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2011年8月24日水曜日

身体(からだ)と車(クルマ)


80年代の前半にタイヤの高性能化が始まった。1983年の9月からだったと記憶するが、当時の運輸省がそれまで乗用車の標準装着タイヤがアスペクトレシオ(偏平率)70%までに限られたところを見直し、60偏平のロープロファイルを認可することになった。

その情報を受けて、当時リプレイス(補修市場)用に流通していたすべてのブランド/銘柄のタイヤをある自動車専門誌に短期集中連載の形で請け負うことになった。

ハイグリップを謳ういわゆる高性能タイヤは、1978年に先頭切って世に送りだしたヨコハマ(YH)・アドバンと少し遅れて登場のブリヂストン(BS)・ポテンザが登場していたが、当初は認可の関係で70シリーズ。

ロープロファイルのスポーツタイヤといえば、インチアップコンセプトという画期的なアイデアで世界を席巻したイタリアのピレリP7の独壇場で、その後爆発的な進化を遂げる国産高性能タイヤはその背中を見ることに甘んじている段階だった。

まだ、タイヤについて確固たるテストモードを持っていたわけでも、十分な技術情報を得ていたわけでもない時代。僕は自分なりに考えてテスト項目とその方法を編み出し、何ヶ月かに及んだ連載をなんとかまとめ上げた。

タイヤをグラビアで10頁近いボリュームで連載する。当時としては画期的で、タイヤ評価をこなせるプロフェッショナルもメディアに近い者の中にはほとんどなかった頃。ちょうどその時に関西に新しいスポーツタイヤブランドを立ち上げるプランをもったメーカーがあって、その企画担当者の目に僕の名前がとまったらしい。

代理店を通して呼ばれ、いろんな経験を積む中で知り合ったのが明治大学の哲学教授の市川浩先生だった。身体論という考え方から書かれた『身の構造』という著書で知られる。当時すでに僕はFRにかぎる派になっていた。

先に触れたタイヤの短期集中連載で改めてドリフトを中心とするFRの走りの面白さ魅力を確認し、その立場からそのタイヤメーカーの人々に対峙することにしていた。

何かの取材の際に、市川先生と話すことがあって、「あなたの考えているドリフトとかFRという話は、異端に捉えれることがあるかもしれないけれど、あらゆる業界業種で、そのような今主流ではないけれど、新たな胎動は生まれています。自信を持っていいと思います」と励まされたことがある。

FRの魅力は、人間の身体に近いところにある。よく馬を例に挙げて「馬は後ろ足だけでなく、前足でも地面を蹴っている。自然界では4WDがノーマルな駆動レイアウトなのだ」という意見を聞いた。クルマはよく馬に例えられ、『人馬一体』という表現が説得力のあるレトリックとして用いられることがあるが、基本的な認識として誤りがある。

クルマは、動物として自らの意志を持つ別の生き物の馬とは違う。人がクルマに乗るというのはどういう状況か? この点については、市川先生が身体論の地平から考え出した人とモノとの関係を表す例えとして教えてくれた二つの話が今もなお記憶に鮮明に残っている。

まず、紙を切るハサミと人の関係。想像でもいいけれど、もしも近くにハサミと紙があったら読みながら確認してみて下さい。ハサミを手指に収め、紙を切る。ジョリッという切れ味を意識しながらということになると思うが、そのジョリッという感覚は、あたかもハサミを操る指がハサミの刃先まで伸びて"直に紙に触るような感覚を覚えながら"切っているはずだ。

この時あなたの身体はハサミの刃先まで伸びている。身体が拡大あるいは拡張している。人と人が操るモノとの関係は常にそういう状況にある。歩いていて泥濘(ぬかるみ)に足を取られた時、グニュッという感触を得るはずだが、その時の感じ方は、あたかも"足裏が地面に触れる靴底
まで伸びて、直に踏んだのと同じ感覚"でぬかるみを捉えている。

人とクルマの関係で言えば、ドアを開けドライバーズシートに収まった瞬間、あなたの身体はクルマの四隅まで伸び、ステアリングやABCペダルやシフトや各操作スイッチ類、視覚的な接触としてのメーター類……それらを僕はINTERFACE=インターフェイスと呼ぶことにした。今では誰もが普通に使うが、1980年代末に日立がCMで使い始めた便利な言葉をそれ以前にクルマで使った者はいない。

全長10mの大型トラック/バスを運転できるのも、この身体感覚の拡張というメカニズムによって可能になる。いきなり最初から対応できることは稀だが、学習によってドンドン感覚が拡大することは、誰もが経験とともに学んでいるはずだ。

FRの魅力は、クルマというハードウェアのシステムに人間の身体(からだ)が容易に馴染み、身体機能を拡大させやすいというところにある。
重量物のエンジンが前。駆動輪は後ろで、前輪は方向づけなどの運動のバランス取りに徹する。エンジン、操舵輪、駆動輪が並ぶその状態は、
ちょうど人間が伏せた形に重なる。

頭、手、足(その前に胴)が並費び、駆動輪が左に横滑りすれば、正常な三半規管とバランス感覚の持ち主なら、反射的に滑った左方向にステアリングを切ってバランスを取るはずだ。

スピードを優先し、他者よりも速く走ろうとすると、全部で5つしかない駆動レイアウトはすべて同じ方向でセッティングを詰めて行くことになる。レイアウトの特性による有利不利はあるけれど、セットアップはいずれもレコードラインをニュートラルなバランスでトレースさせる。勝ち負けは面白いけれど、本来の目的であるFUN TO DRIVEをリアルワールドで楽しむことは難しい。

日常生活の中では許されていないスピードに価値を置き、その優劣でクルマとしての出来を問う。これは厳しいだろう。技術が未熟で、超高速が夢だった時代ならそれも悪くはないが、すでに市販車で300㎞/hは現実になっている。しかし、そのスピードを制限なく楽しめる国はこの地球上には存在しないのだ。

スピードをある程度下げても、動きの面白さ、操る楽しさが残る。エネルギーミックスが進み、次世代自動車が幅を利かせるようになっても、ある一定以上の比率で絶対に純内燃機関のクルマは残る。その特長・個性を活かそうというなら、クルマは絶対にFRでなければならない。

機能・性能・パッケージングにこだわるなら、FFもいい。厳しい日本の冬道なら4WDは欠かせないだろう。でも、FRで間に合う地域に暮らす者なら、しかもクルマの走りを何よりも好むというなら、クルマはFRにかぎると言わなくてはいけない。

クルマは、単にメカニズムなどのハードウェアに人が乗るのではなく、人の身体がクルマの隅々まで"伸びて" 自分自身が走っている。認識を変えれば、そこに行くのが当然。クルマはFRでなければならないのだ。


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