今では、カルロス・ゴーンの日産がトーランスの隣のガーデナから生産拠点のあるテネシー州に去り(2006年)、トヨタもヘッドクォーターをテキサス州に移転すると発表した(2014年4月)。アメリカンホンダはトーランスから動く気配はなく、オレンジカウンティの三菱(サイプレス)、マツダ(アーバイン)にも変化は見られないが、様変わりといっていいだろう。
万物流転、20年も経てば変って当然という気もするが、この20年の移ろいは無常という言葉をあらためて思い知る。
ポストバブルの1990年代前半、1980年代から長く続いた日米自動車協議が円高基調の高止まりによって輸出自主規制から本格的な現地生産化に転換。時代の変化に対応すべく、LA近郊の日本メーカー現地法人に顔見知りの広報マンが潤滑剤役として出向する時期が数年間存在した。
ZEV法関連では、とりあえず知己の各社広報担当やエンジニアを頼って取材の糸口を広げることにした。デトロイトスリー(当時はまだビッグスリーと言った)にパイプがなかったので、まずは日本語で理解する道を選んだわけだが、もちろん本丸のCARB(カリフォルニア大気資源局)のトップだけは外さずにTVカメラにインタビューを収めた。
きっかけは新聞のベタ記事だったが、この件で日本から取材に訪れたのはお前が初めてだと日系メーカー担当者にもCARBの関係者からも言われた。今はどうか知らないが、日本の新聞社の取材体制を知る最初の機会だった。
この手の情報は通信社任せで本紙の記者が自ら足を運ぶのは稀。記者クラブに所属して政府や企業などの情報源からもたらされる発表報道で紙面を埋める。組織の足並みを乱す独断専行は憚られ、特ダネを競うことよりも自社だけが配信漏れとなる特オチを何よりも恐れる。
一度いすゞがポーランドに設立したエンジン工場を二人の先輩ジャーナリストと新聞の記者クラブメンバーグループとともに同行取材したことがあるが、そこで目の当たりにした横並びの意識、抜け駆けを心底恐れる村人感覚にはほとほと呆れた。3.11震災・原発報道で露顕した記者クラブ報道の実態に、即座に納得したのはそんな経験があったからだ。
また手前味噌が始まったと言われそうだが、和を乱すことを恐れる余り真実から目を背けることがどれだけ後世に災いを残すかを知れば、俺が俺がという批判ぐらい屁でもない。
俳優のアーノルド・シュワルツェネッガーがカリフォルニア州知事在任中(2003~2011年)の2007年から始まったグリーンカーオブザイヤーの表彰式で生シュワちゃんを見てからもうこんなに?という感じだが、その間の時代の変化はまさにジェットコースター感覚。
リーマンショックにGM/クライスラー破綻に東日本大震災に超円高‥‥。初回のグリーンカーオブザイヤー当時はVWもアウディもディーゼル一押しで、ハイブリッドもEVもPHVもFCVも我関せず。ジャーマンスリーが電動化に舵を切ったのはEU委員会のCO2排出120g/km規制案が本気と判明した2008年以降の話である。
それまでは、トヨタとホンダが最先端を走っていた日本のハイブリッド技術を”使えない”と歯牙にも掛けなかったのに、120g/kmについで95g/kmが現実問題として浮上してからは、まさに手の平返しで『我々も長く研究してきた』と得意のプロパガンダで日本のお株を奪う電動化技術先進国ぶりをアピール。情けないことに自虐史観に染まった日本の自動車メディアは長年に渡る日本メーカーの研究開発を知らぬふりしたジャーマンスリー礼賛に明け暮れている。
7年前のドイツにはハイブリッドのハの字もなかったことを指摘する者は稀だ。BMWのiシリーズをたったの5年で市販化レベルに持ち上げた技術力はさすがだが、その量産規模とボディ素材のCFRPの調達を日本の素材メーカーに頼っている現実を正当に評価しようとしないのは何故なのだろう。
それがレギュレーションの自作自演に近いスーパークレジット狙いであり、120g/km規制対応の48Vのマイルドハイブリッドの一斉導入やその次の95g/kmをPHV化で凌ごうというスクラム体制も、純技術論を装って評価するのはなしにしてほしいものである。
ドイツメーカーのやりたい放題と、その懐柔策に取り込まれっぱなしの我が自動車メディアの体たらくを見るにつけ、こんなんでいいのかなあと膝を折る今日この頃。
トヨタブランド以外にもLEXUSのLF-2C(RCのコンバーチブルコンセプト?)とSCIONのiMコンセプト(オーリスベースのホットハッチ)をワールドプレミア。環境最先端から粋なオープンに若年層狙いの現実的なスポーツモデルとそつなく揃える。そのワイドな展開にいつにないやる気を感じた。
これに敏感に反応したのがVW/AUDIグループ。VWのゴルフ・ヴァリアント(ワゴン)ベースのHYMOTIONは、ミライの正式販売に慌てて対応したとしか思えない急ごしらえ。現在VWグループはカリフォルニアでFCVの実証走行を行なっているが、VWがパサート、AUDIがA7と北米市場での売れ筋で対応している。
ゴルフは日本国内で喧伝されているほどには米国市場での存在感はなく、LAでのワールドプレミアは完全にミライ対応。VW自慢のMQB (モジュラー・トランスバース・マトリックス)は当初からFCVのHYMOTIONの搭載を前提に開発されたというが、透視図を見るかぎり商品性はかなり怪しい。
ワゴンボディでもFCVシステム/コンポーネントが収まっているようには見えず、居住性やユーティリティの面でもコンセプトが成り立つようには思えない。ミライの当て馬という推測はまんざらでもなくて、プレスデイ2日目にはVWブースのどこにもHYMOTIONの存在が認められなかった。
今回はプレスツアーで初日だけ会場を訪れた日本メディアのグループもあったが、その事実を確認することなく情報を流している可能性がある。チェックしてみてほしい。情報戦はお互いさまだろうが、発表報道に慣れ親しんでいるとまんまと思う壺ということがあり得る。批評の精神ととりあえず疑う姿勢は欠かせないと思う。
ポルシェにとってカリフォルニアは有力なマーケット。Petree Hallという専用の定席をこれまでとは違ったレイアウトに改め、ここでワールドプレミアするのが恒例化しつつあるGTSモデルのワールドプレミアを行なった。今回は本流の911(991)カレラGTSを持ってきた。GT3、ターボがともにPDK化した今、最強の7速MTモデルがこのGTSということになる。
メルセデスベンツは独立ブランドとして立ち上げ失敗に終わったマイバッハをメルセデスベンツSクラスのデリバティブ(派生系)として再興する道を選んだ。リアドアとCピラー回りを中心に意匠を専用デザインとしたかなり本格的な6ライト仕立て。先だって発表されたPHVや後に追加予定のプルマンと合わせて6バリエーションを用意する布陣が着々と完成に近づいている。
これにパリでワールドプレミアなったSLS AMGの後継モデルAMG GTと同じ心臓が埋め込まれたAMG C63をドンッ、ドンッ。エコを睨みつつ、シェール革命で緩んだ消費者マインドに直球勝負を挑む、グローバルとは少し異なるマーケットの特性に合わせたセンスが目を引いた。いろんな意味で狡猾なドイツといったところだろうか。
で、肝心のデトロイトスリーはどうかというと、完全に世界の潮流とは離れた独自の世界観に戻りつつあるのでは? GMキャディラック以外のFORD、CRYSLERのプレスカンファレンスに立ち会うことはできなかったが、ブースのメインに存在感をアピールするモデルの顔ぶれに思わず唸った。
今回LAに入ってまず目についたのがガソリンスタンドの料金表示。レギュラーガソリンが1ガロン(役3.8ℓ)/3ドル近辺と、年初に比べると50セントの大幅下落となっている。最安値では3ドルを切るGSも見かけた。
こうなると路上の景色が一変するのはこれまで何度も見てきた現実だ。カリフォルニアは全米の中でも特殊な市場だといわれるが、比較的ガソリン価格が高くモビリティのクルマ依存が圧倒的な土地柄を反映してガソリン価格に敏感に路上を行くクルマのサイズやカテゴリーが変化する。複数保有が一般的な市場動向も関係するが、4ドル超えをした時などは本当に路上からSUVやピックアップトラックが姿を消した。
LAautoshow初日朝一のアウディに続いたCadillacのプレカンはインパクトがあった。ステージ上で仕切るのはヨハン・ダ・ネイスン。7月にインフィニティのトップからGMの上級副社長兼キャディラック部門社長に転じた。4月の北京ショーで自らが開発を主導したQ50 Eau Rougeについての僕の質問に笑顔で応えていたその人が、もう何年も前からキャディラックで仕事をしているといった態で滔々とスピーチをこなしている。さすがは経営のプロ、凄いもんだと思った。
フォードブースを覗くと、ニューヨークNYIASでは50周記念として1964年のワールドフェア(ニューヨーク万博)の際にエンパイヤーステートビル屋上にも飾られたマスタングが新旧シェルビー350GTともどもドォ~んと一角を占めていた。
クライスラーでも300Cとダッジ・チャレンジャー、チャージャー、ヴァイパーが往年の勢いを取り戻したかのように存在感を誇示し、合わせてGM、フォード、ダッジのピックアップトラック群もいつに増して明るく親しめるポジョンに展示されている。
シェール革命による先行きの見通しの明るさゆえか、現実的なガソリン価格下落を敏感に感じ取った上でのアピールなのか。そんな詮索などどうでもいいかと思えるようなあっけらかんとした雰囲気。リーマンショックのかなり前、ミレニアムのITバブルに湧いた頃を彷彿とさせる明るさ。現金といえばそうだし、国際感覚の欠如というのも間違いではないが、そんなことお構いなしの底抜け感が正直を感じられて清々しい。
現場を踏まないとこの感覚は分からない。人は必ずしも本音で語ってくれるわけではないし、肝心なことは隠されるのがビジネス界の常識でもあるが、隠そうとしても滲み出てしまう本音というものもまた人間の行いについて回る。エコの時代にそれはどうなのよ? それはそうなんだけど、アメリカらしいあっけらかんとした現金な変わり身は、理屈抜きに楽しそうに見えてしまうのだ。