運営によって実績を積み上げた集団。いつも書いていることだが無謬

原則(自らは間違いを犯していないことを前提とした)による前例主義は、発

展途上段階ならいざ知らず、成長から成熟期に入った社会に対しては必ずしも

適切とは言えない。


 状況を正確に把握した上でのアップデートがないと変化した社会に対応する

ことが困難なはずだが、過去から現在に至る過程に誤りがないことを前提とし

ているだけに、柔軟な姿勢で臨むことが難しい。選挙で選ばれたわけではない

役人組織は、長い歴史に育まれた伝統に囚われやすく、個人の資質よりも組織

の論理が先に立ちやすい。そこを選良として選ばれた国政代議士がリーダーシ

ップを発揮して変化を促すべきところだが、強固に組織化されたプロフェッシ

ョナルな行政府(官僚機構)に対する政治家に官僚を御する人物がいない。


 おそらく今回のCOVID-19パンデミック禍は、それ以前と以後を明確に分け

時代の分水嶺となるに違いない。日本における感染拡大は、アメリカやブラ

ル、ラテンヨーロッパなど大きな被害をこうむった国々に比べれば遥かに軽

だが、世界がグローバル化して四半世紀。世界経済の停滞はちょうど100年

の20世紀二つ目のディケードに世界を変え、20世紀の本格始動を促した『ス

イン風邪』のパンデミックと世界恐慌から第二次世界大戦に突き進んだ歴史

繰り返しかねない状況にある。


  それまでの蒸気機関中心から内燃機関へとエネルギー革命をともなう変革が

訪れ世界のあり方がガラリと変ったように、時代は大きく変化する予感を抱か

せる。私は今年でちょうど自動車歴50年を数え、根っからの自動車人として内

燃機関を愛し既存のクルマで生涯を閉じたいと考えている者だが、ことによる

とここ数年で大きく時代が動くことになるのかもしれない。


●21世紀を俯瞰すると、日本車の未来は明るい!?


  すでに2020年であることを強く意識する必要がありそうだ。20世紀末に浮上

した資源・エネルギー・安全という、クルマがその誕生以来背負い続けてきた

重い十字架が存続を賭けた問題となって久しい。


  地球温暖化という"ちょっと怪しい"環境問題や、長年に渡って枯渇が喧伝さ

れながら一向にその気配を見せないエネルギー問題、テクノロジーによってか

なり克服が進みつつあるように見える安全問題などは、どうやら危惧されてき

た状況とは異なる方向に動き出したとも言われ始めている。


  これまでの国連による地球総人口推計では21世紀末には地球総人口は100億

人を突破すると見られていたが、どうやら今世紀中頃(2050年)にはそれまでの

人口増加から減少に転じるという説が有力になりつつある。2040~60年の間に

90億人のピークに達した後は減少に転じ、今世紀末には現在の75億人レベルに

戻り、その後は二度と増えることはなく減少を続けるという見方が有力になり

つつある。


  すると、かねてより懸念されていた人口爆発による資源・環境・安全の諸問

題は杞憂に終わり、テクノロジーの進歩にともなう人間の身体機能の補完技術

によって次ぎなる22世紀は自然と(デジタル)テクノロジーが調和した世界にな

る? 未来予測は実際にこの目で確かめないと俄かに信じることはむずかし

い。


 この場合、どうなるかという”アナタまかせ”の予測ではなくて、オマエは

どうしたいのかを述べる”ワタシの希望”を語るほうが建設的な気がする。こ

のところクルマの話題では全自動運転や次世代エネルギー車がホットコーナー

化しつつあるが、地球の総人口が今世紀央で減少サイクルにターンオーバーす

るということになると、はたして酷寒や酷暑の地では物理的な性能としても厳

しく、エネルギー供給のインフラ整備という面でも困難がともなうバッテリー

式電気自動車(BEV)が最有力のリソースになるとは思えない。


 動力性能やパッケージングの面での最適化やミニマイズによって既存の内燃

機関自動車を再定義した方が、リサイクルを前提とする持続可能な開発を目標

とする社会にはむしろ好都合ではないだろうか。世界的な覇権を握りたいアメ

リカ西海岸のTechcompanyの意見は異なるだろうが、限られた資源を有効に使

う日本的な発想は十分に競争力があると思うのだが。


●アウディ100(C3)は136馬力で200km/h超を実現していた。Cd=0.30


  ここで2020年8月の伏木悦郎からの提言を試みようと思う。まず第一に、す

でに1973年の第一次石油危機によって世界の自動車市場から撤退を余儀なくさ

れたアメリカ車と同様の意味で、日本車のヴィンテージイヤー1989年に280馬

力の自主規制を所管の運輸省に呑まされた和製ハイパースポーツに触発される

形で"アウトバーンの論理”を武器に技術的覇権を握ったドイツ車が、ここに

来て立ち行かなくなろうとしている。


 最初の躓きは、2015年にアメリカで発覚した『ディーゼル排ガス不正』にあ

る。火種はさらに遡る1990年代のベルリンの壁崩壊(1989年)にともなう東西

ドイツ再統合と、冷戦構造の終焉がもたらした電磁パルスの恐怖からの開放に

ある。旧東ドイツの復興が手かせ足かせとなる一方で、バブル崩壊後に国内市

場の拡大を諦めた日本車がグローバル化へと踏み出し、主戦場を国内から海外

市場へと大きくシフトした。


 ドイツ本国は日本の自動車市場(約500万台規模)よりもさらに小さい300万

台規模。EUの市場統一によってまずはヨーロッパでの覇権を握り、リスクを

取って早期に市場参入を決断(1984年のフォルクスワーゲン=VW)したこと

で今日の中国における外資系ナンバーワンの地位を得、EU以上に中国市場依

存を高めているが、1990年代はアップデートの真っ最中。1980年代のドイツ車

は質実剛健を地で行った。


 たとえばアウディ100(C3=1982年)などは2.1リットル直5SOHC136馬力

200km/hの巡航を可能にしていた。ボディの空力性能を徹底的に磨いて(Cd値

3.0)低燃費と高速巡航性能を両立させる新機軸は、当時の西ドイツの置かれ

立場を象徴する。翌1983年デビューのメルセデスベンツ190E(W201)も同様

きを放った。Cd値0.33という優れた空力性能を発揮する5ナンバーサイズ

ィに115馬力の2リットル直4を搭載して190km/hに迫る高速巡航性能を実

る。この他にも近く再上陸が予定されているオペルのベクトラでも同様の

のクルマ作りが話題を呼んだ。


  冷戦構造が強固な時代の(西)ドイツ車は、例えばエンジンの燃料供給にして

もフル電子制御化は避けられ、半電子半機械式のボッシュKEジェトロが用いら

れている。ドイツ車が電子制御デバイスに傾倒するのは1990年代の中頃以降。

それは電磁パルスを恐れた結果と見るのが合理的だが、日本車の充実が危機バ

ネとなったのと同時に、高出力・高性能=高速化にジャーマンスリーの全モデ

ルが歩を揃えたのは、日本車のキャッチアップ攻勢を振り切ろうとしたから。

そこにアウトバーンやニュルブルクリンク(北コース)といった環境がブランデ

ィングに効果的だったのは事実で、それが今でも日本の自動車メディアのある

種規範となっている。


  島国日本では、海外の現実に触れる機会は多くない。パスポートの保有率が

先進国としては異例に低い25%というデータが示すように、TVの情報番組に

よる”知っているつもり”が大半で、身を以て分かっている確率は極端に少な

い。それをいいことに自動車メディア/ジャーナリストはドイツ企業の”ジャ

ンケットツアー”に乗ってパブリシティに励む。すでにモータリゼーション元

年(1966年)から半世紀以上過ぎた現在にそれはない。昭和の発展途上段階で

あれば聞けたが、未だに昭和的発想でファンタジーを語る時代錯誤がこの国の

情報空間を歪めている。


●『縮みの文化』の再発見


 コロナ禍の中、少しずつではあるけれどニューモデルの試乗記が誌面やウェ

ブサイトに載るようになってきた。しかし、その語り口は相変わらずの昭和調

に留まっている。語られる高性能は、現実からかけ離れたファンタジックな走

行パターンであり速度領域の世界がほとんど。相変わらずパワフルであること

が評価を高めるポイントだし、レスポンスは鋭いことを良しとする。


 そもそも、世界的な流行だからといって諸手を挙げてSUVとカテゴライズ

される形態のクルマを良しとしたり、ドイツ勢の超高性能かつ高価格のクルマ

との対比でフェイズの異なる日本車を語ることの不条理を一考だにしない。


 日本車は、全生産の8割方を海外市場向けとしている。国内の500万台プラ

スの年間販売台数は、以前として中国・米国に次ぐ世界第三位の市場だが、そ

の内訳は40%近くが軽自動車であり、残る300万台ほどの5割をトヨタが占

め、そのまた残りをその他で分け合っている。この現実にきちんと向き合うこ

となく評価評論を展開することはできないだろう。


 前号でダイハツのニューモデルのタフト(TAFT)を例に軽自動車にアプロー

チしたが、こと走りのパフォーマンスという視点で言えば「軽でいい……では

なくて、軽自動車がいい」と断言できるレベルとクォリティに仕上がってい

る。かつてソニーの『ウォークマン』が世界的ヒットを生んだ"最小限のサイ

ズで最大の価値の創造"というムーブメントは、変化の激しい環境を生き抜い

てきた日本人ならではの自然観に根差しているようだ。


  残念ながら軽自動車は自然環境から生まれた必然の規格ではない。当初は国

民車構想に基づいて最少サイズで一家4人が移動できることを目指し、技術の

進歩とともに順次スケールアップされる過程を踏んだ。


 ホンダN360の登場をライブ感覚で知る。空冷4サイクル2気筒を横置き搭

載するFF2ボックスの新機軸は、水冷2サイクル2気筒のダイハツフェロー

MAXや同3気筒でRRレイアウトのスズキフロンテクーペSSにスバル360

(R2)、少し遅れて三菱ミニカなどといった競合ライバルとの熾烈なパワー

ゲームに晒されながらも”ブーム”の中核を占めた。


 1967年のデビュー当時の軽自動車枠は全長3m、全幅1.3m、排気量360cc以下

という今見るとビックリするほど小さい。全長で400mm、全幅で180mm、

排気量で300ccも増大した現行規格(1998年改正)と比べると32年の歳月を感

じるが、現在はその改正からすでに22年が経過している。


  元々日本には昭和末年(1989年)まで主流をなしていた5ナンバー枠(全長4.7m、

全幅1.7m、排気量2000cc以下)があり、それとの相対関係で軽自動車枠が規定

されてきた経緯がある。衝突安全や排ガス対策強化といった時代の流れととも

に軽自動車枠は緩和の方向となったが、運輸省・通産省・警察庁(公安委員会)

さらには大蔵省といった許認可権を握る所轄官庁という行政官僚機構が互いに

綱引きを演じながら国内市場という狭い島国の枠組みに押し止めている。


●コンパクトSUVは日本オリジン。今は逆輸入状態に他ならない


  軽自動車は、今や税法の枠組みとして存在する国内限定のドメスティックな

商品でしかなく、国内年間販売台数の40%近いシェアを占めている。今世紀に

入って日本車のグローバル化が鮮明となる一方で、現行規格の軽自動車は技術

の進歩の恩恵を受けておよそ国内の交通法規の下では上級の登録車と何ら遜色

ない実力を身に付けてしまった。


  ことにリーマンショック後の過去10年間(2010年代)の一向に改善されないデ

フレ経済下では、半世紀に渡ってほとんど改正されなかった道路交通法規の法

定最高速度にみられるように走りのパフォーマンスにおいて軽自動車が見劣り

することもない。少子高齢化が進む中ユーザーの40%が60歳以上だったり女性

ユーザーが65%を占めるというデータからみても必要十分なモビリティツール

として受け止められていることが分かる。


  そして、そのような人口動態の流れと前例主義の前に社会の変化に伴う制度

のアップデートを怠りがちな行政官僚機構による世界の潮流に後れを取る施策

が合わさって、クルマ離れや移動を楽しむ自動車旅行の衰退トレンドとなって

日本社会全体から活力を奪う結果となっている。


  日本人の多くが世界の国々の現実を身を以て知り、極東の島国で繰り広げら

れている暮らしは必ずしも世界のスタンダードではないと分かれば救いもある

が、パスポート保有率が25%という低率に留まる一方でTVの情報番組が伝え

る世界情勢で”知っているつもり”になっている大多数は疑うことを知らない。


 昨年来の新型コロナ(COVID-19)パンデミック禍によって世界経済はリーマ

ンショックを超えて20世紀初頭の世界恐慌並の混乱が必至といわれている。自

動車販売は軒並み低迷し、窮地に陥る国内外のメーカーも少なくないとされ

る。


  日本の自動車産業は2017年に2900万台を数える世界シェアを記録して以来暫

減傾向が続き、2019年は2780万台まで落ち込んだが、それでも国内販売の4倍

強という一国としては圧倒的といえるグローバル販売シェアを占めている。現

実問題として国内市場は全海外市場での販売台数の20%を下回る規模であり、

国内視点だけで日本の自動車産業を理解しようとすることは本質をまったく見

ないことに等しい。


 はたして現在の日本車に日本の走行環境や自然風土に根差したオリジナリテ

ィはあるだろうか。相も変わらずドイツを始めとする西欧メーカーのキャッチ

アップに没頭し、最大の自由市場アメリカでのマーケティングやブランディン

グの成果を”逆輸入”の形で受け入れている。


 その最たるものがSUV。元来アメリカで圧倒的な存在感を示すピックアッ

プトラック発祥のカテゴリーで、そのアイデアを日本流アレンジで小型SUV

として再構築したものが世界的なブームの発端。過去25年の歴史の中で再び主

力市場のアメリカの価値観で進化の過程を踏み、オリジナルといえるトヨタの

RAV4やホンダCR-Vの初期モデルのスケールから大幅なサイズアップで

現在に至っている。


●やがて整備新幹線などの公共交通機関の需要減で尻すぼみになる?


 日本におけるSUV人気は典型的な逆輸入パターンであり、世界のトレンド

として知っているつもり系のノリでブームの波に乗る安心感を得ているユーザ

ーがほとんどだろうが、公平に見てそれら国際商品化したSUVは過剰性の塊

であり、SDG's(Sastainable Development Goal's=持続可能な開発)が世界

的なテーマとなっている現実からはほど遠い形態という他ない。


  近代発祥の西欧は、これまでの行き掛かりから右肩上がりの成長を諦めるこ

とができず、クルマの評価も高速性能を指標に置いた高性能や快適性のための

大型化や高価格高級路線で優位性をアピールする姿勢を保ち続けている。


  一方でSDG'sを言いながら、相反する多消費型の矛盾を止めることなく上

を見続けている。西欧には日本的な自然観は存在せず、力ずくで押し通すこと

を忘れられない。近代化の価値観を改めないかぎりゴールは遠ざかるばかり。

ウォークマンの経験で強い意志で臨めば世界は変ることを知っているはずなの

だが、失敗のリスクを取って"これが日本流"だと世界にアピールするセンスの

持主が日の目を見ない状況にある。官主導で動く日本社会最大の問題点といえ

るが、今回のCOVID-19パンデミック禍は今まで通りには戻らない変革の予感

ある。


  モビリティはどうなるだろう。COVID-19感染拡大にともなう緊急事態宣言に

よって移動が自粛という形で制限され、通勤通学で朝晩にラッシュアワーを迎

えていた大都市圏の鉄道をはじめとする公共交通機関は軒並みガラガラ状態と

なった。飲食などの店舗の休業も相次ぎ、大企業を中心に通勤しないで自宅で

業務に従事するリモートワークが浸透した。


  密室空間で移動可能なクルマはパーソナルモビリティという本来の魅力が再

認識され、公共交通機関のように時間に合わせる必要のないランダムアクセス

性とともにその価値に対する気づきがあったはずだ。そもそも通信手段の発達

もあって都心のオフィスに通う時間的物理的経済的負担の無駄が認識された高

価は小さくない。生産性についても確認が取れたことも大きい。


  固定費が馬鹿にならない都心に大規模な社屋を持つことがテレワークが可能

な情報通信機器の発達が顕著になった時代にあっているかどうか。ことに大き

な震災が避けられない東京に拠点を構えるリスクは、持続可能な開発を求める

なら仕組みを考え直すきっかけとしても一考の余地がありそうだ。


  第32回東京オリンピックは開催中止となると見るのが自然というものだろ

う。COVID-19パンデミックがなければ同オリンピックは残り一週間を切った

佳境にあり、今見る景色とはまったく異なっていたはずだが、もはやそのこと

を意識して日々の暮らしを送っている人は稀であるに違いない。 


●キックスって、ゴーンロスの後ろめたさがありありではないか?


  ここに来て自粛ムードに覆われていた自動車産業界も少しずつ復旧の兆しが

見え、試乗会などのイベントを通じたリポートも目にするようになった。しか

し、語られるその内容は相変わらずという他ない。多くは私らが駆け出し時分

から試行錯誤で語り継いできた『昭和の試乗記』スタイルであり、語彙を含め

てアップデートされているとは思えない。


  そもそもベースがパブリシティであり、日本メーカー各社が申し合わせたよ

うにクロスオーバー型のSUV押しとなっていることへの疑問の声は聞かれな

い。COVID-19パンデミック禍は世界的な事象であり、海外市場依存度が80%

超える日本の自動車産業にとってはグローバル市場での状況の把握が最優先

れるところだが、従来通りの"試乗インプレッション" の語り口からそうし

状況の中にある現実感は伝わってこない。日本向けの相変わらずのお花畑の

ァンタジーでしかない東京発の情報が、多様な価値観が存在するこの国各地

ニーズに合うものか。


  走りのハードウェアの評価は、一見普遍性のある情報として理解されやすい

が、残念ながら日本中を走り回ってその多様性に富んだ走行環境や気象や地形

にともなう価値観を理解した上での話とは限らない。すでに昭和は平成の30年

を挟んで遠い彼方にある。少なくとも現在の50代半ばまでの現役世代は昭和の

発展途上段階を知ることなく、流儀だけは昭和風の"劣化コピー"であることを

自覚なしに報じている。


  時代の変化が明確になった以上、従来通りの自らのスタンスに情報を合わせ

て経験したこともない昭和の価値判断の真似をしてリポートと称していること

に畏れの感情を抱く必要がある。今週中に日産の新型SUV『キックス』を開

発者と差しで試乗する機会が用意されているが、パブリシティに沿った絶賛に

は身構えて接しようと思っている。日産の窮地は2018年11月19日のC.ゴーン

元会長の逮捕・起訴によって顕在化した。


 私見では日産の5年生存率は限りなくゼロに近いと考えているが、あのスキ

ャンダルが露顕した当時から今もなお口を閉ざしている同業者が、あたかも白

馬の王子のような立ち居振る舞いで窮地の日産の応援団に回っているのだとし

たら、無垢のユーザーや読者に対する背信行為でしかない。そもそも何故ここ

に来てブランニューなのか。日産には欧州でクロスオーバー型SUVのトレン

ドを作ったキャシュカイやジュークといったベストセラーが存在した。


 そのヘリテージを活かすことなく、新たにブランニューで勝負する。潔いと

いえばそうだが、日産はムラーノに始まる都市型クロスオーバーSUVのジャ

ンルでトレンドセッターとして実績を持つ先駆であり、デザインでシェアを手

に入れて市場を創造していた。ここでキックスという過去を清算して出直すと

いった意図が明白な企画を貫いたところに無駄と無理を感じる。


 すべては試乗してから明らかになることだが、乗って走る曲がる止まるのレ

ベルを抽象的に語るパターンしか見て取れない内容にするつもりはない。読者

や視聴者としては従来通りのスタイルの方が馴染みがあるし理解しやすいとい

う価値観を持つかもしれないが、そもそも今までの語り口で知っているつもり

になっていたことの怪しさに気づく必要がある。なにしろ、日本の道路交通法

に定める法定最高速度は依然として100km/hに留まっている。それを上回る速

度域での話をドラマチックに語られても、現実は変わらない。


●軽自動車で足りないのはデザイン的厚み。これに尽きる


  私の意見では、無謬原則とそれに基づく前例主義によって時代に合わせてア

ップデートするリスクを負わずにここまで来た行政官僚機構の怠惰を今こそ追

及すべきだと思う。北は北海道から九州沖縄までという、気候や地形といった

自然環境が別の国といえるほど異なる多様性の宝庫なのに、中央官庁による共

通の法律で選択の余地を与えていない。過疎の鳥取/島根県と過密の東京都を

一律の法律で抑えつけるなんて愚策の極みというほかはない。


 東京に居を構える霞が関の省庁(中央行政官僚機構)が、許認可権を背景に

した既得権益を楯に変化する世界情勢とは無関係の後進性にこの国を追いやっ

ている。今回の感染症拡大でも無為無策や情報の透明性の欠如が露になった

が、選挙で選ばれた訳でもない官僚が、長い歴史の積み重ねを持つ組織の論理

を楯に国民の公僕としての立場を忘れて省益や個人的な損得勘定に走ってい

る。


 国権の最高機関であり国民の代表として選ばれた議員や与党内閣の力不足も

あるが、許認可事業の自動車の場合所管省庁の権限の前にメーカーは積極的に

動けない。メディアの出番はここからあるはずだが、権力の構造を理解してた

だす相手を見ていない。ここから手を付けないと、末端のクルマの現状をいく

ら説いても問題の解決には至らない。


 すでに国内販売に占めるシェアからも明らかなように、日本の現行法に則す

るなら軽自動車が最適解となるのはまず間違いない。趣味や嗜好にこだわれる

経済的な余裕と環境に暮らす人なら話は別だが、こと走りのパフォーマンスで

判断するなら現行の軽自動車は必要かつ十分な資質を備えている。


 しかし忘れてならないのは軽自動車は税制の枠組みで作られた法制度の賜物

で、クルマの理想を追及した結果として生まれたものではない。40%に迫る高

い国内販売シェアを持ち、技術的にも日本の自動車産業の最先端を盛り込む余

地がある。であるなら、税制の枠組みから離れて国際商品に仕立てることこそ

が21世紀のクルマ作りではないだろうか。


 クルマの価値を左右する最大要件のデザインを魅力的にするディメンション

とミニマムサイズのバランスを取り、高い燃費性能と走りのデザインを練り込

んで”小さいけれど魅力的”と言わせるコンパクトカーの理想に迫る。全長は

現在の3.4mから最大で200mm程度、全幅は同じく1.48mから120mm程度まで

拡大して、総重量の大幅な増加を見ることなく排気量は800~1000cc辺りの自

然吸気とする。 


  すでに先日試乗したダイハツタフトでも明らかになったように、DNGA(Daiha

tsu New Gloval Architecture)の採用によって上級の登録車と変わらぬ商品的

魅力を身に付けている。ホンダのNシリーズでも顕著な傾向だが、従来の軽自

動車の概念で作られているのではなく、一般的な登録車を軽自動車の枠組みと

してあるディメンションで形作ったクルマというのが現在の軽自動車の実像と

いっていいだろう。


 リソースがここまで整っていて、しかもSDG'sという大きなテーマにもフ

ルコミットできるという可能性も含めて、法的枠組みにある規格を変えて世界

の評価を受けるべきところではないだろうか。消費燃料を従来の半分にしつつ

新たなデザイン的価値を付与する。新しいスモールカーが魅力的な存在として

世界中で受け入れられるタイミングとして、今ほど条件の整った環境はないと

思う。                                

                                   

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 まぐまぐ!メルマガ『クルマの心』第391号2020.7.28再録 。

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           伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』 

             第391号2020.7.28配信分



●N360以来の軽自動車贔屓。かつての私有車にフロンテクーペありなのだ


 久しぶりに日本の自動車メーカーの報道試乗会に参加してきた。ダイハツの

TAFT(タフト) 。完全子会社化したトヨタのスモール部門ダイハツがコロナ禍

で沈んでいる最中に発表に踏み切った軽自動車のフルモデルチェンジで、流行

のSUVテイストでまとめられている。


  WEB上で写真を一瞥しただけで「これはアリかも……」と思わせた。クルマ

にとってfirst coneactはとても大事だ。サムネイルサイズの小さな写真でも

目に留まる輝きを持つこと。スタイリング/プロポーションといったデザイン

要件は、クルマの商品価値の中でも最重要となる魅力の根源だ。好みは十人十

色で様々あって構わないが、優れたデザインには共通する華があるものだ。


 考えてみると、日本の専売カテゴリーといえる軽自動車は、世界に通用する

共通の価値観とは異なる特異な存在といえる。全長3.4m、全幅1.48m、全高2m

以下という3ディメンションで、エンジン排気量は660cc未満という制限規定。

元々、現代的な軽自動車は1967年のホンダN360の大ヒットに始まり、スズキ

のフロンテやダイハツフェローMAXなどが鎬を削りあった全長3m、全幅

1.3m、全高2m、排気量360cc以下という第一次軽自動車ブーム時代の延長線

上にある。


  時代背景としては、1966年(昭和41年)と記憶される『モータリゼーション元

年』と相前後したタイミングだった。私事で言えば、1968年が16歳で軽自動車

免許が取得できた最終年(9月)であり、家業が酒屋や米屋の同級生が競い合う

ようにしてN360ツーリングSを買い求めた鮮烈な想い出がある。


  以来、スズキアルトやダイハツミラといったボンバンタイプ(貨物軽自動車)

がアルトの47万円という低価格設定や諸経費の安さ低維持費を理由に注目され

た時代(1975年)の全長3.2m、全幅1.4m、全高2m、排気量550cc以下。やはりス

ズキがトールワゴンという新境地を開いたワゴンRの登場を促した全長3.3m、

全幅1.4m、高さ2m、排気量660ccへの規格改定(1990年)、そして現行規格とな

る全長3.4m、全幅1.48m、全高2.0m、排気量660cc(1998年)とつながる。


  全長、全幅のスケールアップは年々注目度を増した衝突安全に対応して成さ

れたものだし、排気量660ccへの流れはそれに伴う重量増を考慮したもの。と

はいえ、最後の規格改定からすでに22年が経過している。この間の技術の進歩

は当然のことながら軽自動車にもハード/ソフト両面で活かされた。2000年に

は高速道路での法定最高速度が80から100km/hへと登録車と同じになっている。


●ハードとしての軽自動車は世界的な商品になる可能性を秘めている


  まるで低い天井に成長著しい若者の背が伸びて頭が届くかのような事態だが、

世界の潮流とはかけ離れた価値判断を持つ政府行政官僚機構は自らリスクを負

わない無謬原則に基づく前例主義を一貫して保ち続けている。


  国内の道路交通法に照らせば、頭を抑えつけられた登録車が下克上よろしく

年々技術の蓄積を高めてレベルアップする軽自動車に追い詰められるのは道理

という他はない。過剰性の海で溺れかけている国内使用環境における登録車

は、軽の上位に位置しながらその優位性を走りのパフォーマンスで示すことが

叶わない。1962年の法改正以来半世紀以上、58年間1km/hたりとも引き上げ

られることなく、世界的な評価を受ける日本車の実力を自国民たる日本人がそ

の恩恵を享受できないままに据え置いている。


 同調圧力の激しい日本では、お上に逆らって和を乱す者は異端扱いされやす

いが、グローバルで評価されている日本車の実力を法の下で不当に制限を加え

ることの”ことなかれ体質”は率直に指弾されていい。過剰に安全性を求める

昨今の風潮は、欧州やアメリカでの道路交通を経験した者としては何とも歯痒

い。本来得ることが出来た自動車モビリティによる豊かさの実感を大幅に制限

されていただけでなく、およそスムーズなモビリティを享受するのとは真逆の

速度超過で罰金/反則金を徴収するなど、まるでクルマを所有/使用すること

が悪であるかのような行政が延々と続いている。


 現実を疑うところからイノベーションは生まれるという。本音と建前を使い

分けて、現在の日本車の実力を持ってすれば普通に走ればそれこそ誰でも違反

を犯してしまうような不思議な道路交通法制が放置され続けている。そこに所

管の省庁の許認可権につながる既得権益の存在を疑わない方がどうかしてい

る。


 ことほどさように、というところだが、日本以外にはほとんど市場性を持た

ない軽自動車が、年間自動車販売シェアで40%前後を占めている現実の危うさ

を語るメディアの少なさに日本におけるジャーナリズムの不在が顕著に表れて

いる。既存の自動車メディアが、商業ジャーナリズムの立場から自動車産業寄

りのポジションを取ることは理解できないではない。


 しかし、出版メディア不況を背景にした企業や行政のパブリシティの垂れ流

しに甘んじ、自らのサバイバルのためにそれらの情報を合わせようとする姿勢

を続けることはもはや限界だろう。目をグローバルに拡げて、国際競争に勝ち

抜くことなしにこれまでのような繁栄は二度と戻っては来ない。


 今まで通りでことが進むと思うのは勝手だが、日本だけが世界の自動車供給

の30%近くを維持できたのは仕向け地に徹底的に適合するクルマ作りに徹した

から。そこには日本国内で醸成された文化的土壌を背景とした日本車らしさは

なく、日本人の知らない日本車が世界中で高く評価されているにすぎない。


 要するに、現在国内販売されているクルマの少なくとも4倍以上(約2000万

台)は、日本における価値観とはまったく異なる次元の、日本人的発想とは相

容れないところで評価されている。


●日本人のほとんどが、世界は今ある日本の現実と同じだと思っている


 なにしろ、日本ではクルマが走る前提となる道路交通法の根幹を成す(と敢

えて言ってしまうが)法定最高速度が半世紀以上にわたって低く抑えつけられ

る中、バブル期までは国内販売と貿易輸出が拮抗(ピークの1990年には国内販

売台数は史上最高の777万台を記録。国内総生産台数は約1350万台。海外生

産台数は約330万台)していたが、ポストバブルの国内市場収縮(約500万台前

後)によって国内/国外の生産及び販売台数は大きく逆転。生産は最大で1対

2、販売に至っては同1対4強と圧倒的に海外市場優位となっている。


 しかも、国内販売に目を向けると、使用環境における道交法などの法規制の

停滞により登録車(普通車)の届出車(軽自動車)優位性がほとんど消失し、

2008年に顕在化した人口減少に伴う少子高齢化などの要素も加わって、2014年

には全自動車販売における軽自動車のシェアは40.9%まで拡大した。この年に

行なわれた消費税増税(5→8%)や翌年度から実施された軽自動車税の増税

(7200→1万800円)に対する先食いもあったとはいえ、全販売台数約556万

台の内約227万台をほとんど日本以外に市場性を見込めないKカーが占めた。


 要するに、日本人が日々の暮らしで見ている光景は、軽自動車が存在しない

この島国以外の国々には存在しない。その意味で特別な状況の下で自動車メデ

ィアは情報を展開しているわけだが、目の前にある現実が世界中の国々でもほ

とんど変わらないだろうと考えるのが国籍に関わらず人情というものだろう。


 多くの場合、雑誌を中心とすく出版メディアは東京に集中している。当然そ

の守備範囲(せいぜい首都圏)まわりの現実が情報の核となる。このことは後

で触れることになるが、首都圏や中京、阪神といった大都市圏とその他の地方

では根本的に状況が異なる。公共交通機関の整備が行き届かない地域の現実は

クルマを所有する必要性が希薄になるほど移動手段が完備した大都市圏のそれ

とは別の国ほどの違いが存在しているのだが、そのことを情報として取り扱う

自動車メディアはほぼ皆無といえる。


 東京の現実が日本全国に共通するリアルであるかのようなギャップが、必ず

しも狭くて小さな島国とは言えないこの国に暮らす人々から世界中に多様な価

値観が存在する事実を背けさせている。


 すでに21世紀に入ってふたつのディケードが過ぎて、軽自動車が現行の規格

で開発が続けられて20年以上の技術の蓄積を手に入れている。世界を制した日

本の自動車産業の実力の一端は間違いなく軽自動車にも手厚く注がれている。


●走り出して1分もしないで、「これは良い」と直観した


 さてダイハツ・タフト(TAFT)である。形態としてはスズキワゴンRによっ

て開かれたトールワゴンの系譜であり、直近ではホンダのN-BOX、ダイハツタ

ント、スズキスペーシアなどと一脈を通じる。限りある軽枠を最大限に活用し

て、スクエアな直線基調に巧みに表情を加え、軽妙なタッチでSUV感覚を盛

り込んでいる。


 仕上がり具合としては、ホンダがN-BOXに連なる新世代軽自動車で試みた流

儀に沿う。すなわち、従来からの軽自動車の常識に囚われることなく、登録車

(普通車)を軽自動車のスケールで作り上げた仕立てとなっている。


 これは昨今の軽自動車全般に共通することだと思うが、もはやかつての軽自

動車のような利幅の少ない薄利多売で採算を見込むようなビジネスモデルなど

ではなく、十分に儲かる小さなフツーのクルマと化している。


 そのことは値付けを見ても明らかだろう。メーカー希望小売価格を見ると最

上級のGターボ4WDが1,732,000円、G(NA)2WDが1,485,000円、ベーシック

なX2WDが1,353,000円(いずれも2WDと4WDの価格差は12万6500円)と、

1975年のスズキアルト47万円とは正に隔世の感がある。ADAS(運転支援シス

テム)や情報周辺技術の採用によって高コスト化したとはいえ、値付けにかつて

のお気軽軽自動車の雰囲気はない。


  内外装の仕立てやデザイン/テクスチャーに掛けるコストはBセグメントの

登録車と何ら変るところはない。むしろ、購買層が年季を積んだ高齢者だった

り、メカニズムには疎い反面テクスチャーという感覚的な商品性にこだわる女

性がメインカスタマーだったりすることを考えると、現実的な要求水準は思う

以上に高いということなのだろう。


 そのことは今回の試乗の際に配布された『軽自動車の役割と貢献』と題され

た広報渉外室政策の資料にも明示されていた。


 まず第一に軽自動車は地方の貴重な交通手段として活躍している、とある。

今や地方における軽自動車は公共の乗り物であり、鳥取、佐賀、長野、島根、

山形といった軽自動車の世帯あたり普及台数の上位自治体と東京、神奈川、大

阪、埼玉、千葉といった普及下位自治体の対比からも明らかだという。


 たとえ東京都であっても、公共交通機関が充実した23区やその周辺市部と東

大和、武蔵村山、あきる野、羽村、青梅の各市や西多摩郡の奥多摩・日の出・

瑞穂町や島嶼部での軽依存率は歴然としている。


 また軽自動車ユーザーの65%という高い比率で女性が占め(乗用車全体では

48%)、主運転者が60歳以上である比率も40%(乗用車全体では32%)に達す

る。さらにAEB(衝突被害軽減ブレーキシステム)も2019年度で92%の装備

を達成していて、政府目標を1年前倒しでクリアしたという。


●軽自動車でいい……ではなく、これが良いと思えるクルマ。


 つまり、従来は明確に存在した軽自動車と普通小型車の商品性に関する格差

はほぼ消失しており、軽自動車が持つコンパクトさや維持経費の軽さが額面通

りのメリットとして受け取れるようになっている。


 と、ここまで来ると、警察・公安委員会が許認可権にこだわって国内でしか

通用しないコンパクトサイズに留めたり、シェアの増大にともなう登録車から

の税収の目減りを補う自動車税の引き上げなど、行政官僚機構にありがちな内

向きの対応による時代錯誤は早急に解消される必要を感じる。


 軽枠という国内でしか通用しない窮屈な規格に押し止めて、権限の及ぶ範囲

を維持し続けようとしている。そうとしか思えない実情と唯々諾々と従ってい

る”お上”意識の強い「皆と一緒ならそれでいい」と考える国民性。これはも

う変えてアップデートさせないと、気がついたら世界最後進国にならないとも

限らない。


 クルマの仕上がり? これはもう激化する軽自動車のシェア争いを目の当た

りにしているような力の入りようを感じる。直線基調のスクエアデザインは、

ディメンション的に制約の多い軽自動車の現実を逆手に取って、潔く機能性重

視に振った上での切れ味の良さがある。


 クロスオーバー的なアプローチは、ジムニーやハスラーなどキャラクターの

濃いSUVバリエーションを有するスズキ勢や都会的センスのハイトワゴンや

S660のような独自路線を行くホンダとは違う、いい意味での関西趣味。ほん

の小さな画像で”いいかも”と思わせるセンスは他ブランドとは明かに異質だ。


 感心したのは、室内の居心地の良さだった。ドアを開けてシートに収まる。

ごくありふれた動作だが、シートの十分なサイズがもたらす安心感はちょっと

した驚きだ。全幅は1480mmと限られていて、室内幅も他の軽自動車同様十分

とは言えないが、ガラスルーフを配してもなお十分な室内高と外形デザインか

らすると意外なキャブフォワードによるAピラー/カウルトップの前進が奏功

して窮屈な印象を排している。


 ステアリングホイールやシートクッションが生む剛性感といったテクスチャ

ー回りに掛けたエネルギーも中々で、昨今のKカーに共通する軽自動車という

ボトムカテゴリーに乗っているという劣情はほとんど湧き上がらない。ドライ

ビングインターフェイスはメーターナセル、大型モニター、セレクターレバー

を配したセンタークラスターのレイアウトによって巧みに上級感を演出する。


 これに加えて、必要十分といえる動力性能が後押しをする。まずは660cc自

然吸気の3気筒12バルブDOHCは52ps(38kW)、6.1kgm(60Nm)のGグレードを

試したが、私としてはこれで不足は感じない。CVTとの組合せに限られてお

り、その走りの好みには賛否あるだろうが、現代的な都市型の使用パターンに

おいては余程の過酷な地理的ロケーションでないかぎり不都合はないはずだ。


  このタフトにはDNGA(ダイハツ・ニューグローバル・アーキテクチャー)と称

される新しいプラットフォームが採用されている。トヨタのTNGAで培われた

ノウハウが活きたものに違いないが、パブリシティはともかく乗って走って操

る中で感じる確かな手応えは、率直に認めていい。従来の軽自動車とはひと味

違うタッチ。それがテクスチャー(手触り)として感じられたというのが本当の

ところだろう。


  次いでGターボ(NAとも2WD)を試したが、基本的にはノンターボとの違いは

大きくない。スロットルを大きく開けた際のトルクの厚みは64ps(47kW)、10.2

kgm(100Nm)に相応しいものがあって、最大トルク発生回転数がNA・ターボと

もに3600rpmという条件を考えると歴然という評価になるかもしれないが、

CVTにありがちな回転上昇の軽さとNAのトルク感の掛合わせが、これはこれ

で良いのでは……と思わせる。


  DNGAによる車両重量はNA、ターボそれぞれ830、840kg。登録車とスピード

を競い合いたいと思うなら話は別だが、ターゲットユーザーたる女性や高齢者

層の価値観にはむしろNAのほうが合うはずだ。高速道路でも法定最高速度+20

km/h辺りまでの巡航ならNAでも不足はない。ともすると、西欧近代の価値観

に染まって300km/h超のスピードをベースに序列を敷こうとするメンタリティ

から離れられない評価者が依然として少なくないが、ファンタジーをベースに

リアルワールドでの評価を語るのは健全ではない。


  誰が乗るのかを考えない評価で己の価値観を押しつけるのは経験不足から来

る未熟と知る必要がある。まだ経験の浅い若気の至りであるならば、それは誰

でも一度は罹る通過儀礼なので悪いとは言わないが、40、50のいい年をして若

ぶるほど無粋なものもない。60過ぎてなお枯れることも出来ずにトータルな世

代間評価も出来ないようでは、いつまで経っても日本車の成熟は訪れない。


  以て銘ずべし。クルマに乗るのは10代から個人差のある最高齢領域までまち

まちであり様々だ。歳を取らないと永遠に知り得ない世界がある。それに気が

ついた時に始めて、若さの魅力と価値が分かる。人のプロセスを通じて語れる

自動車ジャーナリストが何代か巡った末に、クルマ文化が成熟していく。そう

いうことではないだろうか。 


  今私が注目している(余裕があったら買いたいと思う)軽自動車を列記してお

こう。スズキジムニー、ホンダN-ONE(この秋デビューと噂される新型の6MTモ

デル)、ホンダN-VAN、ダイハツTAFT(燃費性能も加味してNAモデル)。以上


  デザイン、コンセプトに輝きがあり、独自の世界観を有している。日本車の

中でその気にさせる登録車はそんなに多くはない。

                                   

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2020年9月2日水曜日

まぐまぐ!メルマガ『クルマの心』第390号再録 。

有料講読(880円/月:税込)は下記へ。

https://www.mag2.com/m/0001538851 

スマホは画面を横にしてお読みください。縦だと段落がズレます。


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           伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』 

             第390号2020.7.21配信分



●マツダロードスターから透けて見える未来


 マツダロードスター(MAZDA MX-5)、四代目となる現行モデルはNDの型式

名で親しまれている。1989年の初代からNA、1998年NB、2005年NCと来

て、2014年9月舞浜アンフィシアターでワールドプレミア。スペインのバルセ

ロナとアメリカ・カリフォルニア州モントレーで同時開催となった。あと一月

余りで丸6年、2015年5月の発売から数えても5年余の歳月が流れたことに

なる。


 過去の例を辿るとロードスターは7~10年でフルモデルチェンジされてい

る。初代NA型はバブルの絶頂期に、マツダが国内シェア拡大を期して展開し

た販売5チャンネルの一つユーノス店のブランドアイコンとして位置づけら

れた。


 当初のユーノスロードスターという車名に懸けられた国内市場向け呼称(後

にマツダロードスターと改称)と、マツダMX-5ミアータと命名された海外

向けタイトルの間にあるギャップは、ついこの間まで存在した内外別呼称にみ

られる市場認識が垣間見れて興味深い。


 一方でロードスターは、当初からグローバル市場が企画の要となっていた。

特に最有力市場の北米での成否が至上命題として掲げられ、同市場の現地スタ

ッフの支持がなければ日の目を見ることはなかったと言われている。それにつ

いては歴代モデルすべてに共通する課題であり、スポーツカーに極端なほど冷

淡な日本の社会システムに対して常に現実的な対応を取ってきたマツダの経営

陣と見識と開発陣の熱意には経緯を評する必要がある、と思う。


 小型軽量小排気量(1.6リットル)という英国発祥ライトウェイトスポーツ

(LWS)コンセプトの復刻。といえば格好良いが、実際には社内的にも軟派

なスポーツカーを支持する勢力は少数派で、希少なリソースであるエンジンの

選択肢は限られたという。1.6リットルで120馬力という当時のレベルでも優秀

とはいえない汎用エンジンB6-ZE型の搭載は望んだ形ではなく、選択の余地は

なかったと言われている。


  しかし、この非力なパワーユニットの採用が"知恵で価値を創造する"という

このクルマ本来の魅力の源泉になったのは間違いない。当時の技術力では高出

力/高トルクに対応できるオープンボディを用意できる技術力はなく、何より

も世界中で途絶えて久しいLWSという形態に対応する知見は枯渇していた。


 2リットル以下の小型車クラスは、当時まだ5ナンバー枠が主流の日本車が

もっとも得意とするところ。その意味では実に的を射たチャレンジと言えた

が、時あたかも誰もが上を向いて歩こうとしていた熱狂的な時代である。


●世界のブランドスポーツを追い詰めたのは紛れもなく日本車だ


 奇しくもロードスターがデビューした1989年に登場した日産のスカイライン

GT-R、フェアレディ300ZX、インフィニティQ45は、いち早く国産車初

の300馬力をカタログに掲載する実力を手に入れていた。時代はバブル景気に

沸く”イケイケ”気分が充満していたが、一方で『第二次交通戦争』と呼ばれ

るほどクルマの安全性が社会問題化していたタイミングでもあった。


 一計を案じた許認可権を握る所轄官庁の旧運輸省は、日本自動車工業会(自

工界)を通じて性能表記を280馬力に留める自主規制を”行政指導”。輸出モ

デルについては300馬力の表記を認める一方で、国内市場向けには長く280馬力

の自主規制値が徹底された。


 現代目線で過去を測る昨今の風潮は憂えるべきものがあるが、実はこのバブ

ル期の日本車のハイテク/ハイパフォーマンスのトレンドが世界のパワー競争

に火をつけている。日産のR、Z、Q45を皮切りにトヨタのセルシオ

(LS400)、スープラ、ホンダNSX、三菱GTO、マツダユーノスコスモ……と

続いた国内280馬力自主規制、海外300馬力超の日本車集団は、欧州の名だた

る老舗ブランドを震撼させた。


  1989年登場のポルシェ911(964)は250馬力、ニュルブルクリンクを荒し回っ

たスカイラインGT-Rに追い詰められて2年後の1991年に930時代からキャリー

オーバーの3.3リットルターボを投入するが320馬力であり、3.6リットルター

ボ(360馬力)が溜飲を下げるのはさらに2年後の1993年の事だった。


 もう一つの世界的ブランドであるフェラーリも、当時FIAのF1世界選手

権で鎬を削りあったホンダがNSXを米国ACURAブランドのフラッグシップと

してローンチした1990年の主力モデルは348。3.4リットルV8で300馬力だっ

た。当時(も今も)世界最大のスポーツカー市場アメリカ向けアキュラチャンネ

ルのブランドアイコンとして企画されたNSXは日本では280馬力自主規制を守

らされたが、輸出仕様はNA3リットルV6で楽々300馬力を得ていたとされる。


  モーターレーシングの最高峰F1GPで1.5リットルターボ時代からNA3リットル

V12の全盛期までマクラーレンとともにシリーズを席巻し、導入したテレメト

リーシステムでF1の世界を一変させたホンダ。バブル崩壊を受けて撤退した後

にホンダは自ら構築したテレメトリーをかつてのライバルフェラーリに技術供

与してフェラーリの復活に寄与したという逸話が示すように、フェラーリのク

ルマ作りにも多大な影響を与えている。


  世界的な名門ブランドの意識を根底から変えたのがバブル期の日本メーカー

だったことは疑いようのない事実だが、30余年前のバブルの絶頂期は日本中が

熱病に冒されたように上を見る中で真逆を行くコンセプトを評価するのは勇気

が要った。今でこそ諸手を挙げてロードスターを評価するのがあたりまえにな

っているが、当時は10%もいたかどうか。


●マツダが広島に本拠を構えていることの最大のメリットは何か?


 リアルワールドの走りの魅力に注目する企画の正しさは、世界中の名だたる

自動車メーカーが争うようよ追従したことからも明らかだが、日本国内に渦巻

く西欧コンプレックスはより大きく、よりパワフルで無闇に速いクルマを過剰

に評価する熱病の最中にあった。


 すでにデビューから30年を重ね、100万台超のグローバル販売を実現したス

ポーツカーとしてギネスブックにも載る成果を残した現代目線と当時の認識に

は当然のことながらズレがある。現代的解釈によるLWSの再定義は、11年前

の1978年に発表されたサバンナRX-7以来の注目すべき”事件”だったが、

ロードスターが今ある評価を得るには長い時間が掛かっていることを知る必要

がある。


 マツダは古くから外国市場での評価がブランド価値の大半を占め、ライバル

は国内よりも欧州やアメリカなど自動車先進国の老舗ブランドだったりする。

東京から約800km西に位置する分西洋に近いと巷間言われるほどに、デザイン

にしてもテクノロジーにしてもトヨタ・日産・三菱・ホンダといった関西以東

の大都市圏に本拠を構える国内5大ブランドとは異なる文化的土壌で歴史を重

ねて来た。


 サバンナRX-7(SA22C)は、紛れもなく世界最大の自動車自由市場にして

モータリゼーションの母国として100年超えの歴史の積み重ねを持ち、クルマ

のトレンドセッターとして今なお強い影響力を有するアメリカ市場の存在なし

に世に出ることはなかった。


  アメリカは、1908年に史上初の流れ作業によるマスプロダクションを実現し

て20世紀を『自動車の世紀』として社会の変革に大きな影響を与えたクルマの

母国。ヘンリー・フォードの"モデルT”が1927年の生産終了までの19年間で

約1500万台も作り続けられた。無数のベンチャー企業の中から淘汰されたGM

(ゼネラルモータース)とクライスラーにフォードモーターカンパニーを加え

たビッグスリー(ミシガン州デトロイト)が1973年のオイルショックを契機に

世界の檜舞台から退くまで、アメリカ車は一貫して世界中の憧れであり”大き

いことは良いことだ!”に象徴されるアメリカンライフは世界に目指すべき道

を示し続けていた。


 現在アメリカでは、常に限界効用の壁を意識させられる製造業から情報産業

へと21世紀のテクノロジーを背景にした構造改革が進み、自国の自動車産業は

相対的に衰退し、日本メーカーが市場の40%近くを握る(韓国・ドイツを合わ

せると50%に迫る)という脱モノ作りが際立っているが、クルマを消費する文

化的土壌は今なお世界のトレンドセッターとして機能する。


●ユーノスロードスター(MAZDA MX-5MIATA)はまったくのノーマークだった


  マツダがロードスターを企画・開発・生産・販売するプロセスで、米国市場

が念頭から外れたことは唯の一度もない。初代NA型はもちろん、キープコンセ

プトのNB型、フォード傘下に下ってその存続のために上級志向に走る必然のあ

ったNC型、そしてリーマンショックを経てフォードの傘の下から外れることで

『原点回帰』に立ち返る幸運を得た現行ND型……。


  すでに”なってしまった現実”から過去を想像するご都合主義に染まる前に、

歴史に学ぶ謙虚さが必要だ。そもそも初代NA型ロードスターMAZDA MX-5 

MIATAがアメリカシカゴ国際自動車ショー(1989年2月)でワールドプレ

ミアされたことの意味を理解できない日本人は少なくない。


 何よりもこのクルマの登場を事前に知る部外者はほとんどなかった。徹底し

た機密管理の下、噂にも上ることもない。現行NDロードスターもそうだった

が、右肩上がりの永遠の成長が信じられた1980年代は熾烈な国内シェア争い

が展開された時代である。


 今以上にハイテク&ハイパフォーマンスに人々の目が行き、高出力/高速性

能を基本とする高性能化と、目先の変化を求める価値観に対応する多様化と大

型化、時代のトレンドとしてのFF化から4WDへの流れに対して小型FRのライ

トウエイトスポーツは人々の視野の外にあった。活気を帯びる自動車メーカー

の意向に沿うべくトレンドを形成する役回りを演じた雑誌メディアでもLWS

に注目す勢力はごく限られた少数派であり、現在のマツダロードスターが支持

されるような環境にはなかった。


 自動車ジャーナリズムの世界に入って12年目を迎え、FR駆動レイアウトに一

家言持っていた私ですらまったくのノーマーク。しかも、同年9月の日本市場

での発売に先立つ4カ月前の1989年5月に米国において先行販売がなされてい

る。


  ともすると、現代日本人は昭和の気分そのままに日本メーカーや日本車を日

本の国内目線で語りたがるが、平成の30年を過ぎて今は令和も2年であり、日

本メーカーがグローバル化に踏み出してた1995年からすでに25年。海外生産拠

点が国内を上回り生産台数オーダーで約2倍、販売比率で言うと国内1に対し

て国外4を大きく上回るほどに様変わりしている。


 実は国内市場が沸騰していた1980年代においても日本メーカーの世界生産の

およそ半数は国外市場向けであり、破格の円安為替レートの恩恵もあって貿易

黒字の稼ぎ頭となっていた。マツダMX-5ミアータ(ロードスター)は、グローバ

ル市場においてゲームチェンジを促す起爆剤になったという意味で、国内市場

専用のスカイラインGT-R(R32型)とは次元の異なる資質の持主でもあった。


  蛇足次いでに、私は1987年からCOTY(日本カーオブザイヤー)選考委員を委嘱

されていて3度目の10ポイント(COTYではノミネート10台の中から5台に持ち点

の25ポイントを振り分け、最優秀候補に10ポイントを配点するルール)として

ユーノスロードスターを選んでいる。微かな記憶では同車に10点を振り分けた

選考委員は全60名の内10人もなく、COTYはトヨタのセルシオ(レクサスLS400)

の頭上に輝いた。


●「今ステアリングを修正したな?どんな感じだ??」


  さらに余談を続けると、ヴィンテージイヤーとして振り返られる1989年は、

年初の昭和天皇崩御(1月7日)にともなう自粛ムードからそれまでのバブル景気

とは打って変わる雰囲気となった。自粛は前年9月の天皇の容態悪化報道後か

ら始まった。


 有名なところでは井上陽水がスカイライン/ローレルと共通プラットフォー

ムでマークII三兄弟(マークII、チェイサー、クレスタ)に対抗する目的で開発

されたセフィーロのTVCMがある。陽水がセフィーロの助手席から「お元気で

すかぁ~」と発するそれは、天皇容態報道後は"お元気ですか"の音声が消さ

れた。


  世の中を覆った天皇崩御からの自粛ムードとは真逆に、1989年はバブル経済

の頂点であり過熱した好況感とのギャップは大きかった。一方各社のその後を

運命づけるエポックメーキングなニューモデルラッシュは今もなお語り草だ。


  北米専用のプレミアムブランドとして立ち上がったレクサスの旗艦LS400(日

本ではセルシオ)、同じく日産のアメリカ市場向けインフィニティブランドのQ

45、スバルが社運を賭けたレガシィ、マツダの国内販売5チャンネル制の一角

ユーノスのブランドアイコンと位置づけられたロードスター(NA型)……翌90

年にはホンダの北米向けアキュラブランドのNSX、三菱GTO、ユーノスコスモ

などが続き、日本車が史上もっとも華やかな頂点に達したことを印象づける百

花繚乱ぶりだった。


  記憶に残るのはCOTY選考を意識した各社の取材攻勢で、トヨタはフランクフ

ルトで開催されたレクサスLS400(セルシオ)の国際試乗会に日本人ジャーナリ

スト枠を設け、200km/h巡航を可能とするアウトバーンでの評価に賭けた。


  この時の逸話として何度か紹介しているように、当時中心的に執筆していた

ベストカー誌の枠組みということでトヨタ広報部は徳大寺有恒氏と私を試乗コ

ンビとして割り振った。試乗時間枠内で交替してそれぞれインプレッションを

取ることになっていたが、徳大寺氏はずっとナビシートに座り続け1秒たりと

もステアリングを握ることはなかった。


  私が200km/hクルージングで緩いコーナーに差し掛かった際軽く修正舵を当

てると、すかさずそのフィーリングを尋ね、私が印象を述べるとそれがそのま

ま試乗インプレッションとなって記事に反映された。当事者だけが知る嘘のよ

うな本当の話である。


  レガシィの富士重工(当時、現スバル)は同じ右ハンドル左側通行のオースト

ラリアで試乗会を敢行したのも印象に残る一コマだ。ロードスターのマツダは

破格のプライス設定で希望する選考委員に販売した。とにかく路上を行くロー

ドスターの姿を増やそうとマツダ広報部が頭を捻った結果だったと聞いた。私

は3年前の1986年4月に清水の舞台から飛び下りる覚悟でメルセデスベンツ190

E(W201)を購入したばかりだったので手が伸びなかった。


 すでにFR絶対主義を掲げドリフトこそが最大価値となり魅力の根源として

いただけに、W201以上に具体的なイメージに近いコンパクトFRだったロード

スターは残念な存在だった。すでに二人の娘が小学生となっていたタイミング

であり、メルセデスベンツに2人乗りのオープンカーを加えるのは難しかった。


  いずれにしても昭和の末年にして平成時代の幕開け当時の私はまだ37歳。過

酷な経験はあったにしても、自動車ジャーナリストとしてはまだまだ未熟の学

ぶべきことが多い段階だった。


●インターフェイスという言葉にピンと来た!


 とはいえ自動車メディア界に入って12年目。さすがに積もる経験から悟るこ

とも多くなっていた。日本語は自動車を語る言語として必ずしも最善とはいえ

ない。最大の気づきは、表現すべき言葉の不足だった。懸架装置や舵取り装置

に原動機など、サスペンションやステアリング、エンジンといったカタカナ表

記の外来語をそのまま使った方が理解が早い。


  実は、私がフリーランスのライターとして仕事を始めた1978年当時は、評価

されるクルマの中心はもちろん国産車であり、その技術レベルも今と比べたら

大したことはない。走行環境にしても高速道路の普及率はまったく低く、評価

の対象となる走りのパフォーマンスも知れていた。


  私がドリフトの面白さからFRという駆動レイアウトの魅力を再発見したのは

1983年のことだが、その事実を伝える言葉が見当たらない。まだシンプルの右

肩上がりの成長神話に基づく高出力/高速度を基本とする高性能やより大きく

といった価値観が支配的な発展途上段階。日本の自動車ジャーナリズムの大半

は、自動車そのものと同様にアメリカや欧州の専門誌を参考にしたコピー文化

として興っている。


 パッケージングという今では普通に流通する言葉にしても、初耳は確か1980

年代後半のことであり、それがクルマ作りの基本となることを日本人の多くが

知るようになったのはその単語が一般化してから。それ以前は本質に触れるこ

となく評価していた。世界は言葉で出来ているというが、まず言葉があってそ

れを理解してはじめて知っているから分かっているとなる。ここは重要なポイ

ントだろう。


  私は、クルマのダイナミック性能評価をする上でメカニズムのハードウェア

以上に人とクルマが直接触れる接点の重要性に気づかされた。とにかくクルマ

に触れて乗って走ってを繰り返す内に、ステアリングやシートやシフトレバー

やアクセル・ブレーキ・クラッチのいわゆるABCペダルに手足ではなく目とい

う視覚器官で接するメーター類などが、試乗インプレッションのベースになっ

ている。 


 気づいたはいいが、それらを端的に語る言葉がない。ある時TVを見ていると

日立(製作所)がCMで『日立は今、インターフェイス(Interface)』というコー

ポレートメッセージというかブランドステートメントを発しているのを目にし

た。語感の印象の良さから辞書を引いてみると"界面や接触面"といった意味を

持ち、転じてコンピュータと周辺機器の接続部分を表すという。ユーザーイン

ターフェイスという表現にも見られるように、人とクルマの接点といった意味

にも使える。


  1980年代後半に多くを寄稿していたモーターマガジン社の雑誌をめくると、

インターフェイスという言葉をしきりと使って普及に務めようとする記述を目

にするはずだ。当時の編集者も初耳の言葉に躊躇していたが、今やインターフ

ェイスは一般用語としても普通に流通している。


●SUVのオリジナルはアメリカだが、ブームの起源は日本車だった


  SUV(Sport Utility Vehicle)も同じようなラインに位置する。今や世界

的なブームとなったクルマのカテゴリーだが、最初に耳にしたのは1990年代後

半のアメリカだった。当初はピックアップトラック(ライトトラック)の荷台に

アドオンのキャビンを乗せたのがオリジナルの形態。現在世界的に流通してい

るSUVとは大分ニュアンスが異なっている。


 日本では1980年代に三菱パジェロやデリカスターワゴンなどが牽引したオフ

ロードタイプの4WDがはしり。当時はRV(レクレーショナル・ビークル)

いう通り名で一世を風靡した。三菱はそのドル箱の存在が後に重く響いてい

る。大きく重いオフロード四駆形態はバブル崩壊とともに敬遠されて衰退。


 入れ替わるように1994年のトヨタRAV4、1995年のホンダCR-Vと

いうセダンとプラットフォームを供用するモノコックボディの都市型4WD

が出現。さらに画期的なクロスオーバー型4WDのハリアー(LEXUS RX300)

の登場によって現在に至る世界的なSUVブームが生み出されていった。


 今で言うSUVブームは当初日本においてブレークしている。What's new?

は今も昔も変わらぬ人々がクルマに求める魅力の最大要素であり、ことに日本

市場の場合1980年代に急伸したエレクトロニクスの導入がもたらした技術変革

によって、クルマの形態(カテゴリー)の多様化とハイテク&ハイパフォーマン

スが劇的に進んだ。


  バブル崩壊によって一度は凹んだが、熾烈な国内シェア争いで培われた技術

的リソースをテコに市場を活性化。デフレ不況で長期の停滞が常態化した日本

では長続きしなかった都市型小型4WDは、保守的な欧州市場でもWhat's new? 

需要を喚起。中国などの新興国市場でも保守層のセダン人気とは別に、世界の

トレンドに敏感な若い世代のSUVへの関心が鰻登り。最大市場でのアメリカで

も原油価格の乱高下を受けてクロスオーバーSUVの需要が掘り起こされた。


  前述の通り、LEXUS RX300(ハリアー)の出現が世界のクロスオーバーSUV需

要を掘り起こした。アメリカでベストセラーセダンとして長く君臨したカムリ

のプラットフォームを流用して都市型4WDを創造する。このレクサスRXの登場

をきっかけにSUV(Sport Utility Vehicle)にはアプローチ/デパーチャーアング

ルや最低地上高などの"クライテリア"があり、条件さえ満たしていればフレー

ム構造でなくてもSUVを名乗れるアメリカ特有の規格/基準があることを知った。


  ともすると日本ではこのような起源は軽んじられ、すべての情報は欧州やア

メリカ由来だと短絡しがちだが、20世紀末の20年と21世紀に入ってからの20年

の計40年にわたって従来型のクルマの新基軸を発進し続けたのは"モノ作り"に

熱中するあまり情報化社会への変革に後れを取りつつある日本の自動車産業で

あることは間違いない。


●NAロードスター(スペシャルパッケージ)のMOMOステアリング!


  ユーノスロードスター(MAZDA MX-5 MIATA)の出現は、1970年代のオイル

ショックと厳しい排ガス規制の荒波を乗り越え、災い転じて福と成した日本の

自動車産業以外からはけっして起こり得なかった。1960年代の"佳き時代"を

席巻したブリティッシュライトウェイトスポーツに対する純粋なリスペクトと

憧れを1980年代末当時の技術力で再生を試みる。


  志しの純粋さだけでは不十分で、相応の技術力なしには形にならない。まだ

脆弱な日本のクルマ社会だけを念頭に置いていたとしたら成功の可能性はな

く、最大市場のアメリカでの周到なリサーチと価格競争力を加味した確かな商

品力が原動力。本国日本での発売よりも4カ月も先駆けて導入した辺りに、MX

-5ミアータの本質がありそうだ。ちなみにMIATAとはドイツ古語で「贈物」

や「報酬」を意味する。 


  1989年2月のシカゴショーでのワールドプレミアに驚き、同年5月のアメリカ

市場での発売開始に混乱した。確か日本市場での9月発売に先駆けた7月頃に、

当時のJARI谷田部テストコースでメディア向けの事前(事後?)試乗会が催され

た。その懇談の場で、立花啓毅実験部次長(当時)に率直に問うたことを思い出

す。「このセットアップ以外に方法がなかったのですか?」たしかそんな質問

を切り出したかと思う。


 FRという駆動レイアウトがもたらす走りのパフォーマンスには一家言あ

り、その価値判断からみて納得が行かなかったからだが、「軽量なオープン

ボディのクルマで(とくに)前輪に十分な荷重を期待して接地感を得ながら

バランスの取れたハンドリングを作り込むのは簡単じゃない」立花次長は、

ちょっと場所を変えようと言いながら人の輪から離れると、概要そんな話か

ら始めた。


 ご存知の通りNAと型式で親しまれる初代ロードスターは、サスペンション

のストロークを大きく取り、ロールを容認しつつ前後のバランスを取りながら

曲がるイメージでセットアップされていた。後に”ひらり感”として肯定的に

語られることになるオリジナルロードスターの走りの個性だが、出来ることな

らロールを抑えてリアのスタビリティを適宜確保。


 その上でステアリングに十分な手応えを与えながらアクセルとのバランスで

ライントレース性を追及したい。この場合前後の荷重移動は重要で、タイミン

グよく前後の接地バランスをコントロールして自在にドリフトモーションを作

り込めることが何よりも肝要となる。


 私が試乗前にユーノスロードスターに期待した走りのイメージは右の通りだ

が、それが何とも軽かった。印象的だったのはスペシャルパッケージと名付け

られたパワーステアリング(PS)、パワーウィンドー(PW)、アルミホイールを

標準装備する仕様で、握りが極細のモモ製本革巻きステアリングホイール(SRS

エアバッグレス)にその繊細なハンドリングが集約されていた。


  オープン形状から限られたボディ剛性となる条件下で、クローズドボディの

クーペのようなセットアップは困難。動力性能もあれば良いというものではな

く、過剰なパワーを与えてしまうとバランスの取りようがなくなる。


  NA6CE型と呼ばれる初期モデルは、120馬力という当時の1.6リットルエンジ

ンとしても非力と括られるレベルにあり、当時すでにリッター100馬力を実現

していたホンダVTEC(160馬力)を渇望する声が数多く聞かれたが、オープンボ

ディで高出力を受け止める剛性を得ることは当時の日本メーカーの技術力では

困難を極めたはずである。


  NAロードスターから丁度10年後にデビューしたホンダS2000が250馬力を発

する2リットルエンジンをオープンボディに押し込んだ結果、とてつもないコ

ストを懸けた専用の高剛性ボディを用意せざるを得なくなり一代でディスコン

となった経緯を思い出す必要がある。


●継続こそがロードスター歴代主査の偉業


  マツダロードスターというのは、世界中にライトウェイトスポーツカーとい

う市場が存在することを証明したという点で貴重な存在といえるのだが、それ

以上に単純に大パワー/トルクに頼る走りのパフォーマンスとは違うところに

このクルマ本来の価値があることを今に伝えているという点で重要だ。


  初代NA6CE登場からわずか4年後の1993年に年々強化される排ガス規制への

対応のために排気量を1.6から1.8リットルに拡大すると発表。それを受けて私

はドライバー誌編集長からの依頼で『反対声明』なる記事を書いている。メー

カーの発表に正面切って反論を展開することは未だにタブーの一つとなってい

る観があるが、当時としても業界に小さくない波紋を呼ぶことになった。


  当時のマツダの技術力とリソースでは排気量アップ以外に規制対応の術がな

く、ほぼ打つ手は限られていた。コストを掛ければ可能だったに違いないが、

当時のマツダは国内5チャンネル制導入の失敗から多大な借金を抱えていたか

らなおさらだ。1993年の2年後にフォード傘下に入ることで命脈をつなぎ、2代

目NB型のローンチの際にはフォードからの経営陣と議論を闘わせたりもした。


  初代の途中から開発主査となり、NB、NCロードスターを取りまとめた貴島孝

雄氏とは率直な議論を交わした関係にある。多分に失礼もあったやも知れぬ

が、今でも良好な関係を保ち続けている。貴島氏の一見温厚に見えて目的達成

のためには果敢に攻めるキャラクターを知る者としては、NC開発で見せた反骨

の精神にロードスターというクルマの強さの一端を見る。


  NCの開発期間は企画段階からフォード統治下にあり、ロードスター単独での

開発はNGとされたという。ロータリーエンジン(RE)の復活という大儀が与えら

れたRX-8とプラットフォームを供用してコストダウンを図る。与えられたミッ

ションはLWSとしてのロードスターの根幹を揺るがす困難を秘めていた。


  結果的に巧みに共用化の縛りをすり抜けながらNCロードスターという独自の

境地を切り開くことに成功。排気量の2リットル化は、主力市場のアメリカの

要求を満たす結果であり、LWSの定形としての小排気量からの逸脱を余儀なく

されたが、結果としての走りはロードスターの精神を受け継ぐ出来ばえだっ

た。


  私は最後のCOTY選考委員委嘱となる2004-2005COTYの選考でNCロードスタ

ーにNA以来2度目の10ポイントを献上したが、困難な条件下でまとめ上げられ

たこのクルマがなければ現行のNDロードスターによる"原点回帰"はなかったと

理解している。継続こそがすべてであり、止めてしまったら歴史は途切れた。


●次ぎのNEロードスターには1.3リットルモデルを期待したい!!


  そして現行のNDロードスターである。このクルマの2014年9月4日舞浜のアン

フィシアター(とカリフォルニア州モントレー、スペインバルセロナを結んだ)

のワールドプレミアに至るプロセスについては以前紹介した。同年3月のジュ

ネーブショーで明らかになってからの1年余りはすでに歴史に属するかもしれ

ない。


  発売からすでに5年が経過し、時期NE型(?)が取り沙汰される頃合いとなりつ

つある。振り返ってみれば1.5リットルにエンジンがダウンサイジングされて、

1000kgを下回るモデルが存在するLWSの原点回帰が現実となった。


 依然として世界のプレミアムブランドでは大排気量高出力の超高速性能を競

う風潮に収束の気配はない。西欧近代の矛盾が噴出、一方で地球環境だのSD

Gsだのと危機感を煽りながら未だに500馬力、300km/h超の現実的でない非日

常的な高性能の価値観で優位に立とうとしている。


  本気で持続可能な開発目標を語ろうとするなら、いつまでも消費不可能な超

高性能というファンタジーに人々を誘うのではなく、より小さくエネルギー消

費は少ないがしかし満足度は300km/h超と変わらないという世界観にアプロー

チして、その実現に踏み出す時だろう。


  私はNDロードスターの1.5リットルSKYACTIV-Gエンジンの採用を高く評価し

ている。このダウンサイジングをともないながら、しかしクルマとしての魅力

は少しも落さないという発想こそが未来的だと考えているからだ。


  NDロードスターのワールドプレミアからローンチまでの過程で、議論が沸騰

した1.5リットルか2リットルかという話題があった。もちろん、これについて

も最大市場となるアメリカで取材している。アメリカ市場におけるマーケティ

ング/PRをマネージメントするK.Hiraishi氏をオレンジカウンティ・アーバイ

ン近郊のMNAO(MAZDA NORTH AMERICAN OPERATION)に訪ねて、取材を試

みている。


  私が2014年3月のジュネーブショーでNDの情報を掴み、翌月のNYIAS(ニュー

ヨーク国際自動車ショー)でのベアシャシー&パワートレインの公開と続いた時

点で主力ドライブトレインは1.5リットルと断定し、そのことが議論沸騰のき

っかけとなった。


  MC(マツダ広島本社)の意向としては、1.5リットルに一本化しオリジナ

ルのライトウェイトスポーツに原点回帰することでコンセプトの一貫性を期し

ていたが、主力市場にして成否に大きく関わる北米を仕切る立場のMNAOとし

ては1.5リットルのドライビングスタイルは到底受け入れられない。


  激論の結果北米向けには2リットルが与えられることになった。日本でも追

加モデルのRF(リトラクタブルファストバック)は2リットルエンジンが与えら

れることになり、これで当初から1.5との2エンジン体制が設定されていた印象

となったが、私の見るところ2リットルは完全に後付け。カリフォルニア現地

で初期型を試乗した際にK.ヒライシ氏と意見交換をして、率直に言ってセット

アップが出来ていないことを告げた。


  すると「急遽決まったことだったので装着タイヤが1セットしかなくてベス

トなチューニングができなかった」と明かされた。初期型のRFのエンジンが後

に追加されたアップデート版に比べて26psという別物といえる出来ばえとなっ

たことからも分かるように、初期の2リットルは間に合わせの急拵え。


  それでも2リットルにこだわったのは、アメリカ人のドライビングスタイル

は日本人のそれとは異なり、まずコーナーに飛び込んでから対応を考える。高

回転高出力志向よりも中速域で十分なトルクが得られることを好み、そのため

には1.5リットルでは「駄目なんです、アメリカでは!」ということだった。 


  多くの日本のロードスターファンは歴代ロードスターは"我々のためにある"

と信じて疑わないが、マツダのビジネスモデルが海外依存に転じて久しい。実

は日本の自動車産業はこの四半世紀で業容を大きく変貌させており、日本市場

だけでは到底利益が得られない構造となっている。


  諸悪の根源を辿れば、技術の高度化とインフラの整備が過去50年間で大きく

進化進歩しているにもかかわらず、行政官僚機構の無謬原則にともなう前例主

義の結果、変化に対するアップデートがまったく行なわれることなく、理不尽

といえるほどクルマの所有に関わる高コスト体質が定着して久しい。


  自動車メディアはここにフォーカスを当てるべきだろう。いつまでもドイツ

を始めとする西欧近代の右肩上がり思考を善とするのではなく、自らの環境に

誇りを持って、この37万平方キロメートルの国土を旅する中からクルマの新た

な価値観を構築すべきだろう。


  私は、現在のマツダロードスターの開発主査斉藤茂樹氏にはこのように伝え

ている。次期ロードスターには現行の1.5リットルよりも小さい排気量(1.3リ

ットルがいいなあ)で世界に通用する価値観の創造を試みたほうがいい。意図

するところは分かる人には分かるはずである。



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           伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』 

             第389号2020.7.14配信分


●「誰が座って良いと言った!」トヨタの重役が浴びた罵声


 かつて聞いた実話。トヨタ自動車の重役(たしか技術担当専務)がある日運

輸省(当時)に呼ばれた。1980年代のことだったか。許認可権を握る中央官庁

の課長クラスといえば40代前後だったろう。当然国家公務員上級試験をクリア

したキャリア組であり、それなりの経験を積んでいる。


 執務デスクに座るお役人氏を前にトヨタ重役氏は挨拶もそこそこに対面する

位置にあった椅子に腰を掛けたそうだ。すると「誰が座っていいと言った?」

自分の息子ほどの年頃が憤然と怒気を孕んで一喝したという。驚いた重役氏、

飛び跳ねるように起立したそうだ。何でも許認可に関係することで不手際があ

り、若手官僚の担当課長殿が叱責を浴びたということだった。所轄官庁と民間

企業の力関係を物語る『法治国家』たる日本の現実ということなのだろう。


 重役氏は無駄に逆らうことを避け、平身低頭でその場を収めて早々に辞した

そうだ。そして帰社して「何であんな小僧にこの俺がペコペコしなくちゃいけ

ねぇんだ!」自らのデスク上にある一切を払いのけながら吼えたという。魂か

らの雄叫びだったと、側近が蒼くなってその場の様子を伝えた。


 すべては伝聞なので本当のところは分からない。しかし多分事実だったに違

いない。日本の自動車産業は、戦後一貫して所轄の運輸省や通産省など官僚主

導による国家の庇護の下で育成されてきた。敗戦直後は民生用自動車の開発は

もちろん企画することさえ占領下のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に

よって許可されなかった(乗用車は全面禁止、トラックに限って1500台/月が

許可された)。


  戦後2年の1947年には1500cc以下の小型乗用車が許可され、さらに2年後の

1949年10月には全面的に解禁となったが、庶民にとって乗用車はまだ高嶺の花。

ところが1950年の朝鮮戦争勃発によって発生したトラックなどの特需が呼び水

となって自動車産業が一気に勢いづく。それまで自動車生産といえばトラック

とタクシー/ハイヤー業者の需要に支えられていて、ほんのわずかな富裕層が

いる段階に変わりはなかったが、風向きが変ったのは間違いない。


 当時興味深いことの第一にトラック比率が圧倒的であり、第二に二輪から派

生した三輪自動車が約4万台近くも製造され(1950年度)、第三にベンチャー

企業として位置づけられる東京電気自動車(旧プリンス自工の前身)が1947年

に「たま」、1949年に「たまセニア」というEV(電気自動車)を発売したと

いう事実がある。


 私はまだ生まれておらず荒廃した世相など知る由もないが、私の記憶に残る

1950年代にはまだ戦争の雰囲気が残り、川崎駅地下通路などで”傷痍軍人”の

姿を見て胸が痛んだことを思い出す。


 焦土からの復興にはまずトラックであり民間ではオートバイ派生の3輪車が

注目され、ダイハツやマツダやクロガネ(現日産工機)など戦前からの有力企

業が席巻。それぞれ”自動車メーカー”として今に残るきっかけを得ている。


 少し話は長くなるが、起点となる歴史観をきちんと整理しておかないと誤解

が誤解を生む原因となる。歴史的な時代の大転換点に差し掛かっている今こそ

それが現代の価値観の原点と錯覚されている平成時代の常識にとらわれた現役

世代が肝に銘じておくべきことだろう。


●アメリカ車に席巻されずに済んだ幸運


 日本の自動車産業は、1886年(明治19年)の自動車発明(ドイツのカール・

ベンツとゴットリープ・ダイムラーがシュツットガルト近郊のそれぞれ異なる

街でほぼ同時に製作したとされる)から18年後の『山羽式蒸気自動車』(山羽

虎夫が1904年に製作)に始まり、21年後の約10台が”量産”されたガソリン自

動車『タクリー号』(1907年)に起源が求められるが、今で言う自動車メーカ

ーとしては1911年(明治44年)の快進社自動車工業に行き着く。ドイツでの自

動車発明から遅れること四半世紀(25年)ということになる。


 世界のモータリゼーションの起源は1908年のヘンリー・フォードによるモデ

ルTの量産化に始まり、19年の量産化の歴史によって累計1500万台超が生み出

され第二次世界大戦前に文明としての自動車が普及していた。それに比べると

日本の後進性が際立ち、戦後の急成長を経て世界最大級の自動車生産大国に辿

り着いた印象を持つが、20世紀前半は2度の世界大戦で戦場となることがなか

ったアメリカ以外は大方が戦禍に塗れて停滞する傾向にあった。


 日本の戦前は、富国強兵に始まる明治時代の政策が軍国主義の台頭によって

民間需要は後回しとされたが、国防・軍事を優先する方針による工業化は進め

られていた。その技術力を背景に自動車が基幹産業として国を代表することに

なるのだが、前例がない事態に対する行政官僚機構の対応は後向きだった。


 当初は、敗北主義に染まった行政官僚のほとんどがアメリカ製乗用車との競

争は困難であり、自動車需要は輸入で賄えば十分との意見に傾いていた。すで

に巨大な市場を背景に高度に進化していたアメリカ車との競争にエネルギーを

割くよりも、外国からの輸入でまかなえば十分という考え方が支配的。当時の

一万田尚登日銀総裁は「国産車育成無用論」の考え方に立ち、乗用車生産に消

極的な意見を表明している。


 資源の大半を輸入に頼ることから貴重な資源は鉄道・鉄鋼・造船などといっ

た重厚長大型の基幹産業に注がれるべきだとした説に、当時の自動車産業界が

置かれた後進性が表れている。幸いだったのは当時世界最強だったアメリカの

ビッグスリー(ゼネラルモータース=GM・フォード・クライスラー)にとっ

て日本市場が魅力的として映らなかったことだろう。


 戦前にも横浜にフォード(現マツダ横浜研究所の所在地)、大阪にGMの生

産拠点があったが、当時の世界情勢から一計を案じた商工省(当時)の岸信介

工務局長は「自動車工業法要綱」を立案。事業許可制の導入や米国メーカーの

拡張阻止の方針を明確にする。アメリカ政府は日米通商航海条約に違反すると

して抗議したが、日本側は産業保護政策ではなく”国防上の理由”という一文

を加えることでGM・フォードの事業拡大を阻止した。


 遥か1980年代に観た『NHKスペシャル』の前身(?)ドキュメント昭和-

世界への登場-第3集「アメリカ車の上陸を阻止せよ~技術小国日本の決断」

(1986年6月13日放送)で語られた秘話を思い出す。かつて有望な市場として

注目していた日本が、対戦の結果破れ去り焦土と化した現実を見たビッグスリ

ーが注目しなかったことが幸いした。


 日本の自動車産業の成功は、幾つもの幸運に恵まれた”奇跡”の結果だが、

誤ったその成功体験に対する評価と認識がゲームチェンジが迫る『大変革期=

トランスフォーメーション(Tranceformation)』という21世紀の現実への対応

を難しくしている。


 無謬原則と前例主義が変れない日本を牽引する官僚システム最大の欠陥であ

り、当時も半世紀を遥かに超えた今も何ら変わらない。今まで通りは失敗や間

違いはないが、変化に対応して成功に結びつけるという前向きな発想はない。

大過なく日々を送れば保証される。親方日の丸の発想は、全面的に日本社会を

覆った宿痾であり、21世紀に入って”一人負け状態”にある最大の失敗要因で

あるのは間違いないだろう。


●中国はかつての日本の生き写し。やがて沈む可能性は高い


 話を少し戻すと、朝鮮特需はかつての交戦国が同盟(日米安全保障条約)を

結んで、ソビエト連邦共和国や中華人民共和国という社会主義体制国家と資本

主義陣営が対峙する新たな局面、東西対立を浮上させた。およそ40年後に冷戦

構造はソ連崩壊とともに過去のものとなったが、それから30年で米中対立とい

う21世紀という新たな状況を生んでいる。


  歴史を振り返ると、現在68歳の私が生まれる前からの話であり、ようやっと

記憶に残る1960年前後から見てもすでに60年という短くない時が流れている。

クルマで記憶に残るのは、初乗りがたしか60円の日野ルノー(4CV)に乗っ

て労働争議真っ只中のデモ隊に囲まれた鶴見の路上や、エネルギー革命(都市

ガスの普及)によって石油コンロ製造を生業としていた父親の同族会社が潰れ

る前の社用車RS型初代クラウンの後期モデル。今の60歳以下の世代にとって

はSFのように雲を掴む話に近いだろう。


  戦後に訪れた自動車産業の成功のきっかけは、外資(当然連合国側で、小型

車中心のイギリスやフランスメーカー)の力を借りたライセンス生産(ex日産

オースチン、日野ルノー、いすゞヒルマンなど)といった政府主導で始まる。

今世紀に入ってから本格化した中国における改革開放政策に基づく社会主義市

場経済を背景に急成長を果たした中国はこれに倣った感がある。国営企業との

合弁によって産業育成と技術の習得を短期間で成し遂げる。


  今世紀に入って二桁の高度経済成長を成し遂げ、2000年には1180万台に留ま

っていた自動車保有台数は今や2億台を超えた。国内生産台数も2000万台/年

を大きく上回り、今やアメリカに次ぐ世界第2位の保有と生産台数を有する有

望な最大市場への道を突き進んでいる。


 市場規模は日本の総人口の10倍以上というスケールそのままであり、このと

ころの経済の停滞はあるものの、まだまだ成長の可能性を残している。すでに

人口が減少サイクルに入って12年となる我が国とは直接比較にはならないが、

ここまでの成長パターンとそのプロセスは改めて見比べると驚くほど酷似して

いる。


  行政指導や護送船団方式といった資本主義とは相容れない社会主義的な施策

の下で自動車産業は今日に至っている。日本のクルマの歴史を紐解くと、歴史

的経緯と技術や環境の変遷からモビリティの発想が生まれた西欧やアメリカと

は異なり、生きる糧を得る産業の側面から始まり、割り込む形で社会に広まっ

た日本車の成り立ちが浮き彫りにされる観がある。


●C.ゴーン氏にあって、西川廣人氏に決定的に欠けていたモノ


 ところで、唯一純国産化を志向したトヨタは紆余曲折の後にクラウン(初代

RS型1955年=昭和30年)を開発して独自路線を貫いた。1948年創業のホンダは

まだ2輪メーカーであり、1961年に通産省(当時)が発表した『自動車行政の

基本方針』(後の特振法案=既存の自動車メーカーに絞って振興を図り、新規

参入業者を拒む:国会には未提出)に創業者の本田宗一郎が猛反発して今日の

発展の礎を築いた話は有名だ。


 それにしても戦後の黎明期に登場した無数の自動車メーカーからは淘汰され

たとはいえ、現在もなお大手の乗用車メーカー/ブランドが8社も存続して、

トラックバス専業のいすゞ、日野、三菱ふそう、UDが残る。乗用車メーカー

はトヨタグループ(子会社のダイハツやスバル・マツダ・スズキ)、風前の灯

火とはいえアライアンスを組むルノー日産三菱。そしてデトロイトのGMとの

関係を強めているホンダ。大規模な合併といえば日産に吸収されたプリンス自

工(1966年)があり、それ以来当時の通産省による官主導の再編は見られない。


 1998年末に倒産の危機に瀕し、翌年3月27日にフランスのルノーとの提携に

よって救済された日産の事例などは、経営陣の失策もさることながら縦割りの

官僚的な組織構造や労使関係に見られる無責任体質といった霞が関の行政官僚

機構そのままの結果であり、バブル期の狂騒から庶民感情を恐れた責任回避の

ハードランディングでバブル崩壊という官僚の失策が30年に及ぶ平成の不況時

代を招来させた。


 日産の再生には、日本型経営にドップリと浸かりことなかれが内部昇格の決

め手とされたサラリーマン経営者では覚束ない。結果としての経営のプロたる

カルロス・ゴーン氏の招請であり、実は日産の少壮管理職階層が取りまとめた

日産リバイバルプラン(NRP)をしがらみに囚われずに断行した結果が奇跡

とも言われたV字回復の真相だった。


 1998年末の時点で所管の通産省もメインバンクの興銀(現みずほ銀行FG)

も匙を投げていた案件が、外国人の経営で再生どころか2016年には世界で3本

の指に入るアライアンスグループに躍り出た。経営は結果責任というが、1999

年の日産COO就任以来、2001年には同CEO、2004年紫綬褒章授章、2005年

ルノーCEO、2016年12月には三菱自工を日産傘下に買収し同社取締役会長と

歩を進め、世界で最も有名な自動車会社経営者として知れ渡っていた。


 NRP以前の1兆円超の有利子負債に喘いでいたポストバブル期、超円高が

転じてバブル景気に沸いた昭和末期のR32GT-Rに象徴されるエンジニアの

暴走、その前の労使紛争による社内ガバナンスの混乱。高度経済成長期からの

歴史を俯瞰できるキャリアの持主なら、非難されるべきは誰かは明らかなのだ

が、権力の走狗と成り果てたメディアが混乱に輪を掛けた。


 所管の現経済産業省の官僚の無能と無責任に西川廣人前CEOの私利私欲が

重なり、検察の思惑と現政権につながる自動車産業界の意思が合わさって(ト

ップメーカー首脳の嫉妬が背後にあったというのは私の想像だが、その可能性

は否定できないだろう)、日本という世界的な信用につながるブランドそのも

のが致命的といえるほどに傷ついた。


●オイルショックからの数年間”ワークス”はサーキットから姿を消した


 今はもはや昭和の発展途上段階ではない。1985年のG5(先進5ヶ国蔵相・

中央銀行総裁会議)での『プラザ合意』は、日本はすでに途上国ではなく世界

でもっとも貿易黒字を掻き集める文字通りの先進国の仲間入りを果たした。そ

れなりに振る舞って下さいね、というメッセージがドル/円の為替レートを一

気に2倍へと円高になることを容認する合意だった。


 この時に世界基準で変革に舵を切る国際感覚の持主が日本の政界や経済界に

いれば良かったのだが、一括採用、年功序列、終身雇用という世界でも類例の

ないシステムで醸成され、内部調整に長け大成功よりも失敗しないことで生き

延びた内部昇格組の経営トップにリスクを取って変革に踏み出す勇気など有ろ

うはずもない。


 チャンスはあったと思う。バブルの絶頂に至るまでの1980年代の活況を知る

者なら共有できるはずだ。時は1970年にピークを迎えた高度経済成長の後に突

如として襲ったオイルショック(第4次中東戦争に伴ってアラブ諸国が親イス

ラエル友好国を対象に行なった石油の禁輸措置による高騰と混乱)と相前後し

て強化された自動車の排出ガス規制による停滞は、日本の自動車産業をほぼ壊

滅状態にまで追い込んだ。この間(1974~77年まで)の日本車の「走らない、

つまらない、華がない」という三重苦は、思い出すだけでゾッとする。


 私は、世の中が反自動車に触れるこの時期(1975~1978年の足掛け4年)に

モーターレーシングを志し、自動車メーカーが一斉にサーキットから姿を消し

(ワークス活動の全面的休止)、富士のグランチャンピオンシリーズ(BMWvsマ

ツダ13B)や鈴鹿のF2シリーズ(BMWのM12/6直4エンジンが全盛)が席巻。1300

ccクラスの特殊ツーリングカー(TS)の日産サニー(KB110)が隆盛を誇った。


  日本の自動車産業は生き残りを懸けて排ガス対策に没頭、1978年3月のマツ

ダRX-7を皮切りに3元触媒を手中に収めた各社が続々と日本版マスキー法

として克服困難とされた昭和53年排出ガス規制をクリアして日本車の時代が始

まった。


 世界的な省エネと排ガス規制強化のトレンドの中で、小型車中心の日本車は

排ガス規制クリアと好燃費が受けて世界的な評価を受ける。最大の貿易相手国

のアメリカでの日本車人気は日米貿易摩擦の筆頭に挙げられる存在となり後の

グローバル化につながるのだが、1970年代に規制対応に没頭する余り世界の潮

流に外れ掛かっていた小型車のFF(前輪駆動)化が急伸する。


 日本の主要各社が競ってFF小型車を品揃えすると差別化の必要からパワー

競争が勃発。さらに高出力/トルクに対応するというロジックから横置きFF

ベースの4WD化が進み、エレクトロニクス(電子制御)技術と走りの性能を

合わせたハイテク/ハイパワーが1980年代のトレンドとなったわけだが、国内

主要メーカーによる国内市場シェア争奪戦はあらゆる車型にチャレンジする多

様化のムーブメントは、バブル景気に向かって激化の一途を辿った。この間の

タイヤメーカーによる走行性能を高める技術開発が日本車のパワー競争に多大

な影響をもたらしたことも重要なファクターとして押さえておく必要がある。


●スカイラインGT-Rが日産を駄目にした


 日本車のヴィンテージイヤーとして振り返られる1989年はバブルの頂点であ

ると同時に元号が昭和から平成に変った年としても記憶される。実はこの年ま

では日本車の主流はいわゆる5ナンバー枠であり、全長4.7m、全幅1.7m、エン

ジン排気量2リットル未満が国内需要の大半を占めた。2リットル超の多くは

輸出向けを中心とする海外市場対応モデルで、唯一の例外として日産のスカイ

ラインGT-Rがあった。


 米国トヨタのレクサスチャンネル用フラッグシップとして開発されたLS400

や日産のインフィニティ向けのQ45、Z(ズィー)カーとしてブランドアイコ

ンにもなっていた300ZXとは違って、R32GT-Rは1985年から始まった国

内ツーリングカー選手権のグループA規定を精査してエンジン排気量からタイ

ヤサイズと4WDシステムの採用に至るまでフルコミットメント。その仕上げ

を西ドイツ(当時)のニュルブルクリンク北コースで行い、1960年代に伝説化

されたポルシェを仮想敵に想定することでブランド価値の創造に注力した。


 時代は面白いクルマを作れば売れたバブル期。70年代から80年代前半を通じ

て労使紛争が絶えなかった低迷から一転初代シーマからS13シルビアに始まる

ヒット作の延長線上に究極のハイテク/ハイパフォーマンスマシンR32GT-

Rが位置づけられた。原価管理が行き届いていた企業だったら果たして市場に

投入されたかどうか。


 国内ツーリング競技車両規定だけに注目したR32GT-Rは、直列6気筒エ

ンジンにツインターボとアテーサE-TS4WDシステムを組み合せる仕組み。

かぎられたフェンダースペースに収まるタイヤサイズを勘案してトルクを分散

する4駆システムとしたわけだが、このパッケージングでは当然左ハンドルは

作れない。国内市場専用のドメスティックモデルであるスカイラインだからこ

そあり得たレイアウトであり、同じ280馬力自主規制のフェアレディとは違っ

て当初から輸出は想定されていない。


 スカイラインの主力モデルは2リットルのGTS-tタイプM。クーペのG

T-Rから割り出されたパッケージングで4ドアを仕立てた結果、コンパクト

である以上にセダンとしての機能性に疑問を生じることになった。後の日産G

T-R開発の全権をC.ゴーンCEOから任されて商品企画に携わったという

水野和敏氏は、スカイラインのポジションはスポーツモデルであり、異なる

キャラクターを求めるならローレルやセフィーロを用意する。当初から意図し

て開発したと振り返るが、それを聞いたのは21世紀に入ってからだった。


 私はR32では実験主担、R33と34では開発主管を務めた渡邉衡三氏とは深く

議論を交わした間柄で、最後の直6スカイラインR34の発売前には即刻の企画

中止を進言して不興を買ったこともあるが、日産FR3車がかつて月販4万台

を売ったトヨタマークII、チェイサー、クレスタと同様の商品企画だったとは

初耳だった。ポストバブルで経営が傾き懸けた時にもなおテクノロマンに興じ

たエンジニアこそがNRPに至る元凶だったと私は見ている。


 アメリカでも25年ルールが解けて右ハンドルのR32GT-Rが市場に回るこ

とが許されるようになり、エキゾチックカーとしての”R”はカリフォルニア

でも人気というが、現役当時は収支にまったく好影響を及ぼすことがなかった。

ゴーン氏がブランド資産としての価値に注目し、R34で途絶えていたGT-R

を日産ブランドの核として復活させた洞察力は経営のプロらしい慧眼(けいが

ん)と言うべきだろう。


 ことはフェアレディの復活や日本市場では交通法規の制約や負担の大きい税

制から軽自動車が最適とスズキからのOEM供給、ハイブリッドではトヨタに

追いつけないとEVのリーフ開発に経営資源を傾けたり。責任を持ってリスク

に対峙する。日本人が決定的に駄目なリーダーシップを発揮したところに得難

いモノを感じる。内部昇格のサラリーマン経営者がそこに嫉妬して独裁者とい

うレッテル貼りを貶める。この感覚でグローバル化時代を乗り切れると正気で

思っているとしたら、日本企業にチャンスは永遠に戻ってこないだろう。


●「次ぎ?多分もうこの担当ではなくなってます。地方かなあ」


 ここで重要なのは、許認可権を握る行政官僚機構が法治国家という支配構造

の中で、法の下において揺るぎない権力を握っているという事実だろう。方や

公僕として国民に仕えることで税金を原資とする給料を貰う立場の官僚に対し、

自らの才覚で企業の運営に携わり収益を上げた結果としてそれなりの報酬を受

け取る私企業の経営層。経済的にも社会的ステータスの面でも圧倒的優位にあ

る重役が、若輩の行政官僚の権力の前に屈伏せざるを得ない。


 冒頭のエピソードがここに掛かってくる。大した人生経験もしていないのに

キャリア官僚として採用された瞬間にエリートの道が用意される。入省(庁)

当初は青雲の志を持った優秀な若者が、無謬原則に凝り固まり前例主義と失敗

しないことが登り詰める道であると散々組織の掟を刷り込まれる。


「嫌だったら、そこの窓から飛び下りろ!替えはいくらでも居るからな」そん

な恫喝が日常的に行なわれていると聞いたことがある。斯くして金太郎飴のよ

うな行政官僚が出来上がる。役人の最高峰事務次官になれるのは同期で一人。

2番手の官房長や局長クラスのポストも数に限りがある。駄目だと分かったら

セカンドキャリアを求めて辞する。


 かつて東京都の石原慎太郎都知事が『ディーゼルNo宣言』を発した頃、当時

の関係省庁(通産省、資源エネルギー庁、環境庁)や石油連盟などの業界団体に

朝日新聞系列のCSTVレギュラー番組の看板を活かしてインタビューを試み

たことがある。対応の多くは若い(20代)の班長クラスで、事情通のノンキャ

リ組がサポートに回ることが多かった。取材終了時に「また何かあったら次ぎ

もよろしくお願いします」挨拶代わりに述べると「次ぎ?多分もうここにはい

ませんね。地方の出先で修行を積んでいると思います」若いキャリア組は幹部

候補として英才教育を受けるのだという。


 斯くして民間の重役クラスなど例え大企業であっても同じない若きエリート

官僚が出来上がる。人生経験などなくても組織の掟に順応し、無謬原則に従っ

て過去を否定せず前例主義に則ってシンプルに答えを出す。徹底した既得権益

の保護に徹し、容易に変化に与しない。ここにこの国がかつての成功体験が忘

れられず、変革を阻むことに執着するメンタリティの根源がある。


 そうした体制下で成功を収めてきた企業が、伝統的にトランスフォーメーシ

ョンが苦手で従来型の手法をリファインすることで延命に長ける組織となるの

も分からないではない。相手のあるビジネスでは、こちらの都合ばかりでは動

かない。世界的なゲームチェンジが進む中で、今まで通りに固執することのリ

スク。ダイバーシティ(多様性)が世界の現実なので、まだ従来通りが通用す

るかもしれないが、我流に拘って変化への対応を怠ると一気に置いていかれて

しまいかねない。


 ピークは奈落の底への始まりになりかねない。私は従来型のクルマにもまだ

まだチャンスはあると考えている。テスラの最新モデルを見ていて思うのだが、

EVが何で500馬力、300km/h超というリアルワールドで使えないパフォーマン

スと競い合う必要があるのだろう。


  現在のICE(内燃機関)でも、あまり現実的でない過剰性能なんかに振り

回されないで、かつてのソニーのウォークマンのように"SMALL IS BEAUTIFUL"

といし事実に注目して、より小さい排気量で必要十分以上の走りのパフォーマ

ンスを身に付けて、何よりもクルマの商品価値を決めるデザインやテクスチャ

ー(手触り)に関わる素材にコストを懸けた方がいい。


  真似の出来る技術なんかに頼らないで、真似の出来ないセンスを磨いて価値

(バリュー)を高める。人は何のために生きている?『幸福感(ハピネス)を求

めている』と考えるところから始めるのも悪くはないんじゃなかろうか?  

                                   

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