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2012年7月23日月曜日

クルマと拳銃 (みんカラ・specialブログからのつづき)

■みんカラspecialblog 2012.5.29付けからの続きです

4年前の2008年11月。米国本土初上陸という30代の編集者MとLA国際オートショー取材に出掛けた。

いつもそうするように空港の民間パーキング預けで手配しておいた試乗車(ACURA TLだったか)のステアリングを即譲り、Let's go!! 有無を言わさず走り出した。

GPS・NAVI装備だったが、彼は右も左も分からない状態。当然緊張と混乱の興奮状態で頭はグルグルになったはずだが、海外でのいきなりのドライブ体験は生涯記憶に残る一生ものだ。


着いたその日に300㎞ほど走り、日を改め23年前に行ったトーランスのシューティングレンジ(Sharpshooter)を訪ねるとちゃんと営業していた。

ちょっと迷ってから選んだのがキンバー45automatic。LA.P.D.S.W.AT( ロサンゼルス市警特殊部隊)が正式採用するという業(ワザ)物だ。

KIMBER45は23年前のあの感覚をたちまち蘇らせた。けっして新しいメカニズムではないようだが、7+1発のオートマチック45口径による迫力の実射は過去の経験を完全に振り払った。

大排気量ハイパワーのスーパースポーツを手にしたような緊張をともなう高揚感。それをいきなり体験したM君はどう感じたのか。

あえて聞くことはしなかったけれど、今はオートバイ雑誌に異動した彼はクルマ以上の距離感であの時の印象を噛みしめているに違いない。

現代のクルマは、機械的な不都合は少なく、人間工学的にも比べ物にならない進歩を遂げ、拙(つたな)いドライビングスキルを補う数々のデバイスも充実している。

たとえば先の黄金週間に試したポルシェ911カレラS(タイプ991)PDKは、400psを難なく受け止める高い走りのパフォーマンスと上質なタッチの快適性を両立。クラシックなコンセプトと最新の技術の融合を実感させる、超モダンを実感する洗練された仕上がりだった。

すでに十分すぎるサイズへと成長したボディは、997以上にインテリアの質的空間的充実を追求したこともあって、ステアリングを握る者に"存在としての重さ"を印象づけるようになった。

それこそがタイプ991に唯一ついた疑問符といえるのだが、走らせてしまうとそれも納得となる。似つかわしいとは言えないジムカーナコースを試しても望外のハンドリングを味わえたし、デザインとエンジニアリングが織りなす雰囲気、味わい、タッチはどれも独特のオリジナル。

トータルパッケージで勝負する走りのセンスは、ブランド価値に違わない内容の深さとレベルの高さをまざまざと見つける。

空冷時代のコンパクトネス…それこそが、稀代の個性派スポーツカー911にとってかけがえのない価値である。多くのポルシェフリークが主張する意見には大いに賛同したいが、ついにストックで400psの大台に乗ったNA3.8ℓボクサーを引き受けるボディ/シャシーがこのスケールを必要とした。

高い水準が求められるようになった安全基準への対応だとを考えると、このボリューム感は理解できるところではある。

302㎞/h(7速MTは304㎞/h)の最高速は現実感には乏しく、実際に試す機会はほとんどないはずだが、ハイエンドスポーツカーの走りに嘘やごまかしがあってはブランドに傷がつく。極限に迫ったモノ特有のクォリティ感がポルシェの最大価値だったりもする。

リアルな顧客としての富裕層の嗜好は、ストイックさよりも日常で得られるFUNと快適性を求めている。それに対する回答が最新のポルシェ911.タイプ991ということなのだろう。

世界屈指のプレミアムスポーツ911カレラ Sは極端な例かもしれないが、現代のテクノロジーがビギナーのアクセスを容易にしているのは事実だろう。気難しさはどこにもなく、クラッチとシフトワークに煩わされることなく走れ、アイドリングストップまで作動する。

圧倒的な存在感としての重さに負担を感じない余裕の持ち主には、史上最良の911という評価はごく自然に胸を通ることだろう。

では、新たに免許を取得したビギナーの身体感覚はどうなっている? いままさにその瞬間を迎える人にしか分からない境地だが、はたして彼らのストレスは大幅に軽減されたといえるのだろうか。当然個人差はあるはずだが、僕はビギナーはシンプルにビギナーに過ぎないと思っている。。

2ペダルのPDKは、エンジンeng、トランスミッションt/mと運転者が直接メカニカルにつながり、自らの身体を介して御する面倒はなくなった。イージードライブ化の促進は、ハイパフォーマンスにアクセスする垣根を大幅に下げたが、その分身体機能が広がる余地、発展性は抑えられた。

スポーツカーの醍醐味は、自分の能力やセンスなどの身体性を楽しむところにある。評価を自分の内面に求める本質からすれば、自動化は明確なレベルダウンの元と断定されるべきだろう。

技術の進歩やインフラの質的向上によって、スピードに象徴される結果としての走りの可能性は高まったかもしれない。だが、肝心の走りのスキルはむしろ落ちてはいまいか。

技術が至らなかった過去よりも、エントリードライバーの能力が下がっている。スキルアップの機会を失ったことで、ドライバーの質が好ましくない方向に動いた可能性は否定できない。

ビギナーにとって未経験の100㎞/hは、未知ゆえの避けられない恐怖であり、克服するには経験を積むほかはない。いわば『運転"道"』の必須テーマということになるだろう。

テクノロジーの進歩とインフラの整備よって、ハードルは格段に下がったといえるが、障害がゼロになったわけではないし、今後消えてなくなることもない。

それをさらにクルマの安全ディバイスなどのテクノロジーや、ITSに象徴される道路インフラなどの整備によって極小化を目指す。そのような物言いには正直違和感を覚える。

僕がすでに何度も体験し、フィジカル/メンタルの両面でも克服している200㎞/hを超えるスピード。それは経験する意志も能力も機会も持たずに判断を迫られる行政官僚にとっては、客観値として危険であり、判断しかねる(というかその必要も感じない)トンデモナイ世界ということになるだろう。


少し前のここで話題にした300㎞/hなんて、自分には関わりのない別世界の話、宇宙旅行と同列で語りたい現実感が極端に乏しい無関係無関心な事柄であるに違いない。

多くの日本人がアメリカの銃社会に対して抱く漠然としたイメージ。現実感はまったくないのに、元来人とモノの関係は生活の中にあって、使う人の暮らしぶりに思いを寄せないと理解できないはずなのに、観念的にあっさりと捉えている。

そこにある銃の存在だけに注目して、周辺の事情や環境要因には関心を払わない。モノの改善だけで問題解決は図れると短絡する。

これも肝心なことは報じないメディアの問題と言っていいと思うが、後に責任が発生するような重要な判断が求められる時、自らの意見を述べずに、データや内外の役人、メーカーの見解を並べる。この辺は、銃をクルマに置き換えても通る話だろう。

日本のビギナーにとって未経験の高速道路100㎞/h走行は、おそらく僕がその気になれば難なく実現できるオーバー200㎞/h走行の何倍もの驚怖であるに違いない。高速教習で許された100㎞/hの法定速度はあって無きもので、散々教習所で習ってきた遵法速度では秩序を乱す側になりかねない。

現在高性能と評価されるクルマの実態は高速性能に秀でたクルマであり、ヒューマンファクターを除いた条件付きの評価指標に留まる。そこを言わずに、安全を外部に求めたところで何の意味があるのだろうか?

殺傷能力を最大限に追求した上で、使用は所有者の意志と能力に委ねる。銃は、所持を禁止すれば危険は最小限に留まるが、権利で認められているとなれば使用の可能性は飛躍的に高まる。

クルマの性能も考えると不思議だ。合法的に速度無制限を認めているのは、知るかぎりではドイツアウトバーンの一部でしかない。広大な原野の中を行く実質無制限の名も知らぬハイウェイはあるだろうが、先進国でも120~130㎞/hが高速道路の平均的な上限速度。アウトバーンでもドイツメーカー各社は250㎞/hでリミッターを作動させる紳士協定を結んでいたりもする。

日本の100km/hは先進国では最低レベルで、グローバル化した自動車産業にとって厳しい足かせになっていることは間違いない。クルマは道路が作る、とあるメーカーの名物テストドライバーは看破したが、日本の法律で縛られた道で作るかぎり国際競争力のあるクルマは作れない。

クルマを税制や有料道路や速度制限などの高コスト化で拳銃を取り締まるように厳重に縛り、ユーザーの使い勝手を考えることもなく、稼ぎ頭だった自動車メーカー開発陣全世界に向けたクルマ作りを後押しして成長に寄与する気概もなく、ただただ許認可権などの権限の維持に腐心する。


官も報(メディア)も共通するのは、失敗を恐れて自らクルマを運転することを徹底的に排除しているということ。自らステアリングを握ることを避ける者が権限を握り、取材するマスメディアも黒塗りのハイヤーで記者会見に押し寄せ、アイドリングストップどこへやらの体で路上に列をなしたりしている。


アメリカには約2億7千万丁の銃砲が存在し、事故や事件や自殺などで年間約3万人が命を落としているという。日本の年間自殺者数に匹敵する、それぞれに重大な問題だが、実は全米の自動車事故死亡者は年間約4万人を数える。


約2億4千万台保有のクルマのほうが、銃砲より多くの死亡事故に関わっている。アメリカのFMVSS(連邦自動車安全基準)は世界の自動車安全基準のベンチマークとされるもっとも早くから法制化された基準だが、その登場の背景には想像を絶するインモラル、不正使用、異常行動から善良な市民を守る…という発想が見て取れる。


ちゃんとしている人もいれば、そうではない人もいる。どちらも運転者には変わりはない。そういう視点で海外の安全基準のそもそもの生れた背景に思いを寄せるメディアはなかった。

いつの時代でも、初めてクルマに接する人は現れる。彼らに、確証はないけれどなんとなくそういうことになっている、といった分かったつもりの曖昧さで向き合うのではなく、いや実は世界はこう言うことになっているをバイアスをかけずに伝えたいもの。

そうやって考えると、いかに我々は本当のことを知らない、調べていない、実地で経験していないということに思い当たる。

ここから先は、メルマガ『クルマの心』を軌道に乗せて、自分の足で世界を歩く体制を敷いてからでないとどうにもならない。日本に直接関係のない、あるいは正しくてもその情報を持ってきてしまうとこれまでと帳尻が合わない……そんな話がゴロゴロしている。そうであって欲しくはないが、この国が本当に変わりたい気持があるのなら、情報の多様性による開国は不可欠だろう。

進む道はそっちだと思っている。

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