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2011年6月14日火曜日

道路について思うこと

■初体験は土砂降りだった(ノルドシュライフェの記憶)

  「クルマを創るのは道ですよ‥‥」トヨタのマスタードライバーとして多くの人々に慕われた故成瀬弘は、ことある毎にそう話してくれた。「ニュルもいいけど、あそこでクルマを仕上げちゃうとおかしなものになっちゃう。今では開発の主体というより最終確認の場という位置づけ。ヨーロッパにはもっと凄い道があちこちにあるんです‥‥」。

  ニュルとはもちろんドイツ中西部アイフェル山中にあるサーキット、ニュルブルクリンクのことだ。1927年に開設されたNordschleife(ノルドシュライフェ:ドイツ語で北コース)は、当初22.8㎞の長大な距離に172のコーナーがレイアウトされた難コースとして勇名を馳せている。

  高低差は約300m。変化に富んだ地形を駆け抜ける路面はほとんど普通のワィンディングロードと変わらぬ幅員で、数mのコースオフエリアの先は即ガードレール。 摩擦抵抗係数も通常のレーシングトラックほどには高められていない。

  クルマに対してだけでなく、ドライバーに高いスキルと精神的タフネスを要求することから、魅了されてその価値観に浸り込むドライバーや自動車の開発者が後を絶たない。

  僕がここを最初に訪れたのは1984年のことである。当時関わっていたタイヤ会社にプレスツアーの企画案を求められて、この歴史あるサーキットに白羽の矢を立てた。タイヤの評価を手掛けるジャーナリストを招待して、新製品でここを走ってもらうというプランだった。

  当時のニュルは、まだ知る人ぞ知るマイナーな存在。1967年に生沢徹がホンダS800で国際格式の500㎞レースを制覇(日本人初)し、1976年のF1ドイツGPではフェラーリの時のエース、ニキ・ラウダが炎上事故で瀕死の重傷を負う‥‥そんなニュースが一部メディアで報じられたりもしたが、世界最長のクローズドレーシングトラック、ニュルブクリンクを知る日本人は限られた。

  実は、このニュル企画の前に、もう一つヨーロッパの伝説的なレース、タルガ・フローリオを取り上げていた。ならば次は‥‥という流れでニュルブルクリンクということだった。目のつけどころは悪くなかったと思う。誰を呼ぶかという人選にも関与したが、リストアップした面々は皆いまや走りに一家言持つ大御所ジャーナリストに成り上がっている。

  1980年代後半になると、急速に力をつけてきた日本の自動車産業はせっせとニュル通いに励み出す。まず欧州プレミアムスポーツカーブランドへのOEM承認を狙うタイヤメーカー、次いで国際規格のスポーツカー開発に目覚めた自動車メーカー。やがてイケイケのバブル爛熟期に突入し、猫も杓子もニュルという状態になったが、84年のニュルはまだまだ牧歌的な雰囲気の中にあった。

  ノルドシュライフェはとにかく長い。地形のあるがままを行くコースレイアウトは、距離相応の変化に富み、習熟にはかなりの時間を要する。初見参はあいにくの強雨。現在では路面μが極端に下がるヘビーウェットでは走行禁止となるのが普通だが、スケジュールに猶予がなく走りが強行された。

  僕はリスクを考慮して、まずは当時出たばかりのアウディ・クワトロを選んだのだが、それでもコースインしてすぐのクランクコーナーで簡単にクルッと回った。別のクルマでは、どぉ~んと下った先が右コーナーの手前でタイヤがロック。心臓が口から飛び出す思いを味わった。まだABSが普及する前の話である。

  その時F1経験もあるT.ニーデルが姿を見せていた。この企画に関係していたモータースポーツジャーナリストA君が連れてきたのだと思う。ニーデルのドライブするクワトロの助手席に乗り、異次元の走りに衝撃を受けたのが当時気鋭のS君。日本の自動車メディアが初めて経験するニュルが、わが国の自動車史に何がしかの影響をもたらしたのは本当だ。

  たとえ良好なコンディション下であっても、コースを確実に把握していないと歯が立たない。当時まだ30代前半の僕にとってもニュルは衝撃的な原体験だった。最低一週間は通いつめて身体に叩き込む必要がある。どっきりする経験を何度もして、そのことを学んだ。

  魔物が棲むと言われる奥の深さに、ノルドシュライフェにはまる者が今も後を絶たない。日本人のニュル詣でが、長い間く忘れられていた伝説のサーキットを蘇らせた。R32GT-R、NSX、SUPRAの開発拠点としてクローズアップされ、ポルシェをはじめとする地元ドイツメーカーがこれに呼応する。

  世界で覇を競い合う日独メーカーの対抗意識がニュルブルクリンクの聖地化に拍車をかけた。さらに、  最近ではポリフォニー・デジタルのシュミレーションゲームソフト、グランツーリスモ(GT)シリーズがニュルブルクリンク・ノルドシュライフェを世界的な存在に押し上げた。

  GTは、1997年に第一作が発売され、昨年発表されたGT5にいたるシリーズは全世界で累計6315万本(2010年12月)の出荷を記録しているベストセラー。単なるゲームソフトではなく、リアルに徹底的にこだわった精緻な作りと技術データに基づく科学的なアプローチは、ドライビングスキル向上の有効なトレーニングツールとしても注目を集めている。

  コースレイアウトが景観や設備のディテールとともに精密に再現してあり、マシンの仕上がりもシュミレーターを名乗るほどリアルなので、まずは圧倒的な情報体験をリスクを負わずに積むことができる。ドライビングスキルを左右する視覚情報の集積というトレーニング効果は馬鹿にならない。  このバーチャル/リアル体験を徹底的に重ねて行くと、最小限のリスクでコース習熟が可能となる。

  最新のGT5は情報蓄積という意味では実体験とまったく変わらない。実際にGTシリーズの総合プロデューサー山内一典は、数千ラップに及ぶGTでの経験を重ねた上で現地入りし、耐久レースの本番を難なくこなしてみせた。現在ではF1を含む世界の一線級レーシングドライバーの多くが、このデジタル体験によってコース習熟という難題を克服しているといわれるが、理解できることだ。

  ルーキーのF1パイロットが、初めての鈴鹿や富士にあっという間に適応して、地元のローカルドライバーが舌を巻くスピードを見せつける。その裏にGTシリーズありというのは本当だろう。

  ポリフォニーデジタルでは、2008年からヨーロッパの10ヶ国を対象にGT5でドライビングスキルを磨いたユーザーによるオンラインタイムアタックを実施。その上位各国3名を一同に会して実車(日産370Z)による最終選考を行い、優勝者を実戦デビューさせしまうという画期的なプログラム『GTアカデミー』を欧州日産とのコラボでスタートさせている。。

  かつてある専門誌で行ったインタビューに「いずれバーチャルはリアルを超えます」GTのプロデューサー山内一典は力強く答えた。GTアカデミーはその果実のひとつということだが、そう遠くない将来日本でも同じような企画が動き出すことになるかもしれない。

■アウトバーンは世界で唯一の"ハイパフォーマンス・フリーウェイ"

  ブラインドコーナーが連続するテクニカルなレイアウトとマシンによっては300㎞/hを超える最終の長い高速直線区間。ノルドシュライフェは、トップパフォーマンスを競い合うプレミアムスポーツにとっては、そこでの優劣が直接ブランド力に影響するという点で重要な意味を持っている。

  もっとも、その実態は速度無制限区間が残るアウトバーンと同様、完全なる非日常的な空間だ。そこでの『スピード』を評価や価値判断の中心に据えてしまうと、かなり曲がったコンセプトのクルマになりかねない。これも故成瀬弘が残した遺訓である。

  そうであるはずなのに、まだ考え方を改める動きは主流になってはいない。 ニュルブルクリンクとアウトバーンは、いまなお世界の自動車の評価に強い影響を及ぼすドイツ価値観の象徴といえる。

  そこでの超高速が日常的に消費可能か否かはすでに明らかになっている。ドイツを含む世界中のどの国でも現実的ではない。にもかかわらず、我々はまだスピードに代わるクルマの魅力や価値観を見出してはいない。

スピードに象徴される高性能が、今日もなお世界の技術トレンドの覇権を握って最大要因になっている。エコが問われるようになって久しいが、そのためにスピードを現実的なレベルに下げるという考え方が検討されてもいいはずだが、そのような意見が主流になる機運は盛り上がりそうにない。

  200㎞/h オーバーの日常性に乏しいスピードにすがらなくたって、現実のクルマによるモビリティは十分に楽しい。アウトバーンをごく普通に走り、郊外の一般道を往来するだけでもクルマの魅力は堪能できる。ドイツでクルマを走らせて常々実感することである。

  世界最強の道路システム・アウトバーンは、単に高速道路として存在しているのではない。当然のことながら主だった一般幹線道と連結し、ネットワークとして機能するようにデザインされている。全国に分散した都市を適度なスケールに留め置く道路網の充実と、無理のない都市の規模が生むゆとりと社会インフラの充実は、中央と地方という対立構造を伴う極端な格差を生み出さない。

  超高速で走るリスクを負うまでもなく、ファンtoドライブを満喫しクルマの楽しさを実感することができる。 いや、アメリカのフリーウェイやイギリスのモーターウェイなどの無料高速道路網を有する国を走らせてもまったく同様で、クルマは本来こうやって使いこなすもの‥‥問題の本質が何なのかについてすぐに思い当たることになるはずなのだ。

日本でのクルマの使いにくさの根本はどこにあるのだろう?密集.した都市空間では、東京もニューヨークもロンドンもパリもフランクフルトも上海もバンコックもサンパウロもない。大きな人口を抱える都市ではどこでもクルマの非効率は問題になっている。

  山がちな島国で、南北に長く、四季がはっきりしている。変化に富む豊かな自然に恵まれた日本の国土、風土は世界的にも胸を張れる美しさがある。ただ、その往来や居住地などの人為が及ぶところがいけない。景観は自然との調和とともに形作られるものという考察に欠け、全体をデザインしようという発想が貧弱だから、色や形として抽象的に捉え、伝えられるイメージがない。

人が往来する道路は、基本的に封建時代の中央と各藩諸公の二重統治をそのまま引きずっているようだ。道路は幕府と都を起点に伸びる一方、地方のそれは地元の地縁や血縁を優先する縄張り意識が垣間見れる排他的な構造になっている。

  中央集権と村社会の複合構造。高速道路にしても主要幹線国道にしても、江戸時代の五街道のように中央に向かう参勤交代のための道として考えられていて、分散型ネットワークとして全国を繋ぐという発想では形作られていない。地方は地方で不便よりも他者を阻む地域独占を優先する癖があるようだ。

  先日、東日本大震災の被災地を岩手・宮古~宮城・仙台、気仙沼~福島・相馬と巡ってみて、この国にはまだ徳川幕藩体制のマインドが残っているのではないか。ふと思うことが多かった。東北に伸びるのは基本的に内陸を貫く東北自動車道一本だけ。沿岸部は、およそ世界第3位の経済大国とは思えない貧弱な道路インフラのままとなっている。

  茨城以西、以南では充実した太平洋沿岸も、いわきの先から仙台の手前までの常磐道が未通。浜通りの幹線道は国道6号一本にかぎられ、原発災害の半径20㎞以内立入禁止措置のためにいわき市まで南下しようとすると、一旦中通の国道4号か東北自動車道まで行ってぐるっと迂回しないと至れない。

  相馬市から東北国見ICに至る一帯は、美しい里山の景観がつづく田舎の原風景を見るような懐かしさの湧く土地柄だったが、よそ者を歓迎しない素朴さも感じた。国道113、115号線は、ちょっと整備したら一級の観光資源になるだろう。

  いっぽう中通りの動脈たる国道4号線は、その規模と設備が印象的だ。2~3車線がずっと続く福島市から郡山市までの区間は、中央からさらに北への物流経路にすぎない東北道など不要と思えるほどの充実ぶり。漁業などの一次産業で生きる相馬などの沿岸部とはかなり印象が異なる。

  福島県は、これまで中通や会津地方ばかりで、浜通りに足を伸ばすのは初めてだったが、これまで思っていた以上にこの県は豊かという印象をもった。そこに原発がどう絡んでいるのかは分からないが、今回の原発災害でその富を人々が手離すことができるだろうか。とても難しい問題が控えているような気がしてならない。

  宮城から岩手にいたる三陸地方も拓かれたイメージとはほど遠い。仙台から沿岸よりを北に目指す三陸自動車道にしても、花巻から釜石に伸びる東北横断道路もいつになったら全通するか分からない。

  リアス式の海岸線には、思った以上に多くの人々の暮らしがあって、そこが悉くやられてしまったわけだが、世界屈指の漁場と地震と津波さえなければ天然の良港といえる好条件を守るには、便利になりすぎるのも考えもの。盛岡から宮古市までの狭く長い道のりを走らせ、行き着いた先の惨状を目の当たりにすると、ここには別の価値観があったと思わざるを得なかった。

  目を日本海沿岸に転じても、高速道路をネットワークとして捉えようとしているようにはみえない。中央から遠隔地については、現在の人口などから割り出された需要をベースに考えて優先順位をつけ、後付けの採算性論議によって計画を先のばしにする。まず中央の考え方かあって、地方はその従属物としての地位に留まっている。

  連邦共和制を採用するドイツは現在16の州で構成され、中小規模の都市をバランスよく配置する全国分散型の国作りを目指している。最大の首都ベルリンでも人口は300万人台。全人口は日本の約3分の2(8000万人)だが、100万人都市は他にハンブルグとミュンヘンがあるだけで、多くが数10万人の規模となっている。

  この偏りなく点在する都市間をつなぐのがアウトバーン。当然のことながら無料で、都市間を密に結ぶいっぽうで、周辺の一般道路とも有機的に結びついている。ドイツはグローバル化した自動車市場で競い合う日本にとって最大のライバルだが、クルマの技術展開もさることながら、クルマを活かす使用環境の整備において決定的ともいえる差をつけられている。

  モノ作りが大事とこだわるいっぽうで、その前提となる良いモノのベースとなる使用環境には無頓着。クルマでいえば、それがないと走れない道路の整備とそのクォリティ/性能の確保が欠かせないのに、妙な採算性などの経済合理性が幅を利かせるようになっている。財政破綻の原因は、それを仕切ってきた行政官僚の失敗にあるのであって、その検証もせず、制度や仕組みの改革を成すことなく財政赤字のツケを民間に回すなどとんでもない。

  まず既得権益をはぎ取った上で、基本的には徳川幕藩体制と何ら変わらぬ状況を改め、新たな成長戦略とともに国を作り直す。ネットワークとしての道路はその前提条件になるはずだ。

 日本の高速道路の現実が、 世界のどこにもない極めて異常で不思議なものであるという事実から話を始める必要がある。アウトバーンやフリーウェイやモーターウェイを一度でも走ったことがあるなら、基本無料でネットワークとして機能している高速道路が本来あるべき姿だとわかるはずだ。

 日本にはニュルブルクリンクはないが、トヨタとホンダと日産と三菱がその影響を少なからず受けたテストコースを北海道にそれぞれが保有している。ニュルは一般にも公開されるパブリックな存在だが、日本にあるのは私企業の生産の現場というおよそ文化とはかけ離れた似て非なるもの。

 なぜこんなことになってしまったのか。もう一度ここから話を始める必要があるのではないだろうか。しばらくこの話題にこだわってみたいと思います。

2011年6月3日金曜日

プリウスの話をしよう

■僕がプリウスを買った訳 

  わが家にはすでに8年近く乗り続けているプリウスがある。2代目のNHW20型で色は黒。すでにオドメーターは8万㎞に迫っている。一昨年までは99年式の白いS2000も持っていて、こっちが主力マシンだった(手離した時には14万㎞を超えていました)ので、これでもけっこう乗っているほうだろう。

  DRIVING JOURNAL@動遊倶楽部は、タイトルの説明にもあるとおり、"クルマはFRでなければならない"というちょっぴりカルトなFR絶対主義を基本的な行動規範として掲げます。この話は長くなるので追々触れて行くことにしますが、なんでそれがプリウスなんだ? もっともな疑問だと思います。

  実は、このプリウスの前はアルテッツァでした。現行レクサスISの前身(というか和名ですね)の購入は、発表直後の1998年10月。「魅力的な国産2ℓ級FRセダンが登場したら必ず買う」80年代からの広言を実行に移した結果でした。翌年にはS2000が加わり華麗なるFR2台体制が完成します。

  S2000は、ホンダが創業50周年を記念して30年ぶりに世に出した、S800以来のFRスポーツカー。ホンダとは80年代後半からFFvsFR論争を闘わせた間柄です。積極的に開発を求めた手前引っ込みがつかなくなり、こっちも購入することに。リーマンショック以降の経済状況の悪化のあおりでやむなく手離し、FR絶対主義が看板倒れ状態になったのは残念ですが、まあ人生山あり谷ありです。

  プリウスNHW20購入を決断したのは、実はFR絶対主義のさらなる理論武装のためでした。すでに時代は石油需給の逼迫と新たな環境問題が浮上。先進国を中心とする世界の関心は、経済発展から環境保全へと移っていました。

  それまで無害と信じられてきた二酸化炭素が、突如地球温暖化という新たな課題の問題物質として急浮上したのは驚きでした。我々がそのことを身近な問題として知るきっかけとなったのが、1997年に京都で行われたCOP3(気候変動枠組条約第3回締結国会議)、通称京都会議でした。

■カリフォルニアで知ったプリウス登場の背景

  私は、これもある日突然新聞が報じはじめた米国カリフォルニア州の大気清浄法の実態を確かめようと、ちょうどその頃始まったCSTV朝日ニュースターのレギュラー番組で現地取材を行ってます。1995年のことでした。

  加州大気清浄法‥‥世に言うZEV法は、カリフォルニア州で一定以上の量販規模を持つメーカーに対し、排気ガスゼロのクルマを1998年に2%、2003年までにその比率を10%に高めて販売することを義務づけるという法律です。州法ですが、全米最大の自動車市場の影響力は後に全米規模に及びました。当時ゼロエミッションビークル(ZEV)といえば、鉛バッテリーの電気自動車(EV)です。

  ZEV法がターゲットとして狙いを定めたのはロサンゼルス(LA)市の大気汚染でした。当時のLAは、午前中は洗濯物を外に干せないといわれるほどスモッグが問題視された状態。飛行機でLAXにアプローチする際に、それははっきりと目で見て理解できるものでした。(下の写真は2009年)

  しかし、取材を行ってみると、ことは単純ではありませんでした。太平洋を背に三方を山で囲まれた地形と乾燥した気候がLAの環境問題の物理的な核心です。これにクルマがないと生活が難しい全面的てクルマ依存の社会構造が重なって複雑化します。

  基本的に大気が滞留しやすいところに、エミッションをまき散らすクルマが大量に存在する。乾燥した環境はクルマの老朽化を遅らせ、経済力の乏しい人々はやむなくそういう古くて大きいアメ車に乗る。 当時ガソリンは水より安いガロン/1ドル台だったので、燃費は問題にならなかった。そして、そういうクルマに頼るのは非白人系が多い低所得者層。現在でも基本的な構造は変わらないと思います。

  これらの要因をつなぎ合わせると、LA固有の地形や気象というシンプルな地域環境の話から、人種 問題に飛び火し、その向こうにある政治や経済、さらには産業構造や雇用の問題へと際限のない広がりを持っていることに気づかされました。

  最新モデルに比べると何倍ものエミッションを垂れ流すクルマを廃棄し、新車への買い換えを促進すれば、LAの大気は劇的にクリーンになる。問題解決の糸口は実は予想外に単純なものでした。しかし、それを実行に移そうとすると、政治や経済の社会問題に直結してしまう。買い換えの費用をどうするか?低所得者層に無理強いをすれば、その政権が次の選挙で勝つ可能性は激減してしまいます。

  当時は、ソ連の崩壊にともなう冷戦構造の終焉が明らかになった時代でもありました。巨大な軍需産業で働く優秀なサイエンティストやエンジニアの大量失業が社会問題化しつつあった。その有望な再雇用先として注目されることなったのが、ZEV法のコアにあるEV(電気自動車)をはじめとする次世代エネルギー車だというのです。

  カリフォルニア州が発端となったゼロエミッションビークルは、背景にアメリカという国が抱えるあらゆる問題を浮き彫りにする存在。現地で確かめることもなく、特派員のリポートをベタ記事で掲載して分かったようなことを書いている新聞記者が思いも寄らない現実がそこにありました。

  余談ながら、ZEV法がらみで日本から取材に来たのはお前が初めてだと、複数の在LA日本メーカーの広報担当者に言われました。

  95年当時はビル・クリントンの民主党政権時代。ZEV法は同政権2期目の97年以降さまざまな抵抗にあって骨抜きにされ、2001年からのブッシュ共和党政権下では完全に忘れ去られてしまいます。09年にバラク・オバマの民主党が政権を奪取し、グリーンニューディールを掲げたところから再びEVに注目が集まっています。

  来年(2012年)にはZEV法が本格的な実施プログラムに移行することを考えると、EVはそもそも政治的な存在だったということがおぼろげながらも理解できますね。この加州ZEV法がきっかとなってEVやHEV(ハイブリッド)、FCV(燃料電池車)などの次世代エネルギー車が注目を集めることになるわけですが、あの頃のカリフォルニアでCO2が問題視されることはありませんでした。

  「それが電気だろうが、ガソリンだろうが何だろうが、このカリフォルニアの空がクリーンになるなら手段は何でも構わない」単独インタビューに応じたCARB(カリフォルニア大気資源局)のダンロップ局長はシンプルにそう言いきりました。

気がついたらCOP3で日本は90年の排出量の6%減というCO2削減案が提示され、いつのまにか欧州が問題視した二酸化炭素問題とカリフォルニアのZEVが合体して世界的なエコカーブームが出現してしまった。サマリーだけでもこれだけ複雑になってしまうのですから、詳細を伝えようとしたらえらいことです。

■米人ジャーナリストが「パワーは十分、もっとエコでもいい」って言うんです(粥川CE) 

  諸々は折に触れて書くということで勘弁してもらって、プリウスの最新作の話をします。プリウスαは、今年のNAIAS(北米国際オートショー=デトロイトショー)でワールドプレミアされたプリウスの派生モデルの日本国内向けの呼称で、NAIASで公表された北米モデルはプリウスVでした。

  日本国内市場向けのプリウスαには、2列シート5人乗りと3列シート7人乗りが設定されている。北米にはこの内の2列5人乗りのみが設定され、欧州は日本と同じ2本立が予定されている。写真上が5人乗り、下が7人乗り。センターコンソールの形状に注目。

  5座と7座の違いは、北米仕様ともいえる前者が従来のオリジナルプリウス同様のニッケル水素をリアシート後ろのフロアに収め、その位置に3列目シートが来る後者はセンターコンソールにコンパクトでエネルギー密度の大きいリチウムイオンバッテリーを搭載。重量と性能が互いに相殺されることで両者の走りパフォーマンスはほとんど差のないレベルに収まったという。

  オリジナルのZVW30型のデリバティブ(派生モデル)として新たにプリウスファミリーの一員に加わったプリウスαは、フロントマスクやエアロコーナー、特徴的なトライアングルフォルムのルーフラインなどでイメージの共通化を実現しているが、外板はほぼ別仕立て。

  80㎜のホイールベース延長やルーフラインを高いまま保ちファストバックからハッチバックへと大きく変わった。プロポーション的にはまったくニュアンスが異なるけれどイメージがブレていない点が興味深い。

プリウスαが狙うのは、オリジナルプリウスのようなコンセプチュアルな理想主義的スタンスではなく、実用上のメリットの最大化。(写真上が5人乗り、下が7人乗り。いずれもスムーズな乗降性と余裕のあるヘッド&ニールームが印象的。使い勝手はオリジナルプリウスより断然上)

  日欧に用意される3列7人乗りは、実際にそういう使い方をするかどうかはともかく、”いざという時に”という日本人が好むエクストラバリューに商品価値を求めている。北米で割り切られた5人乗りの狙いはとてもシンプルだ。大きな体格のパッセンジャーがリアシートに座っても苦痛を覚えない。

  適度な高さに設定されたシート着座面とフッド&ニースペースの余裕。リアルな使用状況を考えたら、こっちのほうが断然正しい。重量増や車体の大型化はエコカーに好ましいものとは言えないが、重要なのは現実的な使用状況下での商品性。

  実際にステアリングを握ってみると、この大地らかな解放感は悪くない。ちょっと首をすぼめなければならないオリジナルプリウスの後席がNGという人には朗報だ。そういう使われ方が現実にされるかどうかはともかく、タクシーへの転用を考えると、これはなかなかのものだ。

  走りの洗練度はちょっと心が動くものがある。つい先だって、南カリフォルニアで北米プレス向けの試乗会に立ち会ってきたという粥川宏主査は、「走りは十分だよ、もっと燃費に振ってもいいのでは?」アメリカ人の意識を変化を実感させるジャーナリストのコメントが印象的だったという。

  現在カリフォルニアでは1ガロン(3.8ℓ)/4ドルを超えていたということで、ガソリン代に敏感なアメリカ人の消費マインドは完全に省エネダウンサイズに移行している。どこの国でもジャーナリストは一般ユーザーの気分を汲み取り、その代弁者として行動したがるもの。

  ガロン/3ドルを割り込むと、さっさと大きなSUVやライトトラックに切り換えるアメリカ人気質も、いよいよ大きく変化しそうな状況にあるようだ。

  走りのセットアップについては、あえてコンフォート重視であたりの柔らかい落ち着きある味付けにこだわった。北米市場では、アジりティ(俊敏性)が求められているということで、日本で乗るのとはかなりニュアンスの異なるセットアップがなされていることが多い。

昨年の話になりますが、NYIAS(ニューヨークオートショー)取材の帰路LAに立ち寄って、プリウスとフォードのハイブリッドセダン、フュージョンの乗り比べを行ってみました。記事を買ってくれる媒体がなかったのでお蔵入りになっていたのだが、ちょうどいい機会なのでその時の印象を少し書きます。


  日本では地味な印象をもたれやすいフォードのオーソドックスなセダンルックをベースにしたフュージョンだが、プリウスと乗り比べてみると「こんなに洗練されている?」角の取れたしなやかな乗り心地にちょっと心打たれるものさえ感じた。翻ってプリウスは‥‥だが、けっこう固めてこんなに粗かった?日本で乗って感じるのとかなり隔たりのある評価を下さざるを得なかった。

  まあ、リクエストがあったら、プリウスとフュージョンの詳しい比較の話をしようと思いますが、この時の経験が粥川リポートを素直に聞ける材料となったのは間違いありません。どちらかというと日本以上に走り志向のジャーナリストが多いアメリカで、40マイル/ガロン以上の燃費を叩き出し、その数値に一喜一憂しているような人々が増えた。その事実は、変わり行くアメリカの現実をかなり忠実に描き出しているのではないでしょうか。

  マインドが変化すれば、走りの評価も動く。同じ方向に一色で染まるのはつまらないけれど、一面能天気なアメリカ人が燃費コンシャスに振れてきた。こういう多様性はとりあえず歓迎したいと思う。

  エコがあって、カタルシスにのめり込むエモーショナルな走りの魅力もある。それが好ましいあるべき姿。その文脈で、老若男女が走りに酔い痴れるコンパクトFRスポーツがあってもいい。ちょっとオチが強引でしたかね。