ページビューの合計

2015年2月15日日曜日

短期連載 NDロードスターPre-production試乗(2014.12.19)のbefore/after ①

待望のマツダMX-5(日本名ロードスター)を走らせる時が来た。正式発売は2015年6月から。先だって3月20日かは先行予約を受け付けるというニュースがもたらされたが、まだまだ市場に出回るまでには日がある。

   マツダは、Pre-productionモデルという試作段階で国内メディア/ジャーナリストの一部に試乗を許し、年明けの翌1月末にスペイン・バルセロナで欧州メディア向けのロングリードをその右ハンドルモデルを送って敢行した。その意図するところは最終的なセットアップ決定のための情報収集?
 
 いらぬ詮索などしても仕方がないが、まだしばらくはあれこれ語れることが多いようだ。今回走らせてみて、いろんな思いが去来した。初代ユーノス・ロードスター(NA6CE)からNB、NCに至る25年だけでなく、遥か30余年前のSA22Cに始まる僕とマツダ・スポーツカーの関係まで。

  良い機会なので、NDロードスターを軸にあれこれ振り返りつつ、ライトウエイトスポーツカーLWSの未来に迫ってみたい。クルマのインプレッションは詰まるところ走らせた者の自分語り。なるほどだからお前のリポートはこうなるのね……が明らかになれば幸いだ。



■プロローグ 2015年12月19日伊豆サイクルスポーツセンター(CSC)の初試乗


見るだけ座るだけから、乗って走らせる。同じクルマでも場面によって込み上げる思いは微妙に 異なるものだ。随分待たされたからね。

  4代目となるNDロードスターの輪郭が見えたのは2014年4月16日のNYIAS(ニューヨーク国際自動車ショー)プレスデイのことである。

  結果的に正式発売の14ヶ月も前に”裸の中身”を公開する快挙ということになった。何とまあ思い切ったことをと感心するが、KYACTIV CHASSIS NEXT GEN MX-5:次世代ロードスタースカイアクティブシャシーと銘打つベア(裸の)シャシーは、驚くほど情報に溢れていた。

 
  振り返ると、ニューヨークのJACOB.K.JAVITSコンベンションセンターで見た剥き出しのメカニズムが発したオーラがすべての始まりだ。ダウンサイジングの証拠が散りばめられた展示からテスト車の姿が想像できたわけではないが、画期的なクルマになると直観した。

 4穴のロードホイールに細いコイルスプリングの巻数。ドライブトレインの凝縮感と意図を感じるレイアウト。展示ウォールにシュッと書き添えられたスラントノーズの一筆書きがデザインの密度を暗示していた。

『分かる人に伝わればそれでいい』多くを語らず現物で勝負。いかにもエンジニアリング主導メーカーらしいの生真面目さだが、それはマニュファクチャリングフォアデザイン(デザインのためのモノ作り)を世界に表明するマツダの次代に向けてのサインだった。姿はないが、醸し出される雰囲気でデザインのクォリティは伝わった。

 その後のワールドプレミアからの流れは誰もが知る。僕自身国内外各地で飽きるほど見てきた、依然として鮮度が落ちた気がしない。デビューしたその日からみるみる磨滅して行く凡百と違って、NDロードスターはLWS(ライトウエイトスポーツ)という孤高の価値を自ら再定義し、そして掘り下げ続けようとしている。

■そういえば、NA(ユーノス・ロードスター)の時にも事前試乗会があったのだ

  いま僕は、何とも言えぬ既視感を味わっている。2014年12月19日、静岡県伊豆市にあるサイクルスポーツセンターで新型マツダロードスター(ND型)のステアリングを握る。発売の半年前であり、用意されたクルマのレベルは量産のずっと前の段階。プロトタイプ以前のPre-productionであるという。

 あれはたしか1989年の7月だった。強い陽光が降りそそぐ茨城県谷田部町のJARIテストコースでとても熱い体験をした。この年2月の米国シカゴショーに突如現れたオープン2シータースポーツカーの試乗。そこに至る経緯はすでに忘却の彼方だが、吉田槙雄/島崎文治(彼はすでに法政大ラグビー部の監督に就任していたかも)の名物広報コンビからの招集を受けて、当時37歳の僕は燃えていた。

 ユーノス・ロードスター(NA6CE)の出現は唐突だった。WEBもない時代。情報は限られ、よほどの事情通でもニューモデルの詳細を事前に知ることはない。僕自身このロードスターの存在を知ったのはシカゴショーの後だったと思う。

 日本では5チャンネル制の一角ユーノス店の看板モデルとしてユーノス・ロードスターを名乗ることになったが、すでにこの年5月にはマツダMX-5ミアータの名で米国市場で販売が開始されていた。

 当然のことながらマツダ内部では既知の事実だったわけだが、国内販売は9月。メディアで事前にこのクルマの情報を知る者はシカゴショーに足を運んだごく少数(どれだけいたのか知る由もない)に限られたはずだ。現代目線では理解不能なアナログ時代である。

 手前味噌になるが、僕は初代ロードスター(NA6CE)が出現する以前から「クルマはFRにかぎる!」と吼えていた。大袈裟でなく一人吼えていた。

 時代は、1980年代に入って2l 以下の小型車で一気に推進されたFF化の一大潮流下。市場拡大を追求する国内メーカー各社はさらなる可能性を求めて高出力/高性能化にシフトする。日本車に国際競争力をもたらした電子制御化ととにもFFベースの4WDを進め、バブル経済の進展とも重なって日本中がハイテク/高出力高性能に沸いていた頃である。

■40年前に見た原風景と今度のNDロードスター。距離感はそんなに遠くない

 少し脱線させていただく。僕は、FRがあたりまえの1970年に18歳になり、運転免許を取得している。最初のクルマは当時の限られた選択肢では王道ともいえた日産サニー1200クーペGX。それから5年後、さらに狭まる人生の岐路でモーターレーシングの世界に紛れ込むのだが、そこで手にしたのもKB110サニーだった。

 時に23歳。時代は第一次オイルショック直後であり、超難問といわれた日本版マスキー法(昭和53年排ガス規制)への対応で国内メーカーは疲弊し、自動車産業が壊滅の危機に瀕していた最中である。

 今から6年前のリーマンショックに端を発する世界恐慌よりずっと深刻な経済状況下に、庶民の子が本気で明日のF1パイロットを夢見た。将来の展望が開けていたわけでも何でもなく、無知ゆえに成し得た思い切りだった。

 若さは馬鹿さとはいえ振り返り見る我が身は眩しい。自費で戦える余地は限られていて、スポンサーなど期待するほうがどうかしていると思われた時代。プロレーサーの道は閉ざされたが、捨てる神あれば拾う神。縁あって自動車ライターとして生きる道が開いた。

 それまでの実戦経験が身を助け、文章など1行も書いたことのない僕にライター稼業を継続させた。曲がりなりにも36年になる。スティーブ・ジョブスが伝説のスピーチ(スタンフォード大卒業式:2005年6月12日)で語った『点を繋ぐ(Connecting Dots)』のように、自分の頭で考え身をもって行動したことは必ず役に立つ。夢中で進んでいる時は先を読む余裕もないが、振り返るとあの時のあれが今に繋がっている。

■ドリフトの意味に囚われてはいけない。やってみてどうか。答えはそこにある

 FRにこだわり続けるモチベーションはレースの実戦以前に掴んだ。すべては直観が始まりだ。やる前に観る。天才は存在するが、ふつう人間は生まれつき空(から)だ。なりたいと思えるアイドルを見てイメージを取り込み、その像に我が身を合わせるプロセスを踏むことで自分を作らなければならない。オリジナリティは模倣の先に隠れている。

 40年前の富士スピードウェイ。タイヤ痕をアスファルトにくっきり残しながらヘヤピンを駆け抜けるF1を見た。太い右リアタイヤが外へ外へと逃げるのをカウンターステアでグイグイいなし、黒々と美しいラインを描き踊るように300Rへと消えて行った。高まるエキゾーストノートが片時もアクセルを緩めない強い意志を伝え、画像とサウンドが一体となった鮮烈な記憶として目に焼きついた。

 ドライバーはスライドウェイ・ロニー。ドリフト野郎として親しまれたスウェーデンのロニー・ピーターソン。マシンは漆黒に金のJPSロータス72DFV。1974年11月24日、富士グランチャンピオンシリーズ最終戦の合間に敢行されたF1デモランの一コマである。

 翌1975年は筑波サーキット。降りしきる梅雨空の下、名手高橋国光駆るKB110サニーTS仕様のナビシート。雨に光る第二ヘヤピンにアプローチしたかと思うやいなや、重力から解き放たれたように景色が流れた。国さんは、滑るマシンを予期していたようにクルクルと回してアクセルを煽り続け、マシンが直進状態を向く刹那両手をぱっと宙に離し、こちらを向いてにっこり。40年前の日産レーシングスクールを受講して味わった今もなお身体の奥底に残る衝撃の体験だった。

 ドリフトがすべてという『結論』から僕の自動車評論は始まっている。40年前に目の当たりにしたことが次なる実地の体験に発展した。偶然ではなくて、ある方向に歩き出した必然。その後も何度か風が吹いたような気もするが、時流に乗ったという実感を得たことはない。

 誤解が根底にあることは承知の上だが、社会全体が『クルマは操る人間を前提にしたモビリティツール』という哲学に踏み込まず、利益追求のビジネス思考に留まるかぎりは、多数が賛同する意見にはなりにくい。
 何故ならドリフトは自転車のように誰でも身につけることができる科学的な説明が可能な身体感覚上の必然なのだが、感覚的に困難に見えるスキルの問題としてやらずに忌避する大多数と向き合わなければならない。
 自由なモビリティがクルマの最大価値であるのに、リスクを伴う危険性を自らの力で排除する楽しみに与する比率は年々下がっている。自動運転に代表される自由よりも楽を優先するテクノロジーを歓迎するマインドは難敵だ。

 観て楽しく、やって面白く、出来るようになれば確実にドライビングスキルは高められ、限界を知るという境地は安全と危険の概念を身体に取り込むことであり、資源・環境・安全というクルマが抱える根源的な難問を考える上で欠かせない柔らか頭を育む。

 人は身体のパフォーマンスで行動が制限されがちな生き物。それゆえ圧倒的なスピードを実現する乗り物に憧憬の念を寄せるが、僕は300km/hの自動運転よりも100km/hのドリフトダンスに興じる自由を支持したい。さすがに60も超えるとカラダは言うこと聞かなくなるが、身についたスキルが発想を若くする。クルマでアンチエイジングは可能だ。

■"運転していることを忘れさせる"NDのセットアップ。『ひらり感』の必然との相関はあるか?

 26年前のユーノス・ロードスター(NA6CE)の話だった。まさかこんなクルマが現れるとは。ライトウエイトスポーツ(LWS)、1960年代の英国で人気を博した軽量コンパクトなオープン2シーターを再生する。誰もが考えたが、誰もやろうとはしなかった。

 南カリフォルニアの現地子会社の商品企画部門が温めていたプラン。その背景に1978年に日本版マスキー法(昭和53年排ガス規制)をクリアして新たなスポーツカーの世界を切り開き、北米市場を席巻したサバンナRX-7(SA22C)の存在があり、人が絡む物語の伏線がもう一つ流れているのだが、それは後に回すとしよう。

 ことの始まりは1983年頃というから相当息の長い開発だが、今もなお世界のトレンドセッターといえるアメリカ市場の底力、そこをきっちり押さえながら商品価値の高い画期的なクルマを生み出した。それも僕が口を開けば「FR、FR、コンパクトFRしかない」と言っていた何よりも嬉しい駆動レイアウトのスポーツカーである。

 アマチュアレーサーからフリーランスのライター稼業に転じて12年目。ひとかどの経験を積み、クルマはFRにかぎる、ドリフトがすべてと公言していた。筑波サーキットやJARIテストコース(谷田部)に毎週のように取材で訪れていた頃で、当然一家言あった。

 ひとしきり試乗した後で、懇意の立花啓毅実験部次長(当時)に噛みついた。「このセットアップしか考えられなかったんですか?」生意気を画に描いたような一言だが、相手もプロだった。こちらの意気に感じて「ちょっとこっちに来い」取材陣から離れた木陰でノートとペン片手にレクチャーが始まった。

 ライトウエイトスポーツは接地感を出すのが難しい。オープンボディは剛性の確保が容易でなく、当時の技術力(と厳しいコストに縛られた安価設定のコンセプト)では限界が知れている。タイヤはトレッドパターンにクラシックな意匠を施したブリヂストンの185/60R14が標準設定とされたが、実際は175幅ぐらいが適正サイズ。車体に対して勝ち気味なグリップを考えて特注仕立てでトレッド面が狭められていた。

 僕が期待していたFRらしい理想の乗り味は、しっかり位置決めされたリアタイヤを軸に、ロールを抑えながら制動/駆動のメリハリの効いた荷重移動とともに、ステアリングに豊かなインフォメーションを感じる手応えを得ながら、想定ラインに乗せて行く。まあ当時の拙いレベルは呑み込むとして、血気のあまり「そうならない、しないのは何故?」食ってかかるように迫ったわけである。

 LWSはサスを固めるとボディの剛性不足が際立ってしまう。それを避けるためにロールのスピードと深さでバランスを取る。その際のダンパーの減衰特性が重要で……と、グラフ図解入りで説明を受けた覚えがある。それが後に「ひらり感」という形容で語られることになったオリジナルのドライビングスタイルだった。

 今でこそボディ剛性はあたりまえの概念で、その重要性は広く認識されているが、試乗インプレッションなどで評価の言葉遣いとして登場するのはこの頃から。CADやCAE、FEM(有限要素法)などのコンピュータ解析が行なわれるようになって注目されるようになった。マツダはこの分野で国産メーカーとしては最先端を行っていて、現在ではCAEでは同業他社から業界屈指と一目置かれる存在になっている。


つづく

0 件のコメント:

コメントを投稿