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2011年7月7日木曜日

ファンタジア構想、再び。


書きたいこと、書かねばならぬことが山ほどある。どこから手をつけてよいやら、事態がここまで進んでしまうと、途方に暮れるばかり。ここはコツコツひとつずつ埋めて行く他はない。もっとも不得手とするやり方が残ったが、やっと観念した。


ここではまず、道路の話をしたかった。まだ何も始まっていないので過去形で言うのもおかしいが、クルマを語る上で基本中の基本となる「それが走る環境としての」道路、とくに世界でもっとも理不尽な高速道路とそれと接続するシステムとしての道路網については、折りを見て書き連ねたい。


今までの行き掛かりとその結果としてある現実を前提に考えるかぎり、何ひとつとして新しい時代には対応できない。自動車の世界生産第一位を維持している先進国であるにも関わらず、料金の徴収を念頭に置いた高速道路網が半永久的に存続するシステムの異常さについて自覚しないかぎり、日本の自動車産業の未来はない。

クルマは単に収益を上げる手段ではなく、モビリティによって社会を活性化するツール。その視点を欠いては、豊かな自動車社会など語ることすら憚られる。ま、これは追々議論したい。

運転する楽しさ、その多くはドライビングスキルにつながる話だろうが、これについても深く議論を尽くしたい。少なくとも、クルマ好きを以て任ずるなら、運転に対する興味が尽きることはないはずだ。楽しみ方は千差万別、十人十色だろうが、より欲張りに考えれば一人十色。能力さえあれば、多重人格のように様々なクルマの愉しみ方を変幻自在に受け入れられるほうが楽しいに決まっている。

時代の流れとともに、様々な流行が生まれ、技術の進歩によって手に入る現実が拡がってきている。でも、現実の環境は、地球という大きいけれど閉ざされた枠組みの中では何も変わってはいない。

クルマは、人と道と車というそれぞれに独立した"システム"が互いに重なり合って機能を果たすという意味で『三重のシステム』として存在している。いずれ、どこかで触れることになると思うので、深追いは避けるけれど、その視点に立った時に、クルマの好ましいあり方について考える仕組みの存在の必要性に思い当たる。

本来は、それは自動車メディアの守備範囲であるはずなのだが、すでに自動車産業の宣伝広告媒体として取り込まれてしまっている商業ジャーナリズムに多くを期待するのは難しい。そこを突き破るにはどうしたらいいか。遠く20余年前、バブル景気が盛り上がる前夜だったと記憶するが、ある自動車専門誌のコラムに標題の『ファンタジア構想』のタイトルで何回か書き連ねたことがあった。

まだ、パーソナルコンピュータが一般的ではなく、インターネットが普及するずっと前。そもそもは、1985年末の取材中の事故で入院中に読んだ『知価革命』(堺屋太一著)に触発され、通信を使ってコミニュケーションのネットワークを構築する発想を得た。

ちょうどゴルフのカントリー倶楽部のような感覚でつながるクラブ組織。当時のモーターマガジンのバックナンバーを読み直さないと正確を期すことはできないけれど、当時まだ30代後半の思考はその後の時代の変遷を振り返ると大したものだと自画自賛できるものがある。

残念なのは、時代の流れを追いながら為す術もなくここまで来てしまったことである。考え方は間違っていないと思うのだが、具体化するエネルギーを欠いた。随分歳をとってしまった今になってやる? まあ、ここまで生きてきてしまえば、あとはもうおまけだろう。幸いというか、失うものもない。

というわけで、このブログの標題にも付いている『動遊倶楽部』設立に向けて本格始動します。自ら宣言しないと空念仏で終わってしまうので、公にすることで明確な意思を示したい。無一文の段階から膨大な資金を必要とする大風呂敷がどこまで拡げられるでしょうか。まあやるだけです。

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